飢饉(読み)キキン

デジタル大辞泉 「飢饉」の意味・読み・例文・類語

き‐きん【飢×饉/××饉】

天候異変などで、農作物の収穫が少なく、食糧が欠乏すること。「天保の―」
必要とする物が非常に不足すること。「水―」
[類語](1不作凶作凶荒/(2飢餓飢え干乾し飢渇水飢饉かつえ・ひもじいえるかつえる腹が減るひだるい食い足りない口寂しい口ざみしいぺこぺこ腹ぺこ空腹空腹感飢餓感空き腹空きっ腹ハングリー腹がすく小腹がすく

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改訂新版 世界大百科事典 「飢饉」の意味・わかりやすい解説

飢饉 (ききん)

自然的諸災害や戦乱などの影響あるいは人為的な自然破壊による環境の大きな変化のために,農産物の著しい減収を生じた結果,広範な飢餓状態をもたらし,多数の餓死者,病死者を発生せしめる現象。

人間の生産活動,社会生活が季節変化の規則性に依存しそれに制約されているということは,現代社会にとっても例外事ではないが,古い時代ほどその度合は強くなる。この自然の規則性に変調が生じた場合,ともすれば人間の生産活動は打撃を受けることになるが,それが生産物の不足を生み出し(凶作),人々の飢餓状態をもたらす。その際人間社会への打撃の大きさは,支配体制や政治のあり方など社会的諸条件によっても左右される。また,飢饉を経験することによって人間社会にもたらされる影響も無視できない。生産物総量が減少する中で当該社会の矛盾は先鋭化し激化することになり,それが社会に破壊的に作用することもあるし,それに応じて新しい政治的秩序が形成されることもある。また,その強烈な経験は人々の意識にも刺激を与え,ときには価値観の変化から新しい思想・文化の形成を促すこともありうる。したがって特に大飢饉は,ある時代の政治・経済・文化等々の諸側面を理解するための不可欠の要素となっている場合がある。

古代・中世の飢饉の数を正確に示すのは困難であるが,さしあたり現在のところ最も依拠するに足る《日本凶荒史考》(1936)目次によると,飢饉を経験した年の回数は,700年代61回,800年代72回,900年代23回,1000年代13回,1100年代15回,1200年代16回,1300年代16回,1400年代37回,1500年代44回となっている。700,800年代が多く900年代以降激減しているのは,前者の時代は中央政府が各国々の飢饉への対処を職務としていたため,一国規模や局地的な飢饉までも六国史に記録されたのに対し,以後は中央政府のそのような対処が行われなくなり,正史が六国史以後絶えることもあいまって,中央で地方の飢饉を網羅的に記録することがなされなくなったので,たまたま記された飢饉史料が断片的に残されることになったからである。したがって900年代以降中世の飢饉は,局地的なものを含めるとすればこの数字よりはるかに多い数を想定すべきであろう。ただ現在は中世史料が多く刊行されるに至っており,今後の史料収集によりかなり正確な実態を把握することは可能であろう。

飢饉をもたらす自然の要因としては,主として干ばつ,霖雨(ながあめ),風害,水害,冷害,虫害,鼠害などがある。古代・中世に多くみられるのは干ばつ,風水害,霖雨であるが,干ばつは近世に比べると比率が若干多い。近世に干ばつが比較的少ないのは,特に西日本では溜池など利水施設が完備されたことによる。冷害の比率はそれらより比較的少ないが寛喜の飢饉のようにしばしば大飢饉の原因をなすことがある。もっとも大飢饉はそれらの原因が複合することによることが多い。これら自然の脅威に対する抵抗力を強める努力は,古代以来,水害に対する治水,干ばつに対する利水,生産性の高い乾田を維持するための排水施設の強化,風害,霖雨,冷害,干ばつなどに対するイネの品種改良,早中晩の品種を植え分けることによる危険の分散,救荒作物の普及など諸分野においてなされてきた。それらの努力は,古代国家成立以来9世紀ごろまでは,中央政府の主導のもとで郡司に代表される各地域の共同体首長層によって担われてきたが,10世紀ごろから以後中央政府はその主導性を失い,各地域で新しい勢力によって行われていくことになる。

 救荒作物の中で律令国家が特に重視したのはムギとアワである。ムギはイネや他の雑穀の収穫後播種し,イネや他の雑穀の端境期に入る旧暦4月ごろに収穫が行われ,イネやそれとほぼ同じ季節に成長過程をもつ雑穀がなんらかの気候不順によって打撃をうけても,その影響は受けなくてすむことから,救荒作物としてきわめて積極的役割を演じうる存在であった。アワは長期間の保存が可能なため,律令制度では義倉の基本的蓄えとされていた。710年代には夏作のアワと冬作のムギを兼ね植えることが奨励されているが,以後アワについては租税納入上,他の穀物に対する代替率の面で優遇策がとられ,ムギについては,飢饉が予想される際などに,青苗の段階で馬の飼料として売るのを禁止し,人の食用に確保しようとするなどの政策がとられている。9世紀末以後,中央政府のそのような対処は放棄されていくが,11,12世紀になると,冬作としてのムギの性格を生かした二毛作(水田と畠地の場合がある)が畿内・西日本において普及している。これは飢饉克服の上での進歩といえるが,1180年(治承4)夏の西日本の大干ばつをきっかけとして2,3年間続いた養和の飢饉や,寛喜の飢饉などのように,夏作に加えてあてにしていた冬作ムギまでもが凶作となった場合の惨状は,よりひどいものとなる。

飢饉を進行させる社会的要因としては,次のようなものがある。(1)戦乱 722年(養老6)政府の隼人討伐による翌年の南九州の飢饉,養和の飢饉の際の治承・寿永の内乱,長禄・寛正の飢饉の際の河内,紀伊,越中,越前などでの兵乱などがある。(2)凶作が予想されることからおきる米価高騰,米の買占め 都市などでみられる一般的現象であるが,1431年(永享3)7月には,飢饉の中で都への米輸送を妨害して,高騰した米を売ろうと謀った米商人らが捕らえられ処刑されている。(3)諸課税の重圧 減税の程度も問題となるが,課税の強化はきわめて一般的現象である。飢饉によって収取物が減じた対策として,領主が労働力収奪を強化したため農業が行えず,新たな不作が生じたという例はしばしばある。(4)治水・利水や備荒貯穀その他の公共機能の欠如。

