鴻臚館(読み)コウロカン

デジタル大辞泉 「鴻臚館」の意味・読み・例文・類語

こうろ‐かん〔‐クワン〕【××臚館】

奈良・平安時代外国使節接待のための施設。難波なにわ太宰府京都などに置かれた。

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精選版 日本国語大辞典 「鴻臚館」の意味・読み・例文・類語

こうろ‐かん ‥クヮン【鴻臚館】

〘名〙 令制で、京都、大宰府に設けられて、外国使節を接待した館。玄蕃寮の管轄。こうろ
※令義解(833)職員「玄蕃寮。頭一人。〈掌仏寺。僧尼名籍。及在京夷狄。監当舘舎〈謂。鴻臚館也〉事〉」
源氏(1001‐14頃)桐壺「このみこをこうろくゎんにつかはしたり」
[語誌]現在の迎賓館にあたり、渤海、朝鮮の使節や中国の商人を迎える館であった。京都には初め東西二ケ所あり、難波、筑紫にもあったが、難波は平安初期に廃れたらしい。遣唐使は出発の際、鴻臚館を経て出発していたと「続日本後紀」に見える。

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改訂新版 世界大百科事典 「鴻臚館」の意味・わかりやすい解説

鴻臚館 (こうろかん)

古代において外国使節を迎接するための館舎。大宰府の外港にあたる博多,大和宮都の外港である難波,および平安京に置かれたが,難波の鴻臚館は844年(承和11)摂津国府に転用され,早くに消滅した。また大宰府の鴻臚館には兵馬,甲冑を置き,防御の役割も負わせている。平安京の鴻臚館は,はじめ羅城門の両脇に設けられたが,弘仁年間(810-824),東・西両寺の造営に際してその寺地にあてられ,七条に移されたと伝える。815年(弘仁6)3月,客館に疾病者が寄宿し,死骸が遺棄されているとして,弾正台と京職に取締りを命じているが,これは初期の鴻臚館のことであろうか。七条鴻臚館は,七条大路の北,朱雀大路をはさんで東西に設けられ(広さはともに方2町),東(西)鴻臚館もしくは鴻臚東(西)館と呼んだ。ただし839年8月,東鴻臚院地2町が典薬寮にあてられ薬園とされていること,868年(貞観10)鴻臚館の監守を木工寮右京職に命じていること,《延喜式》に守客館2人を右京職にだけ置いていること,などから判断するに,機能していたのは右京の鴻臚館であったものと思われる。

 建物の規模や構造は不詳であるが,平安後期,九条伊通(これみち)が二条天皇に献じた政治意見書の《大槐秘抄たいかいひしよう)》に,往時を懐古して,〈七条朱雀,東西に鴻臚館と申所候,異国の人の参れる時,ゐる所になむ候ける。……くにぐににしたがひて,べちべちの屋に候〉とあり,国ごとの館舎が建てられていたとする。しかしおもに来朝したのは渤海国で,しかも907年(延喜7)の唐の滅亡後は唯一の外交国となった。使節の迎接には文人,学者など知識人の選ばれることが多く,滋野貞主,在原業平,大江音人らの名が知られる。大江朝綱が,〈前途程遠し 思ひを雁山の暮(ゆうべ)の雲に馳(は)す 後会期(こうかいご)遥かなり 纓(えい)を鴻臚の暁の涙に霑(うるお)す〉(《和漢朗詠集》)と詠んだのも,908年6月の夜,帰国する渤海使裴璆(はいきゆう)との別れを惜しむ餞別の宴でのことであった。《文華秀麗集》《経国集》にも交歓の詩がみえる。また《源氏物語》桐壺巻に,幼少の光源氏が,来朝した高麗人の中に人相見がいると聞き,鴻臚館に出かけて行ったという話がある。使節のもたらした物品朝廷に献進されるほか,一部はすぐ付近にあった市(東・西)で交易されることもあった。

 しかし渤海使の来朝も920年が最後で,本国も927年には滅亡した。鴻臚館もしだいに衰微し,先の《大槐秘抄》にも〈今は人の領とまかりなりて候めり,いつよりまかり成たるにや候らん〉とある。ただし《兵範記》には1168年(仁安3)11月,七条鴻臚館で行事を催した記事がみえるから,《大槐秘抄》にいうのは東鴻臚館のことか。西鴻臚館は,少なくとも地所としてはこの時期でも存していたのである。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「鴻臚館」の意味・わかりやすい解説

