鮎川 義介(読み)アユカワ ヨシスケ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「鮎川 義介」の解説

鮎川 義介
アユカワ ヨシスケ


肩書
参院議員(第十七控室),日本中小企業政治連盟総裁,日産コンツェルン創始者

生年月日
明治13年11月6日

出生地
山口県山口市

学歴
東京帝大工科大学機械科〔明治36年〕卒

経歴
芝浦製作所の職工となるが、のち渡米して鋳造見習工。30歳で帰国、明治43年戸畑鋳物を設立。大正10年東京に進出、昭和3年義弟・久原房之助の久原鉱業所社長となり、のち日本産業と改称、以後次々設立または吸収を繰り返して、日立製作所を含む日産コンツェルンを作りあげた。12年満州に進出して17年まで満州重工業開発総裁。18年勅選貴院議員。戦後はA級戦犯として服役したが、釈放後、28年参院議員となり、31年には日本中小企業政治連盟を結成して総裁。全国中小企業団体中央会会長、中小企業助成会会長、岸内閣経済最高顧問を歴任。34年二男の選挙違反事件の責任をとり親子で参院議員を辞任した。のち東洋大学名誉総長となる。著書に「物の見方考え方」「私の考え方」などがある。

没年月日
昭和42年2月13日

家族
二男=鮎川 金次郎(参院議員)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「鮎川 義介」の解説

鮎川 義介
アユカワ ヨシスケ

明治〜昭和期の実業家,政治家 日産コンツェルン創始者;日本中小企業政治連盟総裁;参院議員(第十七控室)。



生年
明治13(1880)年11月6日

没年
昭和42(1967)年2月13日

出生地
山口県山口市

学歴〔年〕
東京帝大工科大学機械科〔明治36年〕卒

経歴
芝浦製作所の職工となるが、のち渡米して鋳造見習工。30歳で帰国、明治43年戸畑鋳物を設立。大正10年東京に進出、昭和3年義弟・久原房之助の久原鉱業所社長となり、のち日本産業と改称、以後次々設立または吸収を繰り返して、日立製作所を含む日産コンツェルンを作りあげた。12年満州に進出して17年まで満州重工業開発総裁。18年勅選貴院議員。戦後はA級戦犯として服役したが、釈放後、28年参院議員となり、31年には日本中小企業政治連盟を結成して総裁。全国中小企業団体中央会会長、中小企業助成会会長、岸内閣経済最高顧問を歴任。34年二男の選挙違反事件の責任をとり親子で参院議員を辞任した。のち東洋大学名誉総長となる。著書に「物の見方考え方」「私の考え方」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

367日誕生日大事典 「鮎川 義介」の解説

鮎川 義介 (あゆかわ よしすけ)

生年月日:1880年11月6日
明治時代-昭和時代の実業家;政治家。参議院議員
1967年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android