 公共的備荒対策は律令国家の重要な機能の一つであった。飢饉になると,国家は,利息付消費貸借たる公出挙(くすいこ)(出挙),無利息消費貸借たる借貸(しやくたい),穀物などの廉売,窮迫者に穀物などを施与する賑給(しんごう)などを行い,飢えた人々への対策とした。そのために平常からの備荒貯蓄が必要であった。各国にあって備荒のみを目的とする貯穀としては,大宝令によって,戸の貧富に応じてアワなどの穀物を規定量徴収するように定められた義倉や,759年(天平宝字3)諸国の運脚(調・庸を都まで徒歩で運ぶ人夫)の飢えをいやすために諸国に設置された常平倉(じようへいそう)の制などがあったが,その機能する範囲は小さく,むしろ各国の財源たる正税の方が一般的に機能した。正税を蓄える正倉には,平常の公出挙などに用いる動倉と非常用の不動倉があり,後者は国郡司が被害実態を申告して,太政官の命によって開く定めであった。飢饉がはなはだしくその国の正税ではかなわないときは,隣国の正税を転用したこともある。また官の貯穀で対処しきれないときは,民間の富裕者に託して褒賞したこともある。

 中央政府の主導によるこのような備荒対策が機能していたのは10世紀初頭ころまでで,以後衰退していく。都では,759年設置の左右平準署や,その後たびたび設置された常平司(所)などによって,飢饉の際に穀物,塩などの廉売や賑給が行われた。そのための穀物は,近国から集めたり,穀倉院(9世紀初頭設置)などに蓄えられたりしていた。しかしこれらの機能も10世紀以降衰退していき,中世になると飢饉の際攘災招福の目的を第一義とする賑給などが形式的に行われるにすぎなくなっていく。したがって中世になると,飢饉の際,荘園領主と荘民との間で年貢公事などの減免や領家の倉からの穀物施与などの措置がとられるようになったが,朝廷としての備荒対策はほとんどとられなくなっていく。また一般的には,飢者は富裕者が私的に蓄えた穀物などをもって行う私出挙に頼らざるをえなくなる。私出挙は律令制下でも存在したが,10世紀以降の公共機能の低下にしたがって,飢饉の際もっぱらこれに依存することになっていく。これは富者と貧者との間に債務関係を形成し,隷属関係を生み出すことになる。また中世後期になると,各地の領主たちが領域内に関所を乱立させる傾向がみられるが,これも流通を阻害し,飢饉をはなはだしくする要因になった。

飢饉下の農村では租税収奪の重圧も加わって,餓死者を出すだけでなく農民の農村からの離脱を生じ浪人を生み出す。彼らは山で薯蕷(やまいも),野老(ところ)など,河海で魚貝海藻類など自然物を採集して生き延びようとした。また縁故を求めて有力者の庇護下に入る者もあったが,都市的場に流れていき,乞食(こつじき)によって生きていくこともあった。また一部の浪人は京都の清水坂や奈良坂で有名な非人集団に組織されることもあった。そのような浪人が多数入りこんだ都では,群盗の横行,疫病の流行,餓死者の続出という事態が展開する。飢饉はさまざまな側面で社会に影響を与えるが,土地売買や人身売買などを促進させることもある。前者についてはすでに8世紀段階において,農民がその所有しているわずかな墾田を,飢饉下の租税の重圧から売却せざるをえなくなった例が知られている。後者については,すでに676年(天武5)の親が子を売ろうとした下野国の事例が知られているが,律令国家はそれを原則として許さなかった。ところが中世になると,そのような人身売買は広まる傾向にあり,公権力もそれを容認するようになっていく。その発端をなしたのが寛喜の飢饉である。

 またさまざまな歴史事象で飢饉との関係を考慮すべき場合も多い。奈良時代の国分寺や盧舎那大仏鋳造などに象徴される鎮護国家仏教の盛行は,直接的には国家に対する政治的脅威を意識したものであったが,相次ぐ飢饉や疫病の流行がその背景にあったと思われることや,1232年(貞永1)の御成敗式目の制定が寛喜の飢饉のため諸矛盾が激化し,紛争が激発したことに促されていることなどは,飢饉が公権力の政策になんらかの影響を与えていることを示すものであろう。親鸞が寛喜の飢饉の中で無力な民衆を直視して,絶対他力の本願の確信を得たといわれていることや,日蓮の《立正安国論》が正嘉の飢饉を直視する中で書かれたことなどは,飢饉の思想・信仰分野への影響ということができる。また,養和の西日本の飢饉は,治承・寿永の内乱の展開過程の中で西国に基盤をもった平氏,都に進出した木曾義仲軍になんらかの形で食糧難問題をせまることになったことなどは,飢饉が内乱の過程に影響を与えた一例であろう。
執筆者:

近世の飢饉回数は残された記録やその程度に対する記録者の主観的認識の違いもあって,まちまちであるが(例えば《日本災異誌》36件,《日本凶荒史考》154件),1615年(元和1),40-42年(寛永17-19),74年(延宝2),81年(天和1),95年(元禄8),1702年(元禄15),32年(享保17),55年(宝暦5),82-87年(天明2-7),1832-36年(天保3-7)等の凶作・飢饉が著名である。とりわけ四大飢饉と称される寛永の飢饉,西日本における蝗害こうがい)(ウンカの大量発生説が有力である)を原因とする享保の飢饉天明の飢饉天保の飢饉が特筆される。東北地方ではこのほか宝暦の飢饉が大きい。

 これらの大飢饉は,いずれも幕藩体制社会の画期をなす変動期に生じた。寛永の飢饉は太閤検地以降推進された小規模経営農民自立政策と,貢租・夫役増徴をめざす農政との間の矛盾に由来し,飢饉を境に小農保護を目的とする農政の転換が行われた。享保,宝暦,天明の中期の飢饉は,質地地主の展開にみられる小農経営の貧富分解の進行と,米価の低落傾向を起因とする貢租増徴や,領主経済の窮迫による大坂・江戸への飢餓移出ともいえる強引な廻米,藩専売政策等による負担の増加,商品生産への依存度の増大などが背景になっている。天保の飢饉では,いっそうの農民層の分解と地主小作関係の成立,奉公人・日雇階層の農村滞留,都市貧民層の増大が社会的背景になっている。このため凶作・飢饉の発生は,しばしば下層貧困農民の百姓一揆や米穀商人,質屋など富裕層に対する打毀,村方騒動を激発させる誘因となった。

 このような飢饉に際し,領主側では一般に酒造の禁止または制限(酒造制限令),穀物加工品(うどん,そば,まんじゅう類)の禁止,穀物生産を奨励するための商品作物の制限,奢侈の禁止等,直接には年貢減免,夫食種貸(ぶじきたねかし),施米・施粥(せがゆ)などの救済を行うのが普通であった。また救荒対策として金穀の貯蔵を図る囲米(かこいまい)や義倉・社倉の制,飢饉による人口減少に対する間引・堕胎の禁止,赤子養育補助法の制定等もあったが,飢饉時に自領を守るため,食糧の領外移出を禁止する津留(つどめ)を行うなど,根本的・総合的対策に欠けるところが多かった。後期には穀類移動などに一応の対応の早さはみられてくるが,施米・施粥や備荒金穀の貯蓄においては富商や豪農等民間に負担を転嫁する傾向が強まり,その反対給付として扶持や営業特権を与えたため,社会的矛盾を深化させた場合も珍しくはなかった。

