飯塚桃葉(読み)いいづか・とうよう

朝日日本歴史人物事典 「飯塚桃葉」の解説

飯塚桃葉

生年生没年不詳
江戸後期の蒔絵師通称を源六,名を秀久といい,観松斎を号する。『蒔絵師伝・塗師伝』には,明和(1764~72)のころ,桃葉が阿波徳島10代藩主の蜂須賀重喜に召されて,下駄に蒔絵をするように依頼されたが,それを礼を失するものとして峻拒したこと,その気骨のある姿が重喜に気に入られ,同家お抱えの蒔絵師に取り立てられたこと,などが記されており,その人となりを垣間見せる逸話となっている。桃葉は本来印籠蒔絵師であり,高蒔絵に金貝や切金を併用した精細かつ華麗な作風で知られる。今日でも桃葉作とされる印籠が各地に伝えられているが,「鶏蒔絵印籠」「葦鷺蒔絵印籠」(いずれも東京国立博物館蔵)などはそれらを代表する優品といえよう。なお宮内庁には,蜂須賀家から皇室に献上された「宇治川蛍蒔絵料紙硯箱」が収蔵されており,硯箱の身の側面に「観松斎 桃葉造」の銘が蒔絵で記されている。

(小松大秀)

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改訂新版 世界大百科事典 「飯塚桃葉」の意味・わかりやすい解説

飯塚桃葉 (いいづかとうよう)

江戸後期の印籠蒔絵師。生没年不詳。通称は源六,号は観松斎。明和年間(1764-72)に阿波の蜂須賀重喜に六石三人扶持で召し抱えられ,江戸中橋檜物町の藩邸に住む。蜂須賀侯より下駄に蒔絵を施す下命を断る硬骨漢である反面詩歌をよくした文人風情ある格調高い作風を示し,代表作には《宇治川蛍蒔絵料紙硯箱》(宮内庁)がある。彼の子孫は蜂須賀侯に仕え,観松斎の号を踏襲している。
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百科事典マイペディア 「飯塚桃葉」の意味・わかりやすい解説

飯塚桃葉【いいづかとうよう】

江戸中期の印籠蒔絵(いんろうまきえ)師。通称源六,観松斎と号す。蜂須賀重喜に召しかかえられ,江戸に住んだ。豪華な蒔絵のほか,墨絵を思わせる研(とぎ)切蒔絵なども制作。代表作は《宇治川蛍蒔絵料紙硯(すずり)箱》。子孫も業を継ぎ,観松斎の号を踏襲。
→関連項目漆器

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「飯塚桃葉」の解説

飯塚桃葉 いいづか-とうよう

?-? 江戸時代中期の蒔絵(まきえ)師。
明和(1764-72)のころ阿波(あわ)徳島藩蜂須賀(はちすか)重喜にかかえられ,江戸藩邸にすんだ。印籠(いんろう)蒔絵師として知られた。子孫も代々同藩につかえ,観松斎と号した。江戸出身。通称は源六。作品に「宇治川蛍蒔絵料紙硯箱」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「飯塚桃葉」の意味・わかりやすい解説

飯塚桃葉
いいづかとうよう

江戸時代後期の蒔絵師。江戸の人。通称源六,観松斎と号し子孫も同号を用いる。印籠蒔絵に長じ,蜂須賀重喜にかかえられ江戸藩邸内に住んだ。明和1 (1764) ~安永1 (72) 年頃の作品が残り,『宇治川蛍蒔絵料紙硯箱』 (宮内庁三の丸尚蔵館) が代表作。

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