魚町(読み)うおまち

日本歴史地名大系 「魚町」の解説

魚町
うおまち

[現在地名]豊橋市魚町

札木ふだぎ町の南に接する裏町。御輿休みこしやすみ町の東に続き大手門おおてもん通までをいう。寛延三年(一七五〇)の吉田二十四町差出帳(橋良文庫蔵)によると、高六一石余、戸口は一一九軒・六〇八人、うち男三〇二・女三〇六で吉田宿最大の町。新居あらい宿(現静岡県)から伊良湖いらご岬に至る遠州灘一帯の海岸でとれる魚を魚町問屋に集め、かつ領主の保護もあって栄えた(吉田名蹤綜録)。慶長六年(一六〇一)魚町地内安海熊野あんかいくまの社に宛てた伊奈忠次の証状(同書)

<資料は省略されています>

とあり、慶長六年以前今川義元の頃より安海熊野社境内で魚市が設けられ、かつ片浜十三里かたはまじゆうさんりすなわち遠州灘からの魚の集散地であったことがわかる。

魚町
うおまち

[現在地名]甲府市中央ちゆうおう二―五丁目

竪近習たつきんじゆ町とやなぎ町の東に並行する南北通りの町人地。下府中二三町の一町でさん土居内どいない町に属する。北は横近習よこきんじゆ町一―二丁目の間から南は鍛冶かじ町と桶屋おけや町の境までで、この間山田ようだ町・八日ようか町・三日みつか町・上連雀かみれんじやく町と交差する一―五丁目からなる。町名は寛永一三年(一六三六)の柳町伝馬請負証文(県立図書館蔵)にみえ、「魚商多く住居す」と記されるように(裏見寒話)、魚商人の集住に由来するという。享和三年(一八〇三)の小間数書上帳(県立図書館蔵)によると東側一五四間・西側一五〇間。

当町草分の町人として古府中こふちゆうから移ったという海野源右衛門と中楯与兵衛が知られる(甲州府中聞書)。貞享三年(一六八六)の町中諸問屋改帳(県立図書館蔵)では町内二―三丁目に魚問屋二・茶問屋二があった。元禄五年(一六九二)の上下町中屋敷値段の書上(「御用留」坂田家文書)で二―三丁目が城下目抜の八日町一―二丁目と柳町二―三丁目に次ぐ高価格を示していたのは、商業街としての展開による。

魚町
うおまち

[現在地名]津市大門だいもん

大門通筋の東側に並行する町筋で、くら町の南に接する町人町。慶長一八年(一六一三)藤堂高虎による津町地子免許状に、高町に対してはま築地つきじが挙げられている(草蔭冊子)。高虎入封以前の同一〇年頃に大門町・中之番なかのばん宿屋しゆくや地頭領じとうりよう分部わけべ町と大門通筋の町がみえ、これらが主要な高町で、高町より東の海岸寄りに浜方として漁民町があった。高虎の城下町形成後、急速に魚売買の商人が成長したらしく、寛永期(一六二四―四四)の城下図(多羅尾家蔵)にも魚町の名がみえる。正式の町名としては浜や浜町のなかに含まれ、魚町や魚屋うおや町は通称であったらしい。慶安―明暦(一六四八―五八)の頃から浜町も浜魚はまうお町と総称されたが、町内を魚町・浜中はまなか町・浜片はまかた町と分けることも多かった。

元禄初めには、正式町名としても魚町・中浜なかはま町・片浜かたはま町に分立したもようで、同五年(一六九二)の魚町と浜町との出入裁許状(津市史)に、魚町として年行事や五人組のこともみえる。

魚町
うおまち

[現在地名]倉吉市魚町

江戸期の町人町。魚介物を扱う商人が多かったのが町名由来という。東西に延びる往来の両側町で、南は武家屋敷地(のちの葵町)、西は東仲ひがしなか町、北は東流するたま川を挟んで研屋とぎや町。東は上横かみよこ町に接し、町の東端から東へ津山往来、北へ倉吉往来が延びる。元禄(一六八八―一七〇四)頃と推定される倉吉古地図(倉吉町誌)に「魚町分八十八間」とみえる。現在の玉川は当町と研屋町の境をそのまま東へ流れるが、同図では倉吉往来手前で直角に北へ折れ、同往来と並行して倉吉町の外れまで北流している。寛延(一七四八―五一)頃の倉吉絵図(県立博物館蔵)では竈数五六、間数一五〇間余、当町と西の東仲町の間には下の広しものひろ小路が描かれる。