 庶民の場合,例えば〈三十年に小饉,五十年に大饉〉というように,生産力の低さに規定された一種の宿命論的諦観や節倹論がみられ,虫送り,雨乞い等の呪術的儀式に頼る傾向も共通であったが,一方では鯨油による害虫駆除法や,早稲・中稲・晩稲等の品種や畑作物の導入による危険分散,気候・疾病の記録伝承等,経験科学的な努力が積み重ねられていることは無視できない。近世の農書はこのような性格を共有しているし,経世済民論にも飢饉が与えている影響は大きい。

 飢饉に関する記録は,災異記録と救荒書に二分できる。災異記録は天災地変,物価の動向,飢饉の惨状を伝えるもので,領主政策の批判を含み,飢饉の実態を餓死,流亡,人肉や畜肉食,殺人・放火・盗みの横行,疫病死の多発等の諸相から具体的に記録したものである。しかし死亡者数や損亡高などをはじめ,内容的にも,領主側の記録を含めて正確な統計資料が少なく,慎重な取扱いが必要な場合が多い。救荒書は,はじめ漢籍を土台として,代用食物となる果実・野草をはじめ薬草の類を紹介し,社倉・義倉等の備荒対策を説いたものであり,代表的には建部清庵《民間備荒録》等がある。内容的には両者が混在する場合もある。

 アジア・モンスーン地帯に属する日本にあって,古来幾度かの飢饉が生じたが,近代においては大凶作はあっても飢饉といわれることは少ない。近代のそれが農業以外の諸産業の発達による人口吸収,国内市場の形成,南京米や植民地米の輸入に象徴される国際的交易・政策の展開によって切り抜けられたことと比較すると,飢饉は前近代社会の閉鎖的社会構造と生産力水準に規定された特有の現象であったといえるが,世界的な工業発展によって,食糧問題は新たな人類的課題となりつつある。なお近世に飢饉が多いかにみえるのは,庶民的な文化伝承の発達・普及に基づくものであって,石高制との関連の究明は必要だが,飢饉を近世特有の現象とすることはできない。
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中国では古くからたえまない飢饉に苦しみ,舜が后稷(こうしよく)に農業による対策を命じた伝説にも反映されている。飢饉の原因には水・旱・霜・虫などの自然的要因のほか,戦乱や悪政による水利施設の破壊,耕作の放棄など,人為的な原因による凶作が挙げられる。食糧危機が起こると,人々は他所に食を求めて流浪し,妻子を売るなど一家離散することも珍しくなかった。作物,野草,樹葉,野鼠などの野生動物いっさいが食いつくされ,その状況を〈赤土〉と呼んだ。〈人ひと相い食(は)む〉という史書の表現は決して誇張ではなく,妻子を交換して食い,あるいは父が子を,夫が妻を食うといった惨事もくりひろげられた。唐末黄巣の乱のさい,官軍と反乱軍の間で生きた人間が取引され,また反乱軍中で人を捕らえて石臼に投入して食肉とし,その場所を舂磨砦(しようまさい)と称したなどの事実は有名である。民衆が群盗となって略奪行為に走ることも当然起こった。それが官庁の穀倉襲撃に発展すると,官憲との戦闘態勢を必要とし,飢民が雪だるま式に参加して,しばしば大規模な反乱となった。漢代の赤眉・黄巾,唐末の黄巣,元末の紅巾,明末の李自成など著名な反乱はほとんど飢餓暴動が引金になっている。

 飢饉は王朝権力を根底からゆるがすことになるので,歴代の王朝はつねに荒政すなわち飢饉対策を必要とした。古くは《周礼(しゆらい)》大司徒の条に,荒政として散利(種食を貸す),薄征(租税の軽減),緩刑(刑罰の緩和)など12の方法を定めている。後世その方法はさらに細密になり,深刻な飢饉が起こると,皇帝は対象となる地域の租税減免を宣し,備荒貯蓄の穀物の放出を関係機関に命じた。唐令では災害の程度に応じた租庸調の減免率が規定されている。また備荒貯蓄としては北朝時代から義倉(社倉)の制度が確立したが,義倉米はとかく租税不足分に流用充当されがちであった。蝗害(こうがい)時には官民一体となって蝗を捕らえて焼き捨てる運動が起こされた。唐の太宗が〈大事な穀物を食うくらいならむしろわがはらわたを食え〉と呪文を唱えて蝗をのみこんだ逸話は有名である。雨乞いの儀式も官民一体となって行うことがあった。凶作は天の示したとがめであるという思想から,天の子である皇帝は食膳を減らし(徹膳),奢侈を中止して身をつつしみ,臣下の諫言に耳を傾けなければならないとされた。食糧が底をついた地域の民衆には,一時他所に移動して腹をみたすことを許可した(就穀)。

 荒政の歴史と方法については,宋の董(とうい)の《救荒活民書》が有名で,その後清朝に至るまで荒政に関する書物が著述された。飢饉に備えた対策としては,耐旱性をもつ作物の利用・改良が行われた。北宋時代耐旱性をもつ占城稲を輸入したのはその一例である。その他穀物以外に食用植物を栽培することが奨励され,均田制で永業田に桑・楡・棗の植付けを義務づけたが,桑と棗の実,楡の葉は凶作時の食糧となった。飢饉対策は民間でも行われ,六朝の豪族は種食の貸付けや自家米の放出を行って郷民の信望を得た。宋代以後には朱子の社倉法や元の社制など救荒を目的の一つとする結社が官民の手で組織された。
執筆者:

インドも,古代・中世からしばしば飢饉に襲われてきた。干ばつ,洪水,蝗害などの自然災害による飢饉もあれば,戦争や為政者の失政といった人災によるものもあった。したがって,飢饉はインド史上決して珍しい現象ではない。しかし,イギリス植民地下,とりわけ19世紀後半の飢饉は,頻度の多さ,規模の大きさにおいて際立っていた。19世紀後半の50年間に多く見積もれば17回,少なく見積もっても9回の飢饉があった。そのうち1876-78年(死者約500万人),1896-97年,1899-1900年の三つの飢饉は,インド史にもまれな広域にわたるもので,これらの飢饉のあった1870年代,1890年代は10年間の人口増加率が1%程度に落ち込むというすさまじさであった(ちなみに1880年代は9.4%,1900年代は6.1%である)。

