飛脚(読み)ヒキャク

デジタル大辞泉 「飛脚」の意味・読み・例文・類語

ひ‐きゃく【飛脚】

手紙・金銭・小荷物などの送達にあたった者。古代の駅馬に始まり、鎌倉時代には鎌倉・京都間に伝馬による飛脚があったが、江戸時代に特に発達。幕府公用のための継ぎ飛脚、諸藩専用の大名飛脚、民間営業の町飛脚などがあった。明治4年(1871)郵便制度の成立により廃止。

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精選版 日本国語大辞典 「飛脚」の意味・読み・例文・類語

ひ‐きゃく【飛脚】

〘名〙
① 鎌倉時代から江戸時代まで、文書・金銭・小貨物などを送達する使いや人夫をいう。その源流は古代の駅馬に発し、鎌倉時代には京・鎌倉間に早馬を用い、七日間で通信の速達にあたり、鎌倉飛脚・六波羅飛脚・関東飛脚といった。その後、駅伝の法が衰退したが、戦国末期に復活、江戸幕府が通信機関として採用し、その整備に努めた。幕府公用のための継飛脚諸大名が前者にならって設けた大名飛脚、民間の営業にかかる町飛脚の三つに大別される。なかでも町飛脚は、のちには公用通信の一部も託され、もっとも大きな役割を果たした。明治四年(一八七一)、欧米式の郵便制度の採用によってすべて廃止された。
吾妻鏡‐治承四年(1180)九月七日「遣飛脚於木曾之陣、告事由
② 他人の急用の使いをする者。
※浮世草子・新御伽婢子(1683)二「其比此僧の母煩(わづらふ)事ありとて飛脚下りければ」

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改訂新版 世界大百科事典 「飛脚」の意味・わかりやすい解説

飛脚 (ひきゃく)

速く走る者,手紙を運ぶ者という意味で,鎌倉時代に京都と鎌倉との間を連絡する飛脚の存在が知られているが,古来支配のある所,人と商品の往復する所には必ず広義の飛脚がいたはずである。人足としての飛脚は,最近まで大阪の私鉄沿線で客の依頼により品物を購入して運ぶ飛脚屋として残っていた。なお近世には人足としての飛脚を上下(じようげ)と称することがある。
執筆者:

飛脚の語は,だいたい平安時代の末ごろから現れ,中世以降頻出する。初めは鳥を用いない通信使すなわち脚力と同義に用いられることが多いが,一般には乗馬の急使を指すようである。室町時代の《下学集》には飛脚すなわち急脚とある。この意味で飛脚と早馬,早打などとの区別はつけにくい。ただ鎌倉時代に早馬は多分に幕府の駅逓制度にからむ公的名辞であったのに対し,飛脚は私的な場合に使用されることが多い。飛脚の語源は古代律令制度下の飛駅と,その後現れた脚力の二つを織り合わせたものかとの説もある。
執筆者:

近世の飛脚については,まず幕府が宿駅制度の下で実施した公用の継飛脚があり,各宿に人足が置かれ,川留解除には最初に渡河した。各藩には江戸と大坂と各城下町を結ぶ飛脚があり,尾州,紀州,姫路,雲州などの七里飛脚が有名である。雲州の場合,士,士格,卒,軽輩と分けたうちで,御七里は百人者として最下級の軽輩に属した。また藩内には城下町と主要な町を定期的に連絡する飛脚がある。

 一般には三都およびその周辺各地を連絡する飛脚屋があり,百姓町人のみでなく一部は藩などの飛脚業務も請け負った。三都間では江戸の定(じよう)飛脚,京の順番飛脚,大坂の三度飛脚が有名である。江戸の成立事情を反映して江戸と京,大坂との連絡に従事した。定,順番,三度などの言葉は定期的という意味を含んでいる。京飛脚というように地名が頭にあるときは,一般にその地名の所への飛脚を意味している。江戸の飛脚屋として有名なものに十七屋がある。田沼期の勘定奉行と関係し北国米買上げ事件で死罪となった。ほかに現在史料の多く見られる嶋屋,明治期の郵便の成立に伴う飛脚問屋の内国通運への脱皮に際して中心となった和泉屋などが知られている。幕末の開港場には,当然各地と連絡する飛脚が,従来の店が進出する形でできた。近世でも江戸および東北地方などに関西の商人が進出するときには,在地の飛脚が上方の飛脚屋に乗っ取りに近い形で営業網に繰り込まれる場合がある。なお大坂と長崎との間には,大坂と西国地方との商業上の連絡,幕府の長崎奉行との連絡のため長崎飛脚が大坂にあり,中国路の利用以外に瀬戸内の早船の利用も行われた。各街道の宿場では脇本陣,問屋と宿屋が飛脚業務に従事した。飛脚の取扱品目は書状,現金,為替,生糸,農産物などで,通信のみでなく物資輸送にも従事した。馬方のついた幾匹かの馬に1人の宰領がいて指図している。都市内では町飛脚があり通信に当たったが,花柳界の仕事にも多く利用された。この町飛脚は明治期には車夫に転向したが,その姿は新聞売りに残った。近世の飛脚については不明の点が多いが,明治期の郵便の成立は飛脚屋を通信業務から撤退させる結果となった。
執筆者:

エジプトでもアッシリアでも飛脚の制度はすでにあったと推定される。ヘロドトスによれば,キュロスはスキタイとの戦いに向かう前に首都と軍の間に中継所を設けて伝令を走らせたが,ペルシアの首都からエーゲ海の間に,1日の道程に一つずつ111の宿泊所が設置されていたという。旧約聖書の《ヨブ記》にも〈私の日は飛脚よりも速く,飛び去って幸を見ない。これは走ること葦舟のごとく,餌食に襲いかかるワシのようだ〉(9:25)とある。前490年アテナイの将軍ミルティアデスがアテナイから36kmの村マラトンの戦でペルシア軍を破ったとき,アテナイに向かった伝令が勝利を知らせると力尽きてアテナイの城門の前で倒れ死んだのは,マラソンの起源として有名であるが,ギリシアの諸都市にはヘメロドロモスhēmerodromosという飛脚が置かれていた。ローマ時代でもカエサルによれば一定の距離をおいて飛脚が置かれ,ゲナブム(現,オルレアン)で起こったことがその日のうちにオーベルニュまで伝えられた。馬に乗った飛脚(ウェレダリイveredarii)もあり,カエサルがブルターニュからローマのキケロにあてた2通の手紙はそれぞれ26日と28日で着いている。

 ローマ帝政期にはクルスス・プブリクスという飛脚制度が置かれ,のちには駅逓に馬やレダrhedaといわれた速い車,荷車クラブラレclabulareも備えられ,馬は20頭に達することもあった。西ローマ帝国の没落後はクロービスカール大帝の飛脚制度復元の努力も実らず,東ローマとイスラムは7世紀から飛脚制度を再現していたのに,ヨーロッパでは13世紀になってパリ大学が学生のために飛脚制度messagerieをつくってやっと回復した。これには学生と家庭間の学資の運搬を主とするグラン・メッサジェと手紙や小包みなどを託すプチ・メッサジェがあった。フィリップ4世も公正証書でパリ大学のこの特権を認め,収入の1%を通信に割いた。14世紀にはアビニョンの教皇庁がフィレンツェの商人にならって飛脚制度をつくり,これとイスラムの飛脚制度を参考にアラゴン王が所領の最南のバレンシア,次いでアラゴンとバルセロナに飛脚の制度を置いた。

 フランスで飛脚制度を確立したのはルイ11世で,公信用に王立の制度をつくった。1464年〈リュクシーの勅令Édit de Luxies〉で飛脚の身分を保証し,臣下にも利用を許したが,その裏でこっそり検閲に利用した。アンリ3世は公文書用にフランスの各都市にメッサジェ・ロアイヨーを置いた。1576年,国王に対してギーズ公派に荷担する大学に打撃を与えるため,私信にメッサジェ・ロアイヨーの利用を許可したため,大学は大きな損害を受けた。こうしてメッサジェ・ロアイヨーは郵便制度のもととなる。1622年には宰相リシュリューが各地の発着日を一定にし,27年にはダルミエラPierre d'Almierasが手紙の料金制度を定めた。郵便制度の発達とともに飛脚は姿を消していくが,街角にいて個人の委託を受けるメッセンジャー・ボーイは18世紀から20世紀前半まで都会にはいてフランスではシャスールchasseurといわれた。
駅伝制
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「飛脚」の意味・わかりやすい解説

飛脚
ひきゃく

信書・文書などの送達にあたった者。語源は早く走る者、文使(ふみづかい)という意味である。通信手段は、権力と物資輸送の行われる所では不可欠であるから、いずれの時代にもあったはずである。

[藤村潤一郎]

