高元度(読み)こう・げんど

朝日日本歴史人物事典 「高元度」の解説

高元度

生年生没年不詳
奈良時代の官人。天平勝宝4(752)年遣唐使として唐に渡ったまま帰国できなくなっていた藤原清河を迎えに行くために,天平宝字3(759)年1月迎入唐大使に任命された。2月帰国する高麗(渤海)国使楊承慶 らと共に渤海経由で唐へ行こうとした。10月,藤原清河を迎えに行く使の判官内蔵全成が渤海国から帰国,同時に来日した渤海国使がもたらした中台(日本でいえば中務省)の文書によれば,安史の乱(755~763)により,唐国内の治安が不安なため,一行99人のうち,高元度ら11人だけが唐に赴き全成らは帰国させるとのことであった。5年8月,高元度一行は帰国。その報告によれば,渤海道をとって賀正使楊方慶 らと共に唐に入り,兵器の見本として甲冑や刀,槍,矢などを与えられたが,未だ道中が不安であるとして,勅によって清河の帰国は止められ,高元度らだけが南路をとって帰ってきたという。帰国の際,武器の不足に悩む唐の皇帝から,弓を作るための牛角を求められたため,10月に東海,東山,北陸,山陰,山陽,南海の6道諸国から牛角7800隻を集めて唐に贈った。同11月,外従五位下から従五位下に昇進,渡唐の労を賞したものであろう。さらに三河守を経て,7年7月左平準署 の長官に転任した。

(清田善樹)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「高元度」の意味・わかりやすい解説

高元度 (こうげんど)

奈良時代の官僚。生没年不詳。高句麗あるいは百済出身の渡来人の子孫か。759年(天平宝字3)遣唐使藤原清河を迎える使となり,渤海使楊承慶の送使を兼ねて,渤海をへて入唐した。761年帰国に当たり兵仗の見本,甲冑,伐刀,槍,矢などを授かったが,唐帝玄宗の勅により清河らはとどまり,元度らのみが蘇州から南路をとり,唐使沈惟岳らに送られて大宰府に着いた。帰国後,参河守,左平準令などを歴任した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高元度」の解説

高元度 こう-げんど

?-? 奈良時代の官吏
天平宝字(てんぴょうほうじ)3年(759)遣唐使藤原清河(きよかわ)をむかえる使節として唐(とう)(中国)にわたる。清河は皇帝粛宗(しゅくそう)の命により唐にとどめられ,5年元度らだけが甲冑(かっちゅう),槍などをさずけられて帰国。のち三河守(かみ),左平準令を歴任した。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android