鶴岡(読み)つるおか

精選版 日本国語大辞典 「鶴岡」の意味・読み・例文・類語

つるおか つるをか【鶴岡】

山形県北西部の地名。庄内平野の南部を占める。大宝寺城(鶴岡城)を中心に成立。古くは庄内と呼ばれたが、慶長六年(一六〇一最上義光が占領して現在名に改称した。江戸時代、酒井氏一三万八〇〇〇石の城下町となり、その面影を現在も残す。JR羽越本線が通じ、庄内地方南部の中心地として商業活動が盛ん。出羽三山登山の根拠地としても知られる。大正一三年(一九二四)市制。

つるがおか つるがをか【鶴岡】

神奈川県鎌倉市、鶴岡八幡宮の社域をいう。もと由比郷の社地にあたる。
平家(13C前)八「八幡は鶴が岡にたたせ給へり」

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デジタル大辞泉 「鶴岡」の意味・読み・例文・類語

つるおか〔つるをか〕【鶴岡】

山形県北西部、庄内平野南半を占める市。もと酒井氏の城下町。旧藩校の致道ちどう館がある。平成17年(2005)10月藤島町羽黒町・櫛引町・朝日村温海あつみ町と合併。人口13.7万(2010)。

つるがおか〔つるがをか〕【鶴岡】

神奈川県鎌倉市、鶴岡八幡宮の社域。

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改訂新版 世界大百科事典 「鶴岡」の意味・わかりやすい解説

鶴岡[市] (つるおか)

山形県西部の市。2005年10月旧鶴岡市と温海(あつみ),櫛引(くしびき),羽黒(はぐろ),藤島(ふじしま)の4町および朝日(あさひ)村が合体して成立した。人口13万6623(2010)。

鶴岡市中南部の旧村。旧東田川郡所属。人口5864(2000)。庄内地方の南西端,旧鶴岡市の南に位置し,南西部は新潟県村上市に接する。東は出羽三山の一つ湯殿山,西は摩耶山,南は以東岳などの朝日山地がそびえ,町面積の9割以上は山地である。北部を赤川の支流梵字川が北流し,その支流に荒沢ダム,八久和ダムがある。県内でも有数の豪雪地帯で,近年,人口減少が著しく,出稼者も多い。1976年には過疎振興地域に指定されている。町域の東半は磐梯朝日国立公園に含まれ,大鳥池キャンプ場や湯殿山スキー場がある。古くから湯殿山信仰の中心地であり,六十里越街道(現,国道112号線)の大網口に大日坊,七五三掛口に注連寺があり,修行者や参詣人の世話にあたった。現在も大日坊,本明寺などには即身仏(ミイラ仏)が残されている。

鶴岡市西部の旧町。旧西田川郡所属。人口1万0608(2000)。庄内地方の南西端に位置し,北は旧鶴岡市,南は新潟県村上市に接する。摩耶山を中心とする山地が町域の大半を占め,五十川,温海川,小国川などが西流して日本海に注ぐ。JR羽越本線,国道7号線が海岸線に沿って走り,鼠ヶ関(ねずがせき)などの小漁港が並ぶ。温海川河畔にある温海温泉(含セッコウ食塩硫化水素泉,63~72℃)は江戸初期に庄内藩の湯役所が置かれ,藩主の入湯場ともなって温泉町として発展,現在も4~12月には朝市が開かれ,湯治客でにぎわう。時によって温泉の色が変化することでも知られる。1952年の大火で全焼するが,復興した。また海岸部の暮坪には,立石や塩俵石の奇勝,弁天島などの景勝があり,鼠ヶ関一帯も海水浴場,ヨットハーバーなどで知られ,念珠関(ねずがせき)などもあり,観光資源は豊富である。

鶴岡市中部の旧町。旧東田川郡所属。1966年町制。人口8536(2000)。庄内平野の南端,旧鶴岡市の南に位置し,中央を赤川が北流する。南東部は月山北西麓の山地,北西部は天保堰開削(1838)後に農地化した水田地帯である。中心集落は上山添で,国道121号線が通り,旧鶴岡市との連絡がよい。農業が主産業で,西部は稲作を主とし,山沿いでは柿,リンゴ,ブドウなどの果樹栽培,養豚,養鶏などが盛ん。東部丘陵地では開拓パイロット事業が実施され,ハクサイなどの大規模な野菜栽培が行われている。工場誘致にも積極的で,庄内南,東部,丸岡の各工業団地が造成されている。黒川の春日神社に中世から伝わる黒川能は,重要無形民俗文化財に指定されている。
執筆者:

鶴岡市北西部の旧市。1924年市制。人口10万0628(2000)。庄内平野の南西部に位置し,東端を赤川が北流,西は日本海に面する。冬季は北西風が強く,交通の障害となる地吹雪がおこりやすい。JR羽越本線と国道7号線が市域を東西に貫通し,国道112号線が山形市に通じ,庄内米作地帯をひかえた庄内地方南部の商業中心をなす。近世は庄内藩の城下町として発展,今も屈曲した街路などに城下町のおもかげをとどめる。明治時代に入るとしゅす(繻子)や羽二重などの絹織物業が隆盛をきわめたが,第2次大戦後は農機具や木工家具の製造も行われるようになり,さらに1973年完成の鶴岡中央工業団地などを中心に電気機器,輸送用機械などの工業立地が進んでいる。城跡の鶴岡公園に隣接する致道(ちどう)博物館には,旧藩校致道館(史)のほか,旧西田川郡役所,田麦俣の多層民家,渋谷家住宅が移築されている。市街西方の大山は戦国時代の小城下町で,古くからの酒造地として知られる。日本海に面する加茂は鶴岡の外港として発達し,現在は県下第2の漁港である。南部には国指定名勝の金峰山(459m)がある。湯田川温泉湯野浜温泉は出羽三山登拝の宿泊地として栄えた。
執筆者:

出羽国の城下町。江戸時代は〈つるがおか〉と読み,鶴ヶ岡とも書いた。旧名を大宝寺といい,《義経記》に大梵寺とあるのがその初見で,大泉荘の中心集落であった。鎌倉初期から大泉荘の地頭武藤氏が居城を置いた。戦国末期武藤氏は滅び,1588年(天正16)上杉景勝の領国となり,1601年(慶長6)最上義光(よしあき)に所属,03年大宝寺城は鶴岡城と改称された。義光は赤川の河道を変更し鶴岡の水害を防いだ。22年(元和8)最上氏の改易後,信州松代藩主酒井忠勝が入部し,庄内藩13万8000石の城下となった。三の丸には役所や家中(侍)町を置き,城外の北側と西側には家中,給人(下級武士)の町を置いた。東側と南側には商人町11町,職人町3町を置き,目抜通りの五日町,三日町,十日町を通丁といった。また町人町の外側にも家中町,給人町,寺社を配置し,幕末期の町数は104に及んだ。家中は約500人,給人は約2000人で,1690年(元禄3)の町人人口は1万0951人,1874年(明治7)の総人口は2万4092人であった。町人町14町の支配には大庄屋2人,町年寄3人が当たり,町ごとに肝煎(きもいり)1人,長人数人がいた。町人には年貢がなく,屋敷を所有する町人が各種の人足を負担した。1677年(延宝5)の出人足は6万8190人に達した。1664年(寛文4)11町に各2疋の伝馬が置かれた。庄内は米単作地帯で,米,酒などを酒田・加茂両港から移出し,衣料,塩,海産物,砂糖,紙などを移入した。鶴岡には主として加茂から陸送したが,酒田からは赤川の水運があった。鶴岡の繁栄は古川古松軒の《東遊雑記》からも知られる。明治維新後衰退し,1890年の人口は2万0417人であった。
執筆者:

鶴岡市北東部の旧町。旧東田川郡所属。人口9616(2000)。庄内地方の南東部に位置し,西は赤川をはさんで旧鶴岡市と接する。月山山頂から北に町域がのび,藤島川沿いに緩傾斜地が続き,北西部は庄内平野の一角を占める。羽黒山西麓の手向(とうげ)は,宿坊などのある門前町で,出羽三山登拝の基地となっている。平野部では稲作が行われ,山麓では国営パイロット事業による庄内柿などの樹園地や畑地が広がる。月山山麓には放牧場もあり,肉牛が飼育される。羽黒山には三山合祭の出羽神社があり,五重塔,正善院黄金堂のほか樹齢200~300年の杉並木(特天),爺杉(天),南谷のカスミザクラ(天)がある。羽黒山から南端の月山付近一帯は磐梯朝日国立公園に属している。
羽黒山

鶴岡市北東端の旧町。旧東田川郡所属。人口1万2294(2000)。庄内平野の東部に位置し,南東部が出羽山地で占められるほかは,赤川,京田川,藤島川が流れる平たんな地が広がり,水田地帯をなす。奈良時代の出羽国府跡とみられる平形遺跡がある(現在は平安時代から中世の集落跡、館跡と判明)。中世には豪族土佐林氏の藤島城があった。JR羽越本線が通じ,旧鶴岡市への通勤・通学者が多い。米作のほか畜産,庄内柿の栽培が行われ,農機具製造の工場もある。南東部の山地には筍沢(たけのこざわ)温泉(単純硫化水素泉,12℃)がある。
執筆者:

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世界大百科事典(旧版)内の鶴岡の言及

【庄内平野】より

…山形県の酒田市と鶴岡市を中心に飽海(あくみ)郡,東田川郡にわたる沖積平野。庄内の名は中世の大泉荘(庄)に属したことに因むという。…

※「鶴岡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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