魚町
うおまち

[現在地名]小倉北区魚町一―四丁目

こめ町三―四丁目の南にあり、東は当町と同じく町並が南北に連なるとり町と接する。東魚町ともいう。寛永元年(一六二四)「東小倉魚町頭もち屋」で出火(永青文庫蔵「日帳」同年八月三日条)。細川氏の転封後、池田庸定(細川氏家臣池田庸義)が小倉に残って商家となり、当町二丁目で蝋燭油を扱い、炭屋(池田清兵衛)と称した(小倉商家由緒記)

魚町
うおまち

[現在地名]七尾市魚町

「いおまち」ともいう。所口町の西部にあり、東は白銀しろがね町、西は西地子にしじし町、南は内浦街道を挟んで同町、北は海岸(所口地図)。天正一四年(一五八六)七月四日当町以外での魚類売買を禁じた前田利家印物(能登志徴)の宛所に「魚町年寄中」とあり、元和二年(一六一六)の所之口町絵図に「うお町通」とみえる。延享二年(一七四五)の浦役銀七五匁余・伝馬銀四五匁余・出分地子九匁余・人足銀四三匁余(「御代覚書」税務大学校所蔵文書)

魚町
うおまち

[現在地名]大分市都町みやこまち一―二丁目

府内城の北西に位置し、中堀の西側に南北に延びる町。この通りは南からきよう町・革屋かわや町・大工だいく町と続き、町組同慈寺どうじじ町の細工さいく町を挟んで当町で終わる。北は船奉行屋敷と船入。西側の町は南北の二区画に分れ、東側の町並は一続き。慶長府内絵図に町名がみえ、北の町は東頬三六間・西頬三二間半、南の町は東頬五二間・西頬五一間半、いずれも東西の入一五間。町郷中酒造米高寄帳(府内藩記録)によれば酒造業者が二軒あり、酒造米高は延宝七年(一六七九)五石と一一石二斗余、元禄一〇年(一六九七)三〇石一斗余と不造、正徳五年(一七一五)一〇石余と三石七斗余。寛保二年(一七四二)には一軒になっている(府内藩日記)

魚町
うおまち

[現在地名]松阪市魚町

侍屋敷地区のすぐ東側にあり伊勢参宮街道に沿う。「権輿雑集」に「天正十六子年松ケ嶋より移、丁役壱丁目四歩、弐丁目七歩五厘、三丁目半役、四丁目四歩」とみえる。まつしま城下に魚町があったことは、慶安二年(一六四九)の新松ケ島村検地帳(徳川林政史蔵)などの地字名でわかる。魚町は通常上の町・中の町・下の町に区分される。「宝暦咄し」には「魚町山の神の前田中吉左衛門、材木挽部屋川端ニあり、其外川端ニ材木つミ在」とみえ、魚町北端、坂内さかない川川端に田中吉左衛門材木挽部屋があり、川向うの百足むかで町鳥谷久兵衛なる材木商とともに、材木商の集住地区を形成していたことがわかる。木地屋という大酒屋があったが、同書に、「魚町木地屋左右衛門は永上金と号シ、利足甚宜敷かり込申候処、是も段々利足之迷ひ、隠居金抔は皆々預ケ至極宜候処、殿様永上筋御断之事在之候処、其序ニ永上ニ上不申筋も皆々永上ニ致候様にやつと断、依之在々所々大キにうらみ居申候」と記されている。

魚町
うおまち

[現在地名]加賀市大聖寺魚町だいしようじうおまち

観音かんのん町の北、熊坂くまさか川左岸にある町人町で、魚屋うおや町ともいった。なか町北部から東に入る東西筋に面した西魚町と、ほん町からいずみ小路を経て南に入る南北筋に面した東魚町からなり、西魚町を本魚ほんうお町ということもあった(「御算用場留書」加賀市史料)。町名は魚屋が多かったことによるもので、天明六年(一七八六)の大聖寺絵図には西魚町に八軒、東魚町に二軒の魚屋を記す。商業の盛んな町で「米次」こと米屋次郎作家があり、明治四年(一八七一)のみの虫一揆で襲撃された北前船主で肥料油商の「油清」こと林清一家があった。

魚町
うおまち

[現在地名]松山市本町ほんまち二―五丁目・平和通へいわどおり六丁目

松山城下町の西部を縦断する本町(現在の国道一九六号)の西側裏通。この町筋はもとから一本の道路で、古くは南から利屋とぎや町・魚町・米屋こめや町・魚町筋今うおまちすじいま町と称した。通りの北端に大法だいほう寺があった(明治初期に移転)

利屋町・魚町・米屋町の初見は、寛永一二年(一六三五)の松山城下町図(伊予史談会蔵)である。元禄年間(一六八八―一七〇四)の記事を載せた「松山町鑑」(同会蔵)の「古町分三拾町」のなかに、南利屋町・魚町一丁目・同二丁目・米屋町がある。