 こうした19世紀後半の諸飢饉は,単なる自然的原因によって生じたものではない。その発生は,イギリスの植民地支配とそれにともなう社会経済構造の変容とに深く関連していた。第1に,イギリスが18世紀末以来インド各地に導入した地税制度(ザミーンダーリー制度ライーヤトワーリー制度など)のために地主・小作関係が悪化し,小作人の地位は低下した。また,多くの農民が負債のため土地を手放し,小作人,農業労働者に転落した。直接生産者のこうした疲弊は,農業生産力の基盤を危うくした。また,ベンガルのザミーンダーリー制はかつて保持していた相互扶助関係による自助機能をしだいに喪失していったように,農村の社会的紐帯を弱めて飢饉への社会的抵抗力を減退させた。第2に,1850年代以降交通革命(海運と鉄道の発達)によって,世界市場へ輸出するためにさまざまな商品作物が作られるようになったことが重要である。食糧穀物の輸出用商品作物(綿花,ジュートなど)への作付転換は,国内の食糧供給を不十分にしたうえ,穀物そのものも輸出されるようになった。また,こうした農業の商業化は,農村における農民層分解をいっそうおし進め,飢饉の最も直接の被害者である小作人,農業労働者等の貧困層の増大をまねいた。第3に,イギリス綿製品の流入によって在来の手織綿布工業の多くが壊滅した。工業に従事していた者が農業に流入し,土地への人口圧力を高めた。以上のような19世紀におけるインド経済の状況が,大飢饉の頻発をもたらしたのである。

 植民地政府は,飢饉は自然的原因あるいは人口過剰によるものという観点を保持しつつも,事の重大さを前に,1880年に設けられた飢饉委員会の勧告を受けて,飢饉救済(救済事業,無償救済)の制度化を進めた。しかし,飢饉の根本的な原因を除去する諸政策(例えば,灌漑,農事改良等)では20世紀初頭に至るまで見るべき成果をあげえなかった。凄惨な飢饉はインドの農村社会に深い傷あとを残すこととなり,また台頭しつつあったインドのナショナリストにとっては原点ともいうべき体験となった。例えば,飢饉のとき平然と食糧穀物が輸出されていく光景は,植民地支配の象徴として人々に消しがたい印象を与えた。なお,20世紀に入ると飢饉の数は減少したが,1943年にベンガルで再び約350万人の死者を出す大飢饉が起こった。日本軍のビルマ(現,ミャンマー)占領によって米の輸入が途絶したことも災いしたが,無為無策をかこった植民地政府の責任は明白である。
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古代オリエントの時代から中東社会はしばしば飢饉に見舞われたが,イスラム時代になってからも大小の飢饉が相次ぎ,そのつど多くの餓死者と流浪者が生み出された。946年にはバグダードとその周辺で人々が乾草や死人を食べるほどの飢饉があり,エジプトでは1065年にナイル川の増水不足をきっかけとして7年間にわたる飢饉が発生した。また1296年にはメッカやイエメン地方でも穀物が不足し,食糧を買うために子どもまで売られたといわれる。さらに1403年に始まる飢饉とペストの流行は,ようやく1347-48年のペスト大流行の打撃から立ち直ったエジプトをついに再起不能の状態へと陥れた。このような飢饉が発生する第1の原因は河川の自然増水や冬の降雨に依存する不安定な農耕法にあったが,ときとして襲う熱風やイナゴの異常発生も大きな被害をもたらした。また種籾(たねもみ)を残すことができないまでに収奪する厳しい租税の徴収や水利機構の管理・維持を難しくする政治の混乱も飢饉を誘発する要因であった。

 食糧が不足すると,まず投機をねらう商人の穀物退蔵によって物価が異常に高騰し,食糧調達の道を断たれた民衆が草木や動物を食べ尽くして体力を消耗したところを疫病が襲うというパターンが繰り返された。飢饉のときには,政府は非常用の穀物倉(アフラー)を開いて小麦や大麦を放出し,また穀物商人に低価格での売却を命じるとともに,商人やアミールにはその富に応じて扶養すべき困窮者の数を割り当てた。また水不足が原因の場合には,コーランを読誦して集団の雨乞いや増水祈願を行うのが慣例であった。エジプトでは,このようなムスリムの増水祈願に,ユダヤ教徒やキリスト教徒もそれぞれの聖書をたずさえて参集したという。一般のムスリムや知識人は飢饉と疫病の流行を,ともにジン(霊鬼)のしわざか信仰心の薄さに罰を加えようとする神慮とみなしたが,歴史家マクリージー(1442没)のように飢饉の原因を自然条件と政治の劣悪さに求める学者もすでにあらわれていた。
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ヨーロッパは早くより麦を中心とする穀作と牧畜とを組み合わせた独自の農業経済を成立させるが,19世紀に至るまで技術的基盤には顕著な進歩がみられず,その生産は自然条件の大きな制約を免れえなかった。北部は冬の冷害に悩み,南部地中海地域は夏の干ばつに苦しんで,収量も,例外的な先進地域を別とすれば,18世紀に至るまで,播種量の2~5倍程度にとどまっている。作柄は気象状況に大きく左右されたから,人々は天の助けを願い,6月24日の聖ヨハネの火祭では近づいた収穫のみのり多きことを祈り,また運よく豊作に恵まれたならば,秋の村祭で感謝をささげたのであった。

 このような自然条件の直接的影響に加え,当時の社会構造が飢餓の恐れを深刻なものとしていた。農民はその乏しい収穫の中から,教会には十分の一税を,領主には地代を,そして小作人の場合は地主に小作料を支払わねばならなかったからである。また,穀物流通に対するさまざまな規制が,凶作地帯の被害を深刻なものとしたのであった。こうして,テーヌの表現によれば,革命前夜のフランス農民の多くは〈口もとまで水につかって沼の中を歩む男〉に似て,わずかなくぼみにも足をとられ,おぼれ死んだのである。

 初期中世については統計的史料が乏しいが,年代記の記述は15年から20年の間隔で大量の餓死者を報じている。12~13世紀は,大開墾の展開や三圃制の普及などにより事態はやっと改善されるが,続く14~15世紀は,増大した人口を抱えたうえ,地球の長期的な寒冷期にぶつかり,激しい飢饉に見舞われる。1315-17年,イギリス,フランスからドイツ,ロシアに至る広範な地域を襲った大飢饉は,その代表的なものである。16世紀の小康期を間にはさみ,17世紀はまた厳しい気象条件に置かれたうえ,貧富の差はいっそう拡大していたから,貧しい階層の被害は大きかった。フランスではルイ14世の親政期である偉大なる世紀に,1661-62年,1693-94年,1709-10年と3回にわたり,多くの餓死者を出す深刻な飢饉を経験している。凶作とともに穀物価格は暴騰し,食糧不足が疫病のまんえんをも誘発して死亡者の急増を招いた。飢饉の際には,また,結婚数,妊娠数も大幅に減少し,食糧危機と結びついた独特の人口危機を招来する。さらに,凶作による食物価格の騰貴は手工業製品の販路をせばめ,織物業の不振を招いて多くの失業者を出すなど,経済活動全体に直接的な影響を及ぼした。19世紀に入っても,ヨーロッパの後進地域では,なお深刻な飢饉がみられ,例えば1846-47年アイルランドを襲った〈ジャガイモ飢饉〉では,餓死者が100万を超えたという。