鴻臚館
こうろかん

日本の古代における外国使節の宿泊、接待などのための施設。外交上の要地である大宰府(だざいふ)、難波(なにわ)および都に置かれた。初め客館(むろつみ)といい、平安時代になると唐風に鴻臚館とも称されるようになった。平安京では朱雀大路(すざくおおじ)を挟んで、七条大路以北に各2町四方の敷地をもつ東西両鴻臚館が置かれた。また大宰府と難波の鴻臚館は、それぞれ現在の福岡市の旧福岡城内、大阪市の上町(うえまち)台地付近にあったと推測されている。なお、9世紀以降、外国使節の来日が少なくなると、大宰府の鴻臚館は来日する民間商人のための施設となり、難波では摂津国府に代用され、平安京の鴻臚館もしだいに荒廃していった。

[石井正敏]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鴻臚館」の意味・わかりやすい解説

鴻臚館
こうろかん

律令時代,外国の使節を接待した館。推古朝の難波館,持統朝の筑紫館に由来するといわれる。京都 (七条朱雀の東西) ,難波,大宰府 (福岡市中央区の福岡城址) にあった。京都の鴻臚館は渤海国使の接待用で,10世紀なかば同国の滅亡により廃絶。難波のものは西海道から入京する外国使臣用で,のち国衙に転用。大宰府のものは蕃客,遣唐使らの宿舎にもあてられた。遣唐使の廃止後は,唐商人の接待,外国人の検問,外国との貿易などの用にあてられた。律令政治の衰退によりその特質を失い,12世紀には廃絶した。 1987年福岡平和台球場の改修に際して遺構が検出され,発掘の結果,大規模な瓦葺建築址群が確認されるとともに,国産の土陶器・瓦のほか中国浙江省越州窯系の青磁,湖南省長沙窯系の褐釉陶器,白磁,イスラムのガラス・陶器類,新羅土器などの遺物が出土した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「鴻臚館」の解説

鴻臚館
こうろかん

古代の外国使節の迎接施設。名称は中国で外交をつかさどった鴻臚寺に由来。平安京と大宰府(博多津)に設けられ,前者は810年(弘仁元)初見,玄蕃寮に管理され,7条に朱雀大路をはさんで2町四方の東西館があったが,10世紀半ばには荒廃。後者はかつて筑紫館とよばれたもので,名称の初見は837年(承和4),11世紀末まで存続し,福岡市の平和台球場付近から遺構が検出された。本来は唐・新羅(しらぎ)・渤海(ぼっかい)など外国使客の迎接用だったが,のちに商人の応接機関となる。なお難波にも類似の施設があったという。

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旺文社日本史事典 三訂版 「鴻臚館」の解説

鴻臚館
こうろかん

律令時代,外国使臣のため設けられた接待機関
7世紀から記録にみえ,大宰府 (だざいふ) ・京都・難波につくられた。外国との交渉が絶えるとともに衰退したが,大宰府のものは平安時代にも中国商人の宿舎・貿易場として存続した。

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百科事典マイペディア 「鴻臚館」の意味・わかりやすい解説

鴻臚館【こうろかん】

日本古代の国立迎賓館(げいひんかん)。唐の外務省に当たる鴻臚寺の迎賓館を模倣。大宰府(だざいふ),難波(なにわ),平安京に設置されたが,難波のものは早くに消滅。外国使人の接待,朝廷官人との交歓,貿易に利用された。

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防府市歴史用語集 「鴻臚館」の解説

鴻臚館

 平安時代に平安京[へいあんきょう]と博多にあった、外国からの使節を接待する施設のことです。博多にあった鴻臚館は、昔、平和台球場があった場所にありました。難波にも同じような施設があったと言われています。

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世界大百科事典(旧版)内の鴻臚館の言及

【水運】より

…奈良時代までは,大阪市の上町(うえまち)台地西方にあった難波津(なにわづ)がもっとも重要な港湾であり,遣唐使の出帆港であり,また外国からの使節もここに到着した。大宰府の外港は娜大津(なのおおつ)(那津(なのつ))であり,付近には蕃客を接待する鴻臚館(こうろかん)(筑紫館)が設営された。瀬戸内海の航路の推定は《万葉集》にみえる遣新羅使によまれた港津地を結ぶことによって手がかりとすることができる。…

【博多】より

…当初は大宰博多津として,大宰府の外港的役割をはたした。ここに筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれる外国使節接待のための迎賓館が置かれ,のちに鴻臚館(こうろかん)と称された。鴻臚館は外国使節,渡来人の饗応をつかさどり,遣唐使,入唐僧の宿舎にあてられた。…

※「鴻臚館」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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