黄埔軍官学校(読み)こうほぐんかんがっこう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「黄埔軍官学校」の意味・わかりやすい解説

黄埔軍官学校
こうほぐんかんがっこう

中国、第一次国共合作の成果の一つとして設立された党軍(国民革命軍)を組織するための幹部養成機関。1924年1月の国民党第一次全国代表大会での決議に基づき、コミンテルンソ連の指導、援助によって、同年6月、広州(こうしゅう/コワンチョウ)郊外黄埔に設立され、校長蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)が就任した。それまでの革命の誤りが、党軍の欠如にあったことを深く認識した孫文(そんぶん/スンウェン)が、自らの革命軍を組織しようとしたものとして大きな意味をもっている。軍官学校およびその下に組織された教導団(連隊)は、ソ連の赤軍に倣い、校長、司令官、隊長のほかに、党代表、政治部員を置いて、国民党の統制下に置き、また軍隊の政治教育を担当させた。最初の党代表は廖仲愷(りょうちゅうがい/リヤオチョンカイ)、政治部主任は戴季陶(たいきとう/タイチータオ)、副主任は周恩来(しゅうおんらい/チョウエンライ)であった。そのほか多数のソ連軍事顧問が教官についていた。校長であった蒋介石は、軍官学校を中心とする党軍を掌握し、国民政府内における自己勢力を形成していった。のちにソ連軍事顧問と蒋介石の対立に学校および軍隊内の抗争などが加わって、複雑な派閥抗争に発展した。軍官学校は、国民党二全大会(1926)で「中央軍事政治学校」に改称された。

[南里知樹]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「黄埔軍官学校」の意味・わかりやすい解説

黄埔軍官学校 (こうほぐんかんがっこう)
Huáng pǔ jūn guān xué xiào

中国,第1次国共合作成立直後,孫文を総裁蔣介石を校長として設立された中国国民党の陸軍軍官学校。ソ連の援助の下に日本の軍隊制度を参考にして,1924年6月広州城東の黄埔で開校した。政治部主任周恩来をはじめ惲代英(うんだいえい),蕭楚女,葉剣英ら共産党員も教鞭をとり,北伐軍の幹部養成をめざして政治教育と軍事訓練を施した。27年以降は共産党勢力を排除し,所在地は南京,成都などを経て49年台湾に移り現在にいたる。卒業生は23万余名に達し,国民党政権の支柱的存在となっている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「黄埔軍官学校」の意味・わかりやすい解説

黄埔軍官学校【こうほぐんかんがっこう】

中国国民党の士官学校。1924年広州郊外の黄埔に設立,革命達成のため党軍建設を目的とした。孫文が総裁,校長は蒋介石。当初は政治部主任周恩来など共産党員も教鞭をとったが,1927年以降その勢力は排除された。のち南京,成都などをへて,1949年台湾に移る。
→関連項目林彪

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「黄埔軍官学校」の意味・わかりやすい解説

黄埔軍官学校
こうほぐんかんがっこう
Huang-pu jun-guan xue-xiao

中国国民党が広州近郊の黄埔に設立した陸軍士官養成を目的とする学校。孫文は革命達成のためにはみずからの軍隊をもたなくてはならないという考えから,1924年1月 24日国民党第1回全国代表大会においてこの設立を決定した。同年6月に開校,校長は蒋介石,国民党代表廖仲 愷。政治委員制度が取入れられ,周恩来,葉剣英,聶栄臻らおもに共産党員がこれを担当。 26年1月中央軍事政治学校と改称され,27年以降の北伐軍の主流をなした。卒業生のなかには,のちの中国共産党幹部になったものも多い (林彪など) 。 30年9月廃校,その後士官教育は南京中央軍校に移った。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「黄埔軍官学校」の解説

黄埔軍官学校(こうほぐんかんがっこう)
Huangpu

中国国民党が広州郊外の黄埔に設立した陸軍士官学校。孫文は中国統一のためみずからの武力を持つ必要を痛感し,これを設立した。1924年正式開校,校長蒋介石(しょうかいせき)。卒業生は軍部や政界で重きをなした。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「黄埔軍官学校」の解説

黄埔軍官学校
こうほぐんかんがっこう

1924年広州郊外に設立された中国国民党の陸軍士官学校
校長の蔣介石が学んだ日本の陸軍士官学校の制度を取り入れ,ソ連の援助のもとに開校した。当初は周恩来らの共産党幹部も教壇に立って国民革命軍の士官育成をめざしたが,1927年以降は共産党勢力を徹底的に排除した。国共内戦後の1949年に国民党政権とともに台湾に移った。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の黄埔軍官学校の言及

【国民革命】より

…一方,中共は孫文の威望を重視し,ソ連ないしコミンテルンは東アジアにおける反帝闘争の高揚をねらったのである。大会後,革命の軍隊をつくるべく黄埔軍官学校(校長蔣介石,政治部主任周恩来)が創立され,指導者養成のために農民運動講習所なども設立された。 孫文逝世後,広東政府は汪兆銘を中心とする国民政府に改組され,26年7月,蔣介石を国民革命軍総司令として北伐を開始した。…

【藍衣社】より

…中国,民国時代の政治秘密結社。蔣介石の独裁政治の確立をめざし,彼を永久最高の指導者として,黄埔軍官学校出身者を中心に,力社―青会―復興社といった機構から成る,ファッショ団体を総称していう。1931年末に成立。…

※「黄埔軍官学校」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android