 凶作・飢饉は,しばしば民衆の食糧蜂起を引き起こした。都市ばかりか農村においても,穀物の買占めや隠匿の嫌疑をかけられた豪商や国王役人が民衆蜂起の攻撃にさらされた。うわさはうわさを呼んで,日ごろの社会的不満を暴発させたのである。こうして,飢饉は,疫病史,人口史,経済史,政治史,社会運動史,心性史といった広範な領域につらなる,前近代の歴史の主役である。
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第三世界における深刻な問題のひとつに飢饉がある。1960-61年中国で起こった干ばつによって約1000万人以上が死亡した例,65-66年,72-73年の2度にわたってインドで起きた大飢饉,1969-73年アフリカのサバンナ地帯を襲った干ばつと家畜の大量斃死,そして飢饉による人々の沿岸地域への移動,さらに,79年以降,アフリカの東部から西部まで,サハラ砂漠南縁のサバンナ地帯を襲っている同様の現象,などがその例である。そして,これらの現象は天災,干ばつなどの自然的要因によって,たんに偶然的に起こったものというよりは,なんらかの社会的・制度的要因によって,災害がいっそう激化したものと考えられる。

 その第1の理由は,被植民地であったことに由来する。帝国主義時代に欧米列国の植民地政策の一環として行われた広域にわたる過度の開発,森林伐採などが,生態学的条件を変化させ,植物が水を保存する機能を果たしえなくなり,浸食・砂漠化が進み,干ばつ,洪水が頻発し,飢饉が発生しやすい条件を作り出した。インドでは19世紀後半以来,イギリスの植民地制度の下で,紅茶,綿花,ジュートなどの栽培が農村に普及させられ,食糧生産が不足がちとなり,干ばつ,洪水の際に飢饉を広げた。第2の理由は,植民地独立後の国の工業化重点政策による。工業化は農村から都市への人口流入を激増させ,都市の過密問題,環境問題を新たに作り出している。と同時に,農業政策の欠如は農牧畜業,灌漑設備への投資をはばみ,植民地時代の乱開発とも重なって,食糧事情をますます悪化させている。中国では1950年代の大躍進運動で,農村の人々が大規模建設や農村工業に動員され,農業生産がおろそかになっていたところに干ばつが起こり,被害が大きくなった。

 このように一度飢饉が起こるとその規模が予想を超えて大きくなる状況が作られているいっぽう,干ばつ,洪水による飢饉ほど劇的でなく,しばしば目には見えにくいが,第三世界の社会構造に深く内在化している,日常的な飢饉現象がある。この絶対的貧困は,第1に農民の土地所有の問題にかかわってくる。1975年の調査では,バングラデシュの農民の32.4%が土地を持たない農民で,これにごくわずかの土地しか耕さぬ限界貧農・小農を加えると93.4%にも及ぶ。そして,土地の非所有と飢えとの間には,かなりの程度相関関係がある。その第2は都市の問題である。都市の工業化に伴って農村地域から都市に引きよせられる人々の流れは急速に太くなり,1970年代半ばに第三世界の百万都市は101だったが,80年代半ばには147へと増加すると推定される。この増加人口は,ほとんどが就業機会を持たないままに,スラム・不法占拠居住者となる。その比率は1970年代初めに,東南アジアの多くの国で都市人口の2割から3割,南アメリカ,アフリカでは3割から6割にも及んでいる。FAO(国連食糧農業機関)の推定(1974-76平均)では,世界で4億3500万人が〈深刻な栄養不足〉状態にあるという。また,世界銀行の推定(1970年代半ば)によると,衣食住の基本的必要を満たさない絶対的貧困人口は約7億7000万人であるという。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「飢饉」の意味・わかりやすい解説

飢饉
ききん

飢饉は古来世界の各地に発生し悲惨な状態を引き起こしてきた。一般的にいって、近代資本主義社会が成立する以前の封鎖経済的な諸社会においては、食糧の中心をなす主穀、雑穀、いも類などの農業生産物の収穫量が顕著に減少すると、食糧の絶対的な欠乏をきたして、栄養状態の悪化に伴う病人、病死者、飢餓人、餓死者、さらには多くの浮浪者の発生、および他の地域への人口の流亡をしばしば世界的に、国内的に、あるいは地方的に発生させてきた。飢饉はこうした社会的な異常現象であるが、日本では局地的にではあるにせよ、明治の初年まで続いた。一方、世界的には現在もアフリカ、中近東およびインド亜大陸における飢饉は酸鼻を極め、国際的な政治問題となっている。このように世界的には、現代においても飢饉ないしは飢餓の問題は解決されていない。それどころか将来の展望はけっして楽観的なものではなく、むしろ悲観的な予測がなされている。飢饉は人類にとって、戦争と並んでもっとも悲惨な問題である。

[須々田黎吉]

原因

飢饉の直接的な原因の多くは自然的な災害に起因しているが、基本的な原因は政治社会経済的な体制の問題と深くかかわっており、その歴史、具体的な現れ方は地域によってきわめて多様である。したがって飢饉は天災であると同時に人災でもある。自然災害には社会的な原因、人災が多分に含まれているから、この二つの原因が単独に、あるいは関連しあって発生する。飢饉の発生に重大な関係を有する直接的な原因は、干魃(かんばつ)、霖雨(りんう)、冷害、風水害、虫害、噴火などの自然災害による凶作に基づいている。本来、動植物である家畜、作物の生産を目的とする農業においては、自然条件の変動による豊凶から免れることはできない。農業技術の未発達な生産力の低い段階におけるほど、自然条件の変動による影響は顕著に現れる。

