高天神城(読み)たかてんじんじょう

日本の城がわかる事典 「高天神城」の解説

たかてんじんじょう【高天神城】

静岡県掛川市(旧小笠郡大東町)にあった山城(やまじろ)。国指定史跡。戦国時代末期に、武田信玄武田勝頼徳川家康との間で激しい争奪戦が繰り広げられた城である。鶴翁山(標高132m、比高約100m)の頂に築かれた城で、四方に延びる尾根筋に複数の曲輪(くるわ)を配置した複雑な縄張りを持っていた。城の規模はそれほど大きくはないが、戦国時代には高天神城を制する者は遠江(とおとうみ)を制するともいわれるほどの戦略的な拠点に建てられた堅城だった。平安時代末期の源平合戦の際に築城されたとの伝承があるほか、明応~文亀年間(1492~1503年)に、遠江の斯波氏への備えとして駿河守護の今川氏が築城したともいわれるが、くわしい築城年代はわかっていない。戦国時代には今川氏の有力武将の福島(くしま)氏の居城だった。城主の福島正成はたびたび甲斐に侵攻し、武田信虎(信玄の父)を悩ませた武将である。正成は1536年(天文5)、花倉の乱(今川氏の後継者争い)で玄広恵探に与し、梅岳承芳(のちの今川義元)に敵対した。この乱に敗れ、甲斐に逃れた正成は信虎により殺害されている。正成の子は北条氏綱を頼り相模に逃れ、長じて北条綱成を名乗って北条氏の有力武将となった。その後、今川義元は城主のいなくなった高天神城に小笠原長忠親子を配した。義元の死後の1569年(永禄12)、高天神城は徳川家康の属城となった。1571年(元亀2)、武田信玄は2万の大軍でこの城を攻撃したが奪えず、信玄の後を継いだ武田勝頼が1574年(天正2)に開城させた。勝頼は同城を改修して遠江の拠点としたが、長篠の戦いで大敗したのちの1581年(天正9)、高天神城は家康に攻め落とされた。落城後は廃城となり、その後も城郭として整備されることはなかった。現在、城跡には曲輪、土塁、掘割遺構が残っている。JR東海道線掛川駅からバス25分で土方下車。◇鶴舞城ともよばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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