黒田清輝(読み)くろだせいき

精選版 日本国語大辞典 「黒田清輝」の意味・読み・例文・類語

くろだ‐せいき【黒田清輝】

洋画家。子爵。伯父清綱の養子。本名清輝(きよてる)鹿児島藩出身。渡仏してラファエル=コランに師事し、帰国後、印象派風の絵を描いて紫派と呼ばれ、日本の近代洋画の方向を確立した。東京美術学校教授、文展審査員、帝室技芸員貴族院議員、帝国美術院院長を歴任。作品に「朝妝(ちょうしょう)」「舞妓」「湖畔」など。慶応二~大正一三年(一八六六‐一九二四

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デジタル大辞泉 「黒田清輝」の意味・読み・例文・類語

くろだ‐せいき【黒田清輝】

[1866~1924]洋画家。鹿児島の生まれ。本名、清輝きよてる清綱養嗣子。渡仏してラファエル=コランに師事。帰国後、外光派の画風を日本に導き入れ、久米桂一郎とともに天真道場を開き、のち白馬会を設立。また、東京美術学校西洋画科で指導に当たり、洋画界発展に寄与した。貴族院議員としても活躍。

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改訂新版 世界大百科事典 「黒田清輝」の意味・わかりやすい解説

黒田清輝 (くろだせいき)
生没年:1866-1924(慶応2-大正13)

洋画家。本名は〈きよてる〉と読む。薩摩藩士黒田清兼の長子として鹿児島に生まれ,伯父黒田清綱(1830-1917)の養子となり,1872年(明治5)上京。清綱は元老院議官,歌人としても知られた。84年法律勉強のために渡仏したが,87年法律学習を放棄して絵画に専念,R.コランに師事し,アカデミー・コラロッシで学んだ。滞仏末期の90-92年,パリ郊外のグレー村に滞在し,《読書》《婦人像(厨房)》などを制作,93年パリの春のサロンに《朝妝(ちようしよう)》(焼失)を発表し帰国した。96年,滞仏時代からの僚友久米桂一郎(1866-1934)や周辺に参集した若い画家たちとともに白馬会を結成,同年東京美術学校西洋画科新設のときその指導を委嘱され,98年教授に就任した。コランに学んだ画風はフランス・アカデミスムと印象派的表現を折衷したもので外光派と呼ばれ,既存の明治美術会系の硬化した写実主義的作風と対立し,旧派に対して新派,陰影部の描写法から脂(やに)派に対して紫派とも呼ばれた。その間に《朝妝》が裸体画問題で社会的事件ともなったが,帰国後の作品では《舞妓》(重文)や《昔語り下画》《湖畔》などを発表,白馬会の若い画家たちに影響を与え,和田英作《渡頭の夕暮》など明治期洋画の秀作を生むことになった。外光派の身近な主題,印象派的な明るい色調の作風は,日清戦争後の国内社会の変化,文芸思潮,自然観の進展によく適合して一般にうけいれられ,白馬会が洋画界の主流を形づくるとともに,黒田はその中心的存在として重きをなしていった。1900年パリ万国博に《智・感・情》を出品,再渡欧し,イタリアを旅行して帰国した。07年文部省美術展覧会(文展)開設に尽力し,以後洋画部の中核となって活躍,10年帝室技芸員に任ぜられた。17年養父没後に爵位を継ぎ,20年には貴族院議員に当選,子爵議員研究会に属して政治家としても活躍した。22年森鷗外死去のあと帝国美術院院長に就任,その間には日仏交換日本美術展,現代フランス美術展などの開催に尽力したが,23年狭心症を発し,24年フランス現代美術展の裸体作品出品の処置に奔走し,喘息を併発して死去した。

 黒田は,前半期には西欧絵画の正統を紹介,移植しようと試みたが,彼自身の資質後半期の社会的な地位からくる繁忙さから,それは十分には達成されなかった。しかし外光派は,黒田につづくフランス留学のコラン系の画家たちにうけつがれ,日本洋画の官学派を形成していった。外光派の移植による感覚の解放,表現の刷新は日本画へも及び,文芸界全般へと影響を及ぼした功績は大きい。
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百科事典マイペディア 「黒田清輝」の意味・わかりやすい解説

黒田清輝【くろだせいき】

洋画家。本名は〈きよてる〉と読む。鹿児島生れ。1884年法律研究のためパリに留学したが,絵画を志してR.コランに師事。1893年外光派を学んで帰国し,久米桂一郎と天真道場を開設,1896年白馬会を創立,さらに1898年東京美術学校教授となり,外光派を明治洋画壇の主流にのし上げた。再渡欧後1907年文展創設に際し審査員に推され,1922年帝国美術院第2代院長に就任。晩年は貴族院議員として外国との文化交流に尽くした。没後,遺志により黒田記念館(現,東京国立文化財研究所)が設置され,東西美術の研究が進められた。主作品にパリのサロンに入選した《読書》のほか《湖畔》《昔語り》《朝妝(ちょうしょう)》などがある。
→関連項目印象主義岡田三郎助鹿児島市立美術館神奈川県立近代美術館杉浦非水藤島武二牧野虎雄明治美術会山下新太郎和田英作

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「黒田清輝」の意味・わかりやすい解説

黒田清輝
くろだせいき
(1866―1924)

洋画家。明治中期初