高橋由一(読み)たかはしゆいち

精選版 日本国語大辞典 「高橋由一」の意味・読み・例文・類語

たかはし‐ゆいち【高橋由一】

明治初期の洋画家。江戸の生まれ。幕府蕃書調所画学局にはいり、川上冬崖に師事、また横浜在留のワーグマンに洋画の実技を学ぶ。画塾天絵楼(のち天絵舎)を創立。人物画静物画に迫力ある油彩リアリズムを確立した最初画家であった。代表作「鮭」「花魁」など。文政一一~明治二七年(一八二八‐九四

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デジタル大辞泉 「高橋由一」の意味・読み・例文・類語

たかはし‐ゆいち【高橋由一】

[1828~1894]洋画家。江戸の生まれ。初め川上冬崖かわかみとうがい、のちワーグマンに師事。明治6年(1873)私塾天絵楼てんかいろうを創立。油彩による写実を追求。作「花魁おいらん」「」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「高橋由一」の意味・わかりやすい解説

高橋由一 (たかはしゆいち)
生没年:1828-94(文政11-明治27)

明治初期の洋画家。江戸の下野国佐野藩邸内に生まれる。幼名猪之助(いのすけ),壮年になって之助(いのすけ),維新後に由一と改める。藩主堀田正衡の近習として出仕。はじめ狩野派に学ぶが満足せず,洋画法の学習を志して1862年(文久2)蕃書調所画学局に入り,川上冬崖の指導を受ける。64年(元治1)開成所画学局出役介となるが,油絵の実技がままならないのを知って,横浜居留地のワーグマンや貿易商ショイヤー夫人を訪ねている。67年(慶応3)上海に渡航して,租界地の〈洋務運動〉にも接するが,油絵実技は独力で開発する。この年パリ万国博覧会に油彩画を出品。69年(明治2)ジャーナリスト柳川春三を介してワーグマンとの同居申請を東京府に出すが,不許可となる。71年大学南校画学係教官に任命される(翌年退任)。73年私塾天絵楼を創設(1879年天絵学舎と改称)し,門弟との月例展示会を82年まで開催する。官立系の美術学校を別にすれば,日本で最大の〈画学教場〉であり,創設以来の習学者は150余名にのぼる。由一はこの月例会に《花魁(おいらん)図》や《鮭図》など近代日本洋画の記念碑的な作品を出品,また金刀比羅宮の依頼で《浅草遠望》や《なまり節》など35点の油絵を納めるというように,明治10年(1877)前後まで精力的に制作した。これを前期とすれば,後期の仕事は東北地方の一連風景画である。81年三島通庸の依嘱で山形県下新道の写生油彩画を描いたのをはじめ,東北三県新道200図の写生を3冊の石版・手彩色で上梓。また写真を参考にした後期の代表作のひとつ《山形市街図》は,対象の質感・量感をみごとにとらえ,幕末期に洋製石版画を見て洋画を志した由一の集大成となっている。89年明治美術会の創設に協力。92年病床で〈高橋由一履歴〉をまとめ,翌年旧天絵学舎の主催で〈油絵沿革展〉を開催,司馬江漢以降の日本の洋画史を展望する作品200余点を展示する。未知の領域であった油絵実技の文字どおり開拓者の生涯であった。
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百科事典マイペディア 「高橋由一」の意味・わかりやすい解説

高橋由一【たかはしゆいち】

明治初期の洋画家。江戸生れ。初め狩野派を学び,のち幕府の蕃書調所画学局に入って川上冬崖に師事,次いでワーグマンに油絵技法を学ぶ。明治に入って大学南校教官となり,1873年日本橋浜町に私塾天絵楼(てんかいろう)を設立,1884年まで原田直次郎,高橋源吉ら多くの弟子を養成。1879年には元老院の依頼で明治天皇の肖像も描いた。日本で油絵らしい油絵を描いた最初の人。作品《鮭》《花魁(おいらん)図》など。
→関連項目神奈川県立近代美術館川端玉章

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「高橋由一」の意味・わかりやすい解説

高橋由一
たかはしゆいち
(1828―1894)

明治初期洋画の代表作家。文政(ぶんせい)11年2月5日、下野(しもつけ)国(栃木県)佐野藩士の子として江戸に生まれる。幼名猪之助(いのすけ)、維新後は由一。号は藍川(らんせん)。幼少から狩野(かのう)派ほかを学ぶが、嘉永(かえい)年間(1848~54)に西洋石版画の迫真性に打たれ、1862年(文久2)幕府の洋書調所(ようしょしらべしょ)画学局に入り、川上冬崖(とうがい)のもとで西洋画法を学んだ。また横浜のワーグマンやショイヤー夫人にも指導を受け、67年(慶応3)上海(シャンハイ)に渡航のほか、パリ万国博覧会に出品。73年(明治6)ウィーン万国博覧会に『富嶽(ふがく)大図』を出品、同年日本橋浜町に画塾天絵楼(てんかいろう)(のち天絵社、天絵学舎)を開き、84年まで後進を指導したが、そのなかには川端玉章(かわばたぎょくしょう)、安藤仲太郎(なかたろう)、原田直次郎らがいた。77年の第1回内国勧業博覧会で三等花紋賞、81年の第2回同会では妙技二等賞牌(はい)を受ける。この間、金刀比羅(ことひら)宮に油絵35点を奉納のほか、元老院の委嘱により明治天皇の肖像画を描いた。のち東北地方ほか各地に旅行して写生する。明治27年7月6日没。

