高良大社(読み)コウラタイシャ

デジタル大辞泉 「高良大社」の意味・読み・例文・類語

こうら‐たいしゃ〔カウラ‐〕【高良大社】

福岡県久留米市にある神社。旧国幣大社。主祭神は高良玉垂命こうらたまだれのみこと八幡大神住吉大神を配祀。筑後国一の宮

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精選版 日本国語大辞典 「高良大社」の意味・読み・例文・類語

こうら‐たいしゃ カウラ‥【高良大社】

福岡県久留米市御井町にある神社。旧国幣大社。祭神は高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)を主神に、八幡大神(はちまんのおおかみ)、住吉大神(すみよしのおおかみ)を配祀。高良玉垂命は筑紫の国魂(くにみたま)神であり、履中天皇元年に社殿が創建されたと伝える。現社殿は万治三年(一六六〇)に藩主有馬頼利が建立。筑後国一の宮。高良明神。高良宮。高良玉垂宮。

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日本歴史地名大系 「高良大社」の解説

高良大社
こうらたいしや

[現在地名]久留米市御井町

高良山の中腹、筑紫ちくし平野が一望できる地に鎮座。山麓に里宮高良下宮こうらげぐう社がある。社号は古代にカワラ、中世にはカハラ(十巻本伊呂波字類抄伴信友校本)とみえ、「高良玉垂宮神秘書」ではすべてカウラと記され、現在は「こうら」とする。祭神は高良玉垂命・八幡大神・住吉大神。筑後国一の宮。旧国幣大社。

〔古代〕

 創建は「履中天皇元年庚子」と伝えるが(鏡山系譜)、「肥前国風土記」基肄郡条に景行天皇が「御井郡高羅之行宮」で筑肥の経営を行ったとある。主神高良玉垂命は景行の子孫と称する筑後の水沼君の祖先神とも考えられるが、諸説がある。延暦一四年(七九五)「高良神」が従五位下に叙され(「日本紀略」同年五月六日条)、弘仁九年(八一八)には「御井郡高良玉垂命神」が名神に列している(同書同年一一月一六日条)。嘉祥三年(八五〇)高良玉垂命神は従四位上となり(「文徳実録」同年一〇月七日条)、斉衡二年(八五五)位田四町が加えられ(同書同年五月二〇日条)、天安元年(八五七)「従三位高良玉垂命名神」に封戸・位田が与えられた(同書同年一〇月三日条)。貞観六年(八六四)正二位(「三代実録」同年七月二七日条)、同一一年に従一位と神階を進め(同書同年三月二二日条)、寛平九年(八九七)正一位が授けられたという(天慶七年四月二二日「筑後国神名帳」高良山文書/久留米市史7 資料編古代・中世)。「延喜式」神名帳に三井みい郡三座の一つとして「高良玉垂命神社」とあり、名神大と記される。同帳にカワラ(九条家本)、タカンラノタマタレノ(享保八年版本)の訓が付される。大宮司・大祝とともに置かれた座主が高良山全体を支配するようになり、朝廷・大宰府および筑後国府の崇敬を受けて勢威を拡大し、平安後期に最盛期を迎える。寛仁元年(一〇一七)一代一度の奉幣を受けている(「左経記」同年一〇月二日条)。平安末期、後白河院長講堂領となるが、一二世紀末の源平の争乱で反平氏勢力が高良山に拠ったため荒廃したという(歴代鎮西要略)。「大日本国一宮記」に高良玉垂神(武内宿禰)と記される。

〔中世的展開〕

 七世紀に現久留米市合川あいかわ町字古宮ふるごう付近に置かれた筑後国衙は高良山へ向かって三度移転、一二世紀後半以降に国府のもつ都市機能は高良山下の府中ふちゆうへと吸収されたことが指摘されている。また国衙在庁の筆頭である在国司は高良社祭祀のなかでも大きな役割を果した。鎌倉期、筑後在国司職は山本やまもと郡に基盤をもつ在地領主で御家人の草野氏、のちその一族の大城氏に相伝されたが、一三世紀末の在国司藤原永基は高良「御宮隈田拾弐町」「高良宮二月朔幣田国庁壱町」といった当社領免田の一部を掌握していた(弘安三年八月日「草野永基惣間帳写」草野文書/鎌倉遺文一九)

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改訂新版 世界大百科事典 「高良大社」の意味・わかりやすい解説

高良大社 (こうらたいしゃ)

