館(やかた)(読み)やかた

日本大百科全書(ニッポニカ) 「館(やかた)」の意味・わかりやすい解説

館(やかた)
やかた

屋形とも書き、「たち」または「たて」とも読む。貴族や武士の第(だい)、邸(てい)、家などの私宅に対して、京都や地方国衙(こくが)における貴族、武士の公邸から、やがて有力な地方武士の屋敷を意味するようになった。『今昔(こんじゃく)物語』巻26に、陸奥(むつ)の国司説話として「国ノ介(すけ)ニテ政(まつりごと)ヲ取行ヒケレバ、国ノ庁(た)チニ常ニ有テ、家ニ居タル事ハ希(まれ)ニゾ有ケル、家ハ館ヨリ百町許去(ばかりさり)テゾ有ケル」とあり、国司は、家から百町ほど離れた庁=館(たち)で政務をとっていたと記されており、平安期の「館」のあり方を示している。

 中世では、おおむね守護クラスの大名が館を構え、敬称として「御館(おやかた)」などと称せられた。室町時代の関東では、千葉(ちば)、小山(おやま)、小田(おだ)、佐竹(さたけ)、那須(なす)、結城(ゆうき)、長沼(ながぬま)、宇都宮(うつのみや)の各氏が関東八屋形として重んぜられた。

 中世武士の館は、荘郷の武士の本領(ほんりょう)に構築され、ほぼ方形のプランで周囲に堀と土塁(どるい)を巡らし、その内部に建物群があった。絵巻物に描かれた館は、『一遍上人(いっぺんしょうにん)絵伝』では、伊予(いよ)国越智(おち)氏館(一遍の生家)、筑前(ちくぜん)のある武士の館、信濃(しなの)国小田切里(おだぎりのさと)の武士の館、信濃国佐久(さく)郡大井太郎の館、『法然(ほうねん)上人絵伝』では、美作(みまさか)国漆間(うるま)時国(ときくに)の館(法然の生家)、讃岐(さぬき)国塩飽(しあく)の高階保遠(たかしなやすとお)の館などがある。漆間時国の館を例にとると、四方に堀を巡らし、館の正面左手に門がある。その前は堀を隔てて、門田(かどた)といわれる領主の直営田が広がっている。館の内部に五間×四間の茅葺(かやぶ)きの寝殿母屋(おもや))があり、左側に曲屋(まがりや)になって一間×二間の遠侍(とおざむらい)があり、そこでは従者武具の手入れをしている。寝殿を中心に右手に二間×三間の厨(くりや)(炊事場)、左手に二間×三間の厩(うまや)がある。

 武士の館の規模では、おのずと家格の差による大小があり、最大規模の館は、ほぼ二町(約218メートル)四方で、南または西がすこし末広がりになって台形となっている場合が多い。栃木県足利(あしかが)市の鑁阿(ばんな)寺館跡(足利氏)、埼玉県川越(かわごえ)市の河越氏館跡などこの規模に属し、現状がよく保存されている。近年各地の発掘調査によって、館の全貌(ぜんぼう)が明らかになった所も多いが、福井県一乗谷(いちじょうだに)の朝倉(あさくら)氏館跡は、館跡を中心に庭園、寺、家臣団屋敷など全体が発掘され、そこから陶磁器など多くの遺物が出土している。

[峰岸純夫]

『峰岸純夫著『東国武士の館』(『地方文化の日本史 三 鎌倉武士団西へ』所収・1978・文一総合出版)』

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