古代・中世

古代には駅馬を利用した飛駅使(ひやくし)、駅使があり、公用の文書の輸送を行った。1日の行程は前者が160キロメートル以上、後者が128キロメートルである。平安時代には駅制が崩壊したので事情は明らかでない。鎌倉時代には鎌倉を中心に京都、九州などの間に伝馬による飛脚があった。京―鎌倉間の平均行程は、初め14~15日であったが、駅制の整備により3~4日に短縮された。また九州博多(はかた)から鎌倉への急便も弘安(こうあん)の役(1281)のおりには約12日で到達するようになった。室町幕府は積極的な駅制の整備を行わなかったので明らかでない。戦国大名は軍事上の目的から駅制を重視し、飛脚には城下町かその付近に住む手工業者が用いられ、伝馬継立(つぎたて)の印判手形がなくても通行した。

[藤村潤一郎]

近世

近世には五街道、東廻(ひがしまわり)、西廻海運が整備され、各種の飛脚が存在した。しかしまだ不明の点が多い。

[藤村潤一郎]

継飛脚と大名飛脚

まず幕府、大名の飛脚については、江戸が政治上の中心地であり、京、大坂、長崎、甲府、駿府(すんぷ)など主要都市との連絡のため、幕府の継(つぎ)飛脚が各宿に準備されていた。継飛脚は川留(かわどめ)に際しては最初に渡河し、江戸―大坂間では4~5日で通行している。

 大名は国元と江戸屋敷、大坂蔵(くら)屋敷とを連絡するため飛脚が必要で、尾張(おわり)、紀州藩などの七里飛脚(七里ごとに小屋を置く)、加賀藩前田氏の江戸三度(月に三便)などが有名で、街道に独自の飛脚小屋を設けた場合もあるが、時期によっては町飛脚に請け負わせたこともある。脚夫は一般には足軽(あしがる)によるか、町飛脚によっている。藩領内では城下町と主要な地点を結ぶ定期的な飛脚があった。このほかに大名の参勤交代に関係して通日雇(とおしひやとい)がある。上下(じょうげ)とも称する。江戸、京都、伏見(ふしみ)、大坂のそれが有名で、江戸では六組(むくみ)飛脚とも称している。これらは通信にも従事しているが人宿(ひとやど)的性格が強く、人足は雲助に近い者もいたと考えられる。街道沿いの城下町には日雇頭があり、彼らも通日雇に従事していたようである。

[藤村潤一郎]

町飛脚

町飛脚については三都間のものが有名である。江戸の相仕(あいし)(取引相手の問屋)として京、大坂があり、三都の問屋が互いに連絡をとって営業を行った。これらはともに定期的な飛脚を意味する語を問屋名とし、江戸は定(じょう)飛脚、京は順番飛脚、大坂は三度飛脚と称した。また京飛脚など地名を冠した飛脚は、その地名地宛(あ)ての飛脚であることを意味している。なお三度飛脚とは、もともと幕府の京、大坂、駿府御番衆宛ての公用の飛脚(月三往復)だが、転じて定期的な町飛脚を意味することばにもなった。おそらく町飛脚が前者の仕事を請け負ったことなどから転化したのではあるまいか。

 町飛脚の道中での運行を指示するのは宰領(さいりょう)(才領)である。彼らはおそらく都市の細民層に属し、道中での人足や馬持を採用したり、なだめすかしたりして仕事をし、街道筋では顔を知られた存在であった。人足と馬持は街道付近の農民の副業として行われ、一部には雲助もいたはずである。途中の飛脚宿は脇本陣(わきほんじん)や宿屋が兼ねている。人足はかならずしも宿継(しゅくつぎ)ではなく、とくに早飛脚の場合には、道中で遅れて請負刻限が迫ると、早駕籠(かご)を使用する例もある。瀬戸内海では陸路でなく早船を利用する場合があった。絹、生糸などの荷物は、宰領が率いて数頭の馬持が一種のキャラバンを組織している。

 三都の飛脚問屋が全国を完全に連絡しているのではない。各都市中心に個別地との飛脚がある。これと都市の宿屋との関係は明らかでない。また農村と都市の連絡には定飛脚もあるが、特定の物資を運ぶ者が書状を請け負う可能性があり、書状を運ぶ者が買い物を頼まれる場合もある。都市内では町飛脚はチリンチリンの飛脚などと称せられ、鈴をつけている場合がある。彼らは長屋の住人であり、主要な顧客の一つに遊廓(ゆうかく)がある。駕籠(かご)かきなども書状を請け負っている。

