黒沢酉蔵
くろさわとりぞう
(1885―1982)
日本の有力乳製品メーカーである雪印乳業の前身、北海道製酪販売組合の創立者。茨城県で農家の長男に生まれる。15歳で上京後、田中正造(しょうぞう)と出会って足尾銅山鉱毒事件の被害者救済運動に参加。1905年(明治38)北海道に移住、アメリカ式酪農経営を目ざす宇都宮仙太郎のもとで牧夫として働いたのち独立の酪農家となる。1925年(大正14)宇都宮などと北海道製酪販売組合を創立、酪農家による牛乳自主加工を実現。また「酪農こそが健土健民の母」として堆肥を活用する循環農法を提唱。政治や教育に及ぶ多面的な活動によって、北海道における酪農の基礎を築いた。
[四宮俊之]
『黒沢酉蔵著『私の履歴書』(『私の履歴書 経済人17』所収・1981・日本経済新聞社)』
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黒沢酉蔵 くろさわ-とりぞう
1885-1982 大正-昭和時代の酪農家。
明治18年3月28日生まれ。田中正造の足尾鉱毒被害者救済運動にくわわる。明治38年北海道にうつり,自営酪農家となって協同組合運動を推進。北海道製酪販売組合(現雪印乳業)や酪農学園大を設立した。昭和17年衆議院議員。昭和57年2月6日死去。96歳。茨城県出身。京北中学卒。著作に「酪農学園の歴史と使命」など。
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世界大百科事典(旧版)内の黒沢酉蔵の言及
【雪印乳業[株]】より
…本社札幌市。1925年,黒沢酉蔵(1885‐1982),宇都宮仙太郎(1865‐1940),佐藤善七(1874‐1957)らの酪農家が中心となって,札幌に有限会社北海道製酪販売組合として設立され,バターの製造を始めた。26年道内の製酪組合を統合して保証責任北海道製酪販売組合連合会(略称,酪連)となり,〈雪印〉のマークによる乳製品の生産・販売を始めた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」