福岡県久留米市に鎮座。高良玉垂(こうらたまだれ)命を主神とし,左相殿(あいどの)に八幡大神を,右相殿に住吉大神をまつる。社記によれば履中天皇のとき創建というが,筑後平野にのぞむ高良山中腹に鎮座する本社には,社殿の背後より山裾まで1.5kmに及ぶ列石神籠石(こうごいし)(国指定史跡)があり,古い時代の創建とみられる。歴代皇室の崇敬をうけ,795年(延暦14)従五位下よりしだいに昇進,869年(貞観11)従一位,さらに897年(寛平9)正一位,延喜の制で名神大社とされた。筑後国の一宮,さらに九州総社,鎮西11ヵ国の宗廟と称され,鎌倉時代まで造営はすべて勅裁により行われ,文永・弘安の役には勅使が参向して祈願をした。中世南北朝の争乱期に,少弐,菊池,大友,島津氏らがここに陣し,祭事にもあたった。近世に入っては歴代久留米藩主の崇敬をうけた。例祭10月9,10,11日,俗におくんちと呼ばれ,現在神幸祭は中止されているが,中世には供奉の士卒ら1000余人におよぶ盛儀であった。

 特殊神事も多く,そのうち川渡(へこかき)祭(6月1,2日)は厄祓い,延命長寿祈願,なかでも7歳の厄祓い,60歳還暦の長寿祈願でにぎわい,粥炊き祭(1月16日)で粥占の粥をたき,田植神事をなし,初午祭(旧暦初午の日)に,さきの粥炊き祭の粥を神座近くよりとり出して,その年の豊凶作を占う。宝物に覚一本《平家物語》などがある。旧国幣大社。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「高良大社」の意味・わかりやすい解説

高良大社
こうらたいしゃ

福岡県久留米(くるめ)市御井(みい)町に鎮座。高良玉垂命(たまだれのみこと)を主神とし、相殿(あいどの)に八幡(はちまん)大神、住吉(すみよし)大神を奉斎している。高良玉垂命は、古くより高良山(こうらさん)に鎮まり、奇(く)しき恵みを万民に垂れる筑紫(つくし)の国魂(くにみたま)の神であるという。社伝によれば、当社の創建は、履中(りちゅう)天皇元年という。673年(天武天皇2)2月、神主物部道麿(もののべみちまろ)の子美濃里麿(みのりまろ)に神託があり、それによって大祝(おおはうり)家三男隆慶(りゅうけい)を社僧にしたという。その子孫は江戸時代前まで48世続き、盛時には当社の神宮寺御井寺(みいでら)の座主(ざす)として1000余名の僧徒を支配した。桓武(かんむ)天皇の代の795年(延暦14)5月、従(じゅ)五位下に、以後たびたびの昇叙があり、宇多(うだ)天皇の代の897年(寛平9)には正一位となった。『延喜式(えんぎしき)』神名帳には、「高良玉垂命神社」の名でみえ、名神(みょうじん)大社に列する。筑後(ちくご)国の一宮(いちのみや)。旧国幣大社。例祭は10月9~11日。6月1、2日の川渡祭(かわたりさい)は無病息災と寿命長久を祈願する行事で、俗にへこかき祭といわれる。現社殿は1660年(万治3)久留米藩主有馬頼利(ありまよりとし)の造営になる権現造(ごんげんづくり)で、社宝の紙本墨書平家物語覚一本12冊とともに国の重要文化財に指定されている。なお、高良山西斜面には神籠石(こうごいし)(国史跡)とよばれる環状の列石が連なる。

[落合偉洲]

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百科事典マイペディア 「高良大社」の意味・わかりやすい解説

高良大社【こうらたいしゃ】

福岡県久留米市御井町に鎮座。旧国幣大社。高良玉垂(たまたれ)命をまつる。履中(りちゅう)天皇の時の鎮祭と伝える。延喜式内の名神大社とされ,筑後国の一宮。九州総社,鎮西11ヵ国の宗廟と称された。例祭は10月9日。ほかに川渡祭(6月1日)がある。境内の神籠石(こうごいし)は有名。
→関連項目久留米[市]

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デジタル大辞泉プラス 「高良大社」の解説

高良(こうら)大社

福岡県久留米市、高良山の中腹にある神社。延喜式内社。祭神は高良玉垂命(たまだれのみこと)、八幡大神、住吉大神。筑後国一之宮。本殿などは国の重要文化財に指定。

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事典・日本の観光資源 「高良大社」の解説

高良大社

(福岡県久留米市)
福岡県文化百選 建物編」指定の観光名所。

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