高階泰経(読み)たかしなのやすつね

朝日日本歴史人物事典 「高階泰経」の解説

高階泰経

没年建仁1.11.23(1201.12.20)
生年大治5(1130)
平安末・鎌倉初期の公卿。後白河院近臣。若狭守高階泰重の子。母は修理権大夫藤原宗兼の娘。仁平1(1151)年に蔵人となり,左衛門少尉,河内出羽・摂津守などを経て仁安1(1166)年に少納言。さらに伊予守や大蔵卿を経て,寿永2(1183)年従三位に叙せられた。九条兼実の『玉葉』によれば「法皇第一の近臣」で,後白河法皇の寵愛ぶりとその権勢は丹後局(高階栄子)とも比されるほどだった。しかし文治1(1185)年12月,源義経と行家の謀反の際に,子経仲と共に法皇への取り次ぎを務めていたことから,頼朝の怒りを買い,陰謀の中心人物として親子ともに官を解かれ,泰経は伊豆国へ配流が決まった。許されて出仕したのは4年後の文治5年のことだった。建久2(1191)年正三位に叙せられ,同8年に出家した。<参考文献>『玉葉』『公卿補任

(土谷恵)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「高階泰経」の意味・わかりやすい解説

高階泰経 (たかしなやすつね)
生没年:1130-1201(大治5-建仁1)

後白河院の近臣。若狭守泰重の男,母は藤原宗兼の娘。文事・才略に秀で,1178年(治承2)には大蔵卿,右京大夫,伊予守を兼ねたが,翌年平清盛の,83年(寿永2)木曾義仲クーデタにより,そのつど法皇の近臣として解官された。さらに85年(文治1)末には,源義経に与同したとする源頼朝要求により解官・配流と決まったが,89年出仕をゆるされ,97年(建久8)非参議正三位のとき出家した。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高階泰経」の解説

高階泰経 たかしなの-やすつね

1130-1201 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
大治(だいじ)5年生まれ。大蔵卿,皇后宮亮(すけ)などを歴任。側近として後白河法皇につかえるが,文治(ぶんじ)元年源義経の謀反にくわわったとして解任され伊豆(いず)に流される。のちゆるされ正三位にのぼった。建仁(けんにん)元年11月23日死去。72歳。

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