 しかし第二の原因たる政治社会経済的な問題は、飢饉を理解するうえにおいてきわめて重要な意義を有し、為政者の過酷な政策が飢饉をいっそう激化させてきた。第一に、前近代の諸社会においては、支配階級の直接生産者からの租税収奪が厳しく、また支配領域も狭隘(きょうあい)で、交通手段の未発達による物資の遠隔地への輸送も困難であったため、いったん凶作に襲われると、たちまち食糧不足をきたし、その被害が拡大、激化して飢饉を発生させる結果となった。第二に、封鎖経済に起因するものとして、全国的な飢饉以外に地方的な飢饉の続発をあげなければならないが、これは支配階級の利害対立に基づく支配領域外への食糧の輸送禁止によって地域的な飢饉をさらに激化させた。凶作の飢饉化の要因については具体的には幾多の問題をあげうるが、平和時における飢饉の社会的原因として基本的には以上の2点に要約することができる。さらに社会的な原因として、戦争や内乱などの異常事態によって飢饉を引き起こす場合もある。たとえば、広範囲にわたって耕作地を踏み荒らされたり、また耕作の機会を失ったり、あるいは他領、他国の兵士、軍隊によって実った農作物を強奪されたり、さらには農業生産の基盤を徹底的に破壊されたりすることなどは、その好例である。

[須々田黎吉]

日本の飢饉

日本の飢饉が最初に記録に表れたのは『日本書紀』で、欽明(きんめい)天皇28年(567)各地に大水が出て人々が飢え、「或(あるい)は人相喰(は)む」惨状が述べられている。ついで推古(すいこ)天皇34年(626)には、3月より7月にかけて「霖雨あり、天下大いにこれより飢ゆ。老者は草の根を食ひ道のほとりに死ぬ。幼者は乳をふくみ以(も)って母子共に死ぬ」(同前)と記録されている。平安時代末期、1181年(養和1)の大飢饉の原因は、前年夏の史上まれにみる大干魃によるもので、その惨状は鴨長明(かものちょうめい)の『方丈記』に活写されている。西日本の稲作が皆無に近い被害を被り、都の京都だけでも4万人以上の餓死者を出した。荘園(しょうえん)制の解体期には天災と人災とがとくに重層化して起こり、飢饉をいっそう悲惨なものにした。1420~1421年(応永27~28)には大干魃と戦乱による飢饉が発生し、また1460~1461年(寛正1~2)には大冷害と戦乱などによって「人民の死するもの三分の二に及ぶ」(『立川寺年代記』)という信じがたいほどの大飢饉の記録が残されている。この前後は年貢の減免を目的とした土一揆(つちいっき)の最盛期であった。また1539~1540年(天文8~9)にも風水害、虫害、戦乱などによる大飢饉が起こった。上古および中世の稲作はおもに傾斜地における天水利用であったから、自然災害は干魃による凶作が動因となって飢饉を引き起こしている。

 近世の徳川幕藩体制期には数十回の飢饉が発生し、なかでも享保(きょうほう)、天明(てんめい)、天保(てんぽう)の飢饉は近世三大飢饉としてあまねく知られているが、近年これまで史料的な制約もあって注目されることの少なかった幕藩体制確立期における寛永(かんえい)の飢饉が着目されてきた。1641~1642年(寛永18~19)の両年にわたる冷害に基づく飢饉によって、多くの餓死者を出した。この飢饉が直接的な契機となって、翌1643年に幕府は、「田畑(でんぱた)永代売買禁止令」を制定した。それは、飢饉によって土地を手放さざるをえなかった農民の転落を防止するためにとられた政治的措置であって、農民の土地への緊縛は幕藩体制を維持するための基本条件にほかならないからである。このように寛永の飢饉は、幕藩体制の政治社会経済的な種々の矛盾を内包していた。

 享保の飢饉は1732~1733年(享保17~18)に発生し、その原因は一般に蝗害(こうがい)によるものとされている。だが昆虫学者の最近の研究によって、この両年に発生した虫害はウンカ類、アブラムシ類、メイチュウ類、フタオビコヤガ、クサキリ、およびその他の害虫が一斉に発生したことに原因していることが明らかになった。1732年の記録に以下の記述がみられる。「この秋西国、四国、中国、近畿一帯の田畑に虫害附き稲の穂を喰(くい)荒らす。此(この)虫のことを雲賀(うんか)という由(よし)。(中略)一夜の中に幾万と涌出(わきい)で、稲をむさぼり喰う音さながら煎餅(せんべい)を噛(か)むが如(ごと)し。やがて米穀を喰荒して後は山村に飛び散りて葉を暴食し、果ては海中に飛去りて行方知れずという事なり」(白水痴書)。九州にも発生しているが、前の記述にみられる雲賀は飛蝗(トノサマバッタ)と推察されている。飛蝗とは異なるバッタ類も発生した。日本では虫害によるこうした大飢饉は前後に類例をみないだけに、特筆すべき価値がある。この飢饉によって餓死者が続出し、その数は諸書によって一致しないが、『徳川実紀』にはおよそ97万人と記されている。農村では百姓一揆が、都市では打毀(うちこわし)が発生した。

 天明の飢饉は1783~1787年(天明3~7)の長期にわたり、ことに1783年と1787年の被害は甚大で、その範囲は全国にわたった。数年に及ぶ飢饉の原因は、地方によって異なるが霖雨、水害、冷害、浅間山の大噴火などで、冷害による被害がもっとも大きかった。なかでも奥羽地方の飢饉は激甚を極め、1783年以後3か年「奥州一箇国の餓死人数凡(およそ)二百万人余」(『経世秘策』)と記録されている。一例をあげれば、津軽藩では1782年4月下旬より風雨が続き、土用に至っても冷害が続いた。しかるに藩当局は措置を誤り、40万俵を江戸、大坂に廻米(かいまい)、上納はすべて米納を強制した。このため藩内の米穀は欠乏し、米価は高騰して5、6月には米の売買はまったくやんだ。秋に入るや町方在方を問わず食物は尽き、草の根はもとより、さらに死人の肉まで食い、路傍に餓死者が続出し、目を覆う惨状を呈するに至った。

 天保の飢饉は1833年(天保4)に始まり、相次ぐ異常気象が直接に原因し、1839年(天保10)までの7年間にわたって発生した。その前兆として文政(ぶんせい)(1818~1830)末年にはすでに冷害、水害、疫病の流行が続出した。1829~1831年には東日本を中心に不作が続き、1833年には春から異常気象により奥州に大洪水、関東に大風雨が発生した。1834年には平年作であったが、1835年には東北、関東地方が凶作となり、1836年には中国、九州地方まで拡大し、作況は全国平均で平年作の42%、被害のもっとも激しかった奥州では28%の大凶作となり大惨事に至った。1837~1838年にはやや回復したが、虫害、疫病などが続き、1840年にもまた凶作となり、さらに飢饉の惨状は拡大し、深刻な様相を呈した。1840年以後にも災害の余波が続き容易に回復しなかった。1837年の大塩平八郎の乱は天保飢饉のさなかに起こった。幕府は天保の飢饉による幕藩体制社会の危機を回避するために、天保の改革を行って農村の復興にあたった。