 彼は風景画、人物画、身辺に取材した静物画に迫力ある油彩リアリズムを確立した最初の画家であった。代表作に『岩倉具視(ともみ)像』『花魁(おいらん)』『鮭(さけ)』『豆腐及油揚図』『酢川にかかる常盤(ときわ)橋』ほかがある。

[小倉忠夫]

『青木茂編『高橋由一油画史料』(1984・中央公論美術出版)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高橋由一」の意味・わかりやすい解説

高橋由一
たかはしゆいち

[生]文政11(1828).2.5. 江戸
[没]1894.7.6. 東京
明治初期の代表的洋画家。佐野藩下級藩士の出身。幼名は猪之助,のち由一。生来病弱で画家への道を選び,狩野派を学んで藍川と号した。その後,洋製石版画に接して洋画への情熱を燃やし,文久2 (1862) 年,蕃所調所画学局に入り川上冬崖に師事。さらに横浜で C.ワーグマンに実技を学び,本格的な油彩画の技法と理論を身につけ,鮭や豆腐など身近な物を,写実主義に徹した画風で描いた。 1873年日本橋に画塾天絵楼を創立して明治画壇の俊才を育成。 76年 A.フォンタネージと出会い西洋画法を学んだ。 78年浅井忠,小山正太郎らと十一字会を結成。 80年日本最初の美術雑誌『臥遊席珍』を発行。晩年は穏健な風景画,肖像画を多く制作した。主要作品『花魁 (おいらん) 』 (72頃,東京芸術大学,重文) ,『鮭』 (77頃,同,重文) ,『豆腐と油揚』 (77頃,金刀比羅宮) ,『不忍池』 (94頃) 。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「高橋由一」の解説

高橋由一
たかはしゆいち

1828.2.5~94.7.6

幕末~明治期の洋画家。江戸の佐野藩邸に生まれる。はじめ狩野洞庭・吉沢雪葊(せつあん)に学ぶ。1862年(文久2)蕃書調所画学局に入り,川上冬崖(とうがい)に洋画の指導をうけ,65年(慶応元)「画学局的言」を書く。ワーグマンにも学んだ。73年(明治6)私塾天絵楼(てんかいろう)を設立,後進の指導にあたる。「花魁(おいらん)」「鮭」(ともに重文)など一貫して対象に肉薄する迫真的写実作品を描き,後期にはフォンタネージの指導をうけ,風景画も多い。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高橋由一」の解説

高橋由一 たかはし-ゆいち

1828-1894 幕末-明治時代の洋画家。
文政11年2月5日生まれ。蕃書調所(ばんしょしらべしょ)画学局にはいり,のち川上冬崖に油彩画をまなび,ワーグマンの指導をうける。明治6年画塾天絵楼(てんかいろう)をひらき,原田直次郎,川端玉章らを指導し,洋画の普及につとめた。明治27年7月6日死去。67歳。江戸出身。初名は浩。字(あざな)は剛。号は藍川。作品に「花魁(おいらん)」「鮭」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「高橋由一」の解説

高橋由一
たかはしゆいち

1828〜94
幕末・明治前期の洋画家。近代洋画の先駆者
江戸の人。初め狩野派を学んだが,1862年蕃書調所に入り洋画を川上冬崖 (とうがい) に学び,のちワーグマンに師事。写実的画風にすぐれ,近代洋画を開拓した。代表作に『鮭』『花魁 (おいらん) 図』など。

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世界大百科事典(旧版)内の高橋由一の言及

【画学校】より

…しかし,1876年創設の工部美術学校が短期間で閉校となったのち,官設の東京美術学校が89年に開校されるまでの明治前半期には,一連の私画塾が画学校の役割を果たした。川上冬崖,高橋由一の2人の洋画家はその先駆をなす。ともに幕府の開成所(蕃書調所の後身)画学局に学んだが,西洋画研究機関であったこの画学局は,明治期の画学校の前身ともみることができる。…

【水彩】より

…とくに重要な画家をあげれば,ドラクロア,ドーミエ,セザンヌ,ゴッホ,シニャック,モローなどがおり,20世紀にかけてはルオー,デュフィ,スゴンザック,クレー,ノルデ,またアメリカではホーマー,プレンダーガストMaurice Prendergast(1859‐1924),マリンJohn Marin(1870‐1953)などがあげられ,いずれも従来の伝統にとらわれない自由な様式,技法を見せている。
[近代日本の水彩]
 日本では《イラストレーテッド・ロンドン・ニューズ》の特派員として幕末に来日したイギリス人ワーグマンに学んだ高橋由一,五姓田(ごせだ)芳柳(1827‐92),その次男の義松などが洋風水彩画の端緒を作り,浅井忠は油彩のほか水彩にもすぐれていた。また1907年には大下藤次郎,丸山晩霞(ばんか)(1867‐1942)らの手で日本水彩画研究所が設立され,その後の水彩の普及,発展に大きく貢献した。…

【明治・大正時代美術】より

…冬崖はまた,蘭書や英書の絵画入門書を翻訳・研究するとともに,苦心惨憺して油絵具をみずから手製している。高橋由一がこの画学局に入ったのは,62年のことであった。
【明治時代美術】

[欧化と国粋]
 日本で最初の本格的な洋画家(油絵画家)となったのが,川上冬崖を師とした高橋由一である。…

※「高橋由一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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