魚町
うおまち

[現在地名]上野市魚町

二之町にのまち筋と東之立ひがしのたて町の交わる十字路から東西にそれぞれ約一町余の町。魚介を扱う町人町で、天神祭供奉の楼車の名称の紫鱗は町の性格を象徴する。しかし酒造業者なども多く、芭蕉門人の菊屋一酌は通称太右衛門と称した酒造業者。享和二年(一八〇二)小田おた村・木興きこ村辺りの大水害に施米した伊勢屋(広岡)文四郎は、ひがし町の広岡勘兵衛から株分けした酒造業兼米問屋で、安政五年(一八五八)と六年の大水害や幕末の米価高値の際には、難渋人に握飯の施給、粥の炊出しなどを行っている(庁事類編)

魚町
さかなまち

[現在地名]四日市市中部ちゆうぶ

みなみ町の東裏、北のたて町と南の上新かみじん町との間にある。東は七幡しちまん町。旧版「四日市市史」によれば、初めたて町に属し、通称立町横丁と称したが、寛永一九年(一六四二)にはさかな町として出、その後魚の棚うおのたなともいったとある。明治八年(一八七五)立町に併合。延享二年(一七四五)の四日市古絵図写(四日市市立図書館井島文庫蔵)では魚町とみえ、明和五年(一七六八)の四日市町絵図(同文庫蔵)では横丁とあり、東西七四間である。

魚町
うおまち

[現在地名]大和郡山市魚町

しお町と合わせて一町を形成する。天正一六年(一五八八)の郡山惣町分日記(春岳院文書)では塩町とともに一町で内町(箱本)一三町のうちに数えられた。おもに初期は魚を扱う商人たちが占有していたものであろう。

魚町
うおまち

[現在地名]福井市順化じゆんか二丁目

北の一乗いちじよう町と南の伝馬てんま町・大黒だいこく町に挟まれた東西に延びる町。江戸時代魚屋を中心として形成された町で、東西の二町に分れる。慶長年間北庄四ツ割図によると、東魚町は家数三六、西魚町は三七、無役として記される孫兵衛は魚商の元締であろう。正徳三年(一七一三)頃の御城下惣町間数帳には「魚町 百間、西東折廻シ共ニ片原町迄、但三町分、但道幅四間」と記す。

魚町
うおちよう

[現在地名]津和野町後田うしろだ

今市いまいち通の一筋北の東西道の両側に沿う町人町。西は西町にしまち通、東は万町よろずまち通に至る間で、本町ほんまち通により西のかみノ丁、東の下ノ丁に分れる。元禄期城下侍屋敷等絵図(津和野町郷土館蔵)では、上ノ丁は町の長さ四〇間四尺八寸、南側は町屋一二で茶屋二・米屋一・魚屋二など、北側は町屋一三。

魚町
うおまち

[現在地名]高砂市高砂町魚町

高砂町方二八町の一つ。元禄期(一六八八―一七〇四)の高砂町図(船津家蔵)では魚店うおみせ町と西魚町に分れており、魚店町は東の今津いまづ町から西へ南本みなみほん町まで、西魚町は南本町から西へ西堀にしほり川まで連なる町並になっている。江戸時代中期までに魚町の一町に統合されたものと思われる。

魚町
うおまち

[現在地名]洲本市本町ほんまち一丁目

細工さいく町の中ほどから北の一丁目いつちようめの間にある南北の通り。山下さんか一八町の一で、うち町のうち。魚五分一所があったことから魚町と称したという。町の長さは計五四間(味地草)

魚町
いおまち

文永二年(一二六五)三月五日、鎌倉幕府が鎌倉の中でとくに町屋を許可した七ヵ所の一つに「魚町」がみえ(吾妻鏡)、重要な商店街の一つであった。甘縄あまなわのうちであったことは、嘉暦三年(一三二八)六月一一日「鎌倉甘縄魚町東頬地一円」の「屋地」を嫡子の顕盛に譲った平宗度譲状(県史二)によって明らかである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の魚町の言及

【魚市】より

… しかしこの魚市が発達したのは,江戸時代の都市勃興以後である。伏見には築城のころ魚屋町(伏見区),京都には1637年(寛永14)ころ魚棚町(下京区下魚棚通油小路西入)があり,都市の町名に肴町あるいは魚町,魚屋町などと称されるのは,ほとんど魚市場のあったところである。このほか錦小路魚市場は,近世以降現代でも有名であるが創立年代は不詳である。…

※「魚町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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