 近世の自然災害を直接の動因とする飢饉は、おもに冷害による凶作に起因するものが多く、その代表的なものとして、1695~1696年(元禄8~9)の東北の飢饉、1701~1703年(元禄14~16)の全国的飢饉、1755~1756年(宝暦5~6)、および1866年(慶応2)の関東、東北地方の飢饉がとくに知られている。近世には灌漑(かんがい)施設の拡充によって大中河川の沖積平野あるいは海岸線に存在した湿地の開発が進み、干魃による被害は相対的に低下し、夏期の多雨、冷温による冷害が凶作を引き起こし、これが飢饉に至らしめる傾向を強くした。

 通説によれば、明治以後は大凶作による飢饉はなかったとされているが、「明治二、三年ノ米価暴騰ハ全国幾多ノ人命ヲ絶滅セシ」め、あるいは栄養不良による多くの病人を出した。日本の飢饉には周期性があるとも考えられ、前記の近世三大飢饉前後をみても、ほぼ30年から50年の周期で凶作が起こっている。1642年(寛永19)の凶作から53年を経た1695年(元禄8)に大凶作、37年を経た1732年(享保17)に大凶作、51年を経た1783年(天明3)に大凶作、50年を経た1833年(天保4)に大凶作、36年を経た1869年(明治2)に大凶作が起こっている。ちなみに1726年(享保11)から1847年(弘化4)にかけての日本の総人口は2500万人前後に停滞したが、そのおもな原因は飢饉であった。

[須々田黎吉]

外国の飢饉

世界のなかでも大飢饉はとくにインドや中国に顕著で、その直接的な原因は不規則な季節風に基づく干魃や水害によるものが多かった。インドでは1148~1159年、1396~1407年、それぞれ12年間にわたって飢饉が続いた。後者の飢饉は全人口の3分の1の死者を出した。下って1790~1792年の飢饉は、散乱した死体が積み上げられた髑髏(どくろ)となったのにちなんで、髑髏飢饉として知られている。1899~1901年の飢饉では1000万人近い人口が減少した。さらに1943年のベンガルの飢饉は、日本軍のビルマ(現、ミャンマー)占領による米の輸送途絶によって死者150万人を出した。中国は「飢饉の国」の名があるように、清(しん)朝時代(1616~1912)のみについてみても324回の水害、167回の干魃、3回の虫害による大飢饉が記録されている。外国の飢民救済会は、1876~1877年にかけて山西省ほか5省で起こった干魃による大飢饉で1300万人の人口が死滅したことを報告している。

 一方ヨーロッパでは、1846~1847年にかけて起こった史上有名なアイルランドのジャガイモ飢饉によって、100万を越す餓死者を出し、多数の浮浪者がイギリス本土やアメリカ大陸に移民した。現代においては、1967年に起こったビアフラ戦争で、ビアフラ側は戦死、餓死を含めて200万に及ぶ死者を出した。また1973年のバングラデシュの大飢饉は水害に起因するものであった。なお現在のアフリカ大陸では、飢饉の際に食糧物資の緊急援助があっても、交通手段の未発達が末端への輸送を困難にし、それが飢饉をいっそう悲惨なものにしている。

[須々田黎吉]

アフリカの飢饉問題

アフリカ大陸において飢饉が頻発しているのは、熱帯降雨林と、その対極の砂漠との間に広がるサバナおよび半砂漠地帯であり、この地域に住む人々の多くは牧畜民である。その地域は、農耕を行いうるほどには降水量がない。牧畜民は、直接には食物にはしえない植物資源を、家畜を通して利用可能な形に変換して生活しているのである。

 こうした乾燥地域では、砂漠化が進行している。たとえば西アフリカのサハラ砂漠の南縁部のサヘル地帯では、過去200年間に砂漠が200キロメートル南下したという報告がある。しかしながら、過去百数十年間の気候の変化を、内陸湖や河川の水位変化や降水量の記録によって検討してみると、全体として降水量が連続的に減少しているという傾向はみられない。つまり、この期間に限定する限り、アフリカの気候が乾燥化に向かっているとはいえないのである。最近の数十年間に繰り返してアフリカ大陸を襲った飢饉の直接的な原因と考えられているのは少雨による干魃(かんばつ)である。しかしながらこの少雨は、異常気象ではなく、むしろ降水量の変動が大きいこの大陸としては、生起しうると予想される範囲でおこった現象であるということになる。

 しかし、土地の砂漠化は実際に進行している。1984年には、国連食糧農業機関(FAO)は、アフリカの24か国、1億5000万人が食糧不足にみまわれていると報告したが、この大部分の人は、こうした乾燥地域で生活している。乾燥地域を生態学的な観点からみれば、その生態系の有機的な構造は小さく、かつ単純であり、バランスは微妙に保たれている。そのバランスの人為的な破壊が、土地の砂漠化をもたらしたのである。

 バランスを崩壊させた基本的な原因は、土地利用形態の歴史的な変化にある。アフリカ諸国には、商品作物の栽培が植民地時代に旧宗主国によって導入され、独立後も外貨獲得手段として継続された。その農業は、伝統的な自給自足の農耕民を乾燥地域へと押し出し、農耕民は、その土地には不適当な集中的土地利用を行って、表土を流出させた。そして、農耕民流入によって、より乾燥した地域に生活域を限定された牧畜民は、家畜の過放牧を引き起こし、また、建築物や燃料用に樹木を伐採して、土地の砂漠化を進行させたのである。

 1960年代以後に次々に独立したアフリカ諸国は、政治の混迷、戦争や内紛、経済・農業政策の失敗、医療サービスの不備などの政治・社会的問題を抱えており、それらが干魃による飢饉に対処しえない要因をなしている。しかし、アフリカ大陸の飢饉の根本的な原因は、商業資本による農業の無計画な拡張、そしてそれを支えた政治的な中央集権化の過程に伴う、自然環境の過剰利用にある。アフリカ大陸は気候変動が大きく、その変動は予測しにくい。この大陸の飢饉は、激しい気候変動という特性を抱えた土地において、際限のない経済成長が追求されることによって、必然的にもたらされたといえよう。

 干魃によって家畜を失い、牧畜生活を維持できなくなった人々は、都市へ流入して周辺部で貧困街を形成し、その一部分は賃金労働者となっていく。また、伝統的には内部に階層のない平等主義的な牧畜民社会が、干魃による貧富の増大を直接的な契機として、近代化の波のなかで階層社会へと変容していくという過程も予想されている。

[太田 至]