 明治期になり郵便が成立して書状は飛脚から離れたが、一部では荷物の運搬は飛脚によって行われた。

[藤村潤一郎]

『豊田武・児玉幸多編『交通史』(『体系日本史叢書24』1970・山川出版社)』


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百科事典マイペディア 「飛脚」の意味・わかりやすい解説

飛脚【ひきゃく】

速く走る者,手紙を運ぶ者という意で,平安時代末期から現れ,初めは馬を用いない通信使をいったが,一般には乗馬の急使をいった。江戸時代には信書,為替や小貨物などを運送した業者およびその運送方法をいい,幕府公用の継(つぎ)飛脚,江戸と領国との間を往復した大名飛脚のほか,江戸の定飛脚,京の順番飛脚,大坂の三度飛脚など,民間でも迅速で確実な通信・運輸手段として発達,各地に飛脚問屋ができた。天保年間(1830年―1844年)に仲間組織となり定期運輸を行なった。1871年郵便制度の成立で衰退。
→関連項目三度笠

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「飛脚」の解説

飛脚
ひきゃく

近代以前,通信・輸送を担う職業やその職務のこと。たんに書状・荷物を届けることもいう。律令制下では飛駅使とよばれる騎馬の使者による通信が行われ,鎌倉時代には早馬による飛脚が京都―鎌倉間を結んだ。近世は,領主の設ける飛脚以外に,民間の飛脚である町飛脚が発達した点に特徴がある。前者には幕府の書状逓送を担う継飛脚が設けられたほか,名古屋藩・和歌山藩などの七里飛脚や金沢藩の三度飛脚などもあった。また幕吏の書状逓送のために三度飛脚が始まったが,のちに町飛脚に委ねられ,大坂の三度飛脚,京都の順番飛脚,江戸の定飛脚が発展した。地方都市にも姫路の大坂九度飛脚などの町飛脚が現れた。米相場の情報を配送する米飛脚や,江戸内の書状逓送を担う江戸町飛脚,大名などに道中人足を提供する人宿の江戸六組飛脚仲間などもあった。牛を使用して書状・荷物運送を行い,牛飛脚とよんだ所や,農民が書状配達を命じられ,百姓飛脚とよんだ所もある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「飛脚」の意味・わかりやすい解説

飛脚
ひきゃく

信書,金銀,小貨物などを郵送する脚夫。その起源は律令時代にさかのぼるが,江戸時代になって急速に発達した。種類には幕府公用の継飛脚,諸大名の大名飛脚,民間営業の町飛脚などがあった。のちには町飛脚が大いに発達し,幕府,諸大名もこれに託した。明治4 (1871) 年郵便制の成立により廃止されたが,なお便利屋という名で残った。

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旺文社日本史事典 三訂版 「飛脚」の解説

飛脚
ひきゃく

馬または徒歩で書類や金銀などの小荷物を運送する脚夫
律令制で駅馬 (えきば) を設け中央と地方を結んだのに始まり,鎌倉時代には鎌倉飛脚・六波羅飛脚が京都〜鎌倉間を早馬 (はやうま) で連絡した。江戸時代には飛脚制度が発達し,幕府公用の継 (つぎ) 飛脚,諸大名の大名飛脚のほか,民間の町飛脚が普及。五街道をはじめ主要都市間を連絡し,また町飛脚を請け負う飛脚問屋もできた。1871(明治4)年官営郵便制度の発足で廃止された。

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世界大百科事典(旧版)内の飛脚の言及

【葬式】より

…以後,葬式の費用を含めていっさいの仕事は喪家の手から離れ,血の濃い親戚とか隣保の者の手に移る。死を告げる2人1組のヒキャク(飛脚)が立てられ,枕経のために僧侶がよばれる。ここではじめて釈迦の涅槃(ねはん)に模して北枕に寝かし,顔に白布をかける。…

【手紙】より

…自署が要求された結果,近世初期には,必要を予測して紙面のあるべき位置に花押のみを記した〈判紙(はんし)〉が,本人不在の所にも厳重に保管され,儀礼的な急場には用いられた。日時の明記については,戦国時代以降,遠距離から変転する事件を通報するについて,連続的・一方的に発した通信に対し,対応する返信もまた連続するので,使者,飛脚により途中前後する場合もまれではない。そこで日付,刻付が重視され,混乱防止のため返信にも念を入れ,往信の趣意を繰り返し記すことが多い。…

※「飛脚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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