対策と援助

長い間植民地、半植民地であった開発途上国などでは、現在もなお一般国民の政治社会経済的な地位が低く、かつ不安定な状態に置かれている。さらに政治的対立の激化している国々では、自然災害に加えて内乱や戦争、さらには爆発的に増加する人口問題が重なり合って、飢餓状態を引き起こしている場合も少なくない。そうした国々の飢餓問題の解決策として、先進資本主義諸国は人道主義の立場から、産児制限および農業生産力を高めるための技術援助を通じて、食糧の増産を図ってきたが、人口抑制政策も食糧増産政策もなお十分な成果をあげているとはいえない。「飢餓からの解放」や「貧困の克服」のための農業技術援助は、具体的にはアフリカや東南アジア諸国をはじめ、各地に巨大なダムの建設、水利施設の拡充、作物の改良品種、化学肥料、農薬などの導入、普及を通じて実施されてきた。1972年の世界的な異常気象による食糧危機を契機に、1974年ローマで世界食糧会議が開かれ、「飢餓及び栄養不良の撲滅に関する世界宣言」を全会一致で採択した。この決議は、開発途上国の飢餓問題にとどまらず、広く世界の食糧問題を解決するための国際協力の性格をもつものである。開発途上諸国には、およそ人間らしい生活からほど遠い「絶対的貧困者」(栄養不良、高い幼児死亡率、短い平均寿命、識字教育の不足などの劣悪な状態)が、世界総人口のほぼ4分の1近い8億も存在するといわれている。

[須々田黎吉]

『小野武夫編『日本近世饑饉志』(1935・学芸社)』『西村真琴・吉川一郎編『日本凶荒史考』(1936・丸善/復刻版・1983・有明書房)』『小鹿島果編『日本災異志』(1967・地人書館)』『司法省刑事局編『日本の飢餓資料』(1977・原書房)』『中島陽一郎著『飢餓日本史』(1981・雄山閣ブックス)』『荒川秀俊著『飢餓』(教育社歴史新書)』『西川潤著『飢えの構造』(1985・ダイヤモンド社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「飢饉」の意味・わかりやすい解説

飢饉
ききん
famine

農作物の凶作などから食物が極端に不足し,人々が飢え苦しむ現象。その直接的な誘因としては,(1) 長期的な干魃,(2) 気温の異常低下による冷害,(3) 長雨やその後の洪水,(4) ハリケーン台風などの暴風雨,(5) 火山の噴火に伴う火山灰堆積,(6) イナゴなどによる虫害といった自然的原因があげられる。しかし,飢饉がある国,地方の食物の絶対量不足を条件としている点からみれば,(1) 戦争による食物生産力減少,(2) 農業行政の硬直性(米だけに頼ることなど),(3) 流通機構の不備,(4) 買い占め,通貨価値下落などに対する政治的無策,などの人為的原因も指摘されなければならない。日本では,養和の飢饉(1180~81),天明の飢饉(1782~87),天保の飢饉(1833~36)などがその規模の大きさで知られる。また,飢饉が原因で土一揆打毀に発展したことも多い。外国の飢饉では,約 50万人が餓死したロシアの飢饉(1600),死者約 100万人を出したアイルランドのジャガイモ飢饉(1845~49),約 100万人が犠牲となり,800万人以上に影響を及ぼしたエチオピアの飢饉(1984~85)などが知られている。

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百科事典マイペディア 「飢饉」の意味・わかりやすい解説

飢饉【ききん】

干ばつ・風水害・冷害・虫害などの自然災害や,戦乱,支配者による労働力収奪などの社会的要因で農産物が減収(凶作),食物が欠乏し飢餓に陥った現象。日本では,飢饉のつど多数の餓死者・病死者が出て,社会不安から一揆騒擾(そうじょう)を引き起こし政治政策・宗教などにも大きな影響を与えた。古代律令国家では,備荒のために義倉(ぎそう)を定めていた。中世,寛喜(かんぎ)の大飢饉寛正(かんしょう)の大飢饉が発生。江戸時代,稲の品種改良,灌漑(かんがい)設備なども進められたが,寛永(かんえい)・天明(てんめい)・享保(きょうほう)・天保(てんぽう)の四大飢饉が発生。囲米,社倉などによる貯穀,救米,年貢の減免などの対策がとられた。→長禄・寛正の飢饉
→関連項目打毀

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普及版 字通 「飢饉」の読み・字形・画数・意味

【飢饉】ききん

不作で食糧が欠乏すること。〔史記、貨殖伝〕楚越の地、地廣く人希(まれ)なり。~或いは火して水耨す。~地勢饒(おほ)くして、饉の患無し。

字通「飢」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の飢饉の言及

【囲米】より

…大名には,1633年(寛永10)以来,城詰米と称して宇都宮,松本,諏訪,膳所藩など要地の譜代大名に幕府米の貯蔵と詰替えを命じている。これらは幕府の全国支配の一環として軍事上や飢饉対策,米価調節に利用された。このほか米価対策として行われた囲米として,(1)幕領年貢収納量がピークに達した宝暦年間(1751‐64)に,諸大名にたいし1万石につき籾1000俵の囲置きを命じた例,(2)寛政(1789‐1801)初年に幕領農村に郷倉を設置したり,江戸・大坂に籾蔵を建てるなどして,農民・町人に貯籾を命じ,凶作時の夫食(ぶじき)・救米の備えとした例,(3)低米価に悩んだ文化年間(1804‐18)に,大坂の豪商に囲米を命じ米価引上げを図った例などがある。…

【救荒食物】より

…庶民が自主的に備蓄する場合と支配者が制度的に蓄えさせる場合とがある。一般に凶作や飢饉は稲という単一作物を絶対的経済基盤とした社会に起き,非水田地帯,とくに定畑や焼畑地帯には起きにくい。そのことは歴史に記録されている凶作や飢饉が東日本に印象づけられることと関係し,水田稲作農耕を軸に考えれば,十分にうなずくことができよう。…

【凶作】より

…従来の新聞,雑誌,放送などジャーナリズムの報道経験からいえば,98以下の場合を凶作(並の凶作ともいう),94以下の場合を大凶作としている。なお飢饉という用語があるが,飢饉の飢は穀物の実らぬこと,饉は蔬菜の熟さぬことで,本来,凶作と同義である。交通,備蓄制度,共済制度などが未発達の時代にあっては,凶作がそのまま食を得るに苦しむということになった。…

【潰百姓】より

…禿百姓とも書き,江戸時代,年貢の未進や負債の累積などにより破産した百姓をいう。年貢諸役の過重取立て,商品経済の農村への浸透などによって農村が疲弊し,災害・凶作・飢饉などを契機にして潰百姓が激増した。潰百姓の跡地(あとち)は親類,縁者,誼(よしみ)の者が引き請けるものとされていたが,引請人のいない場合が多く,それが村の惣作地(村総作)となった。…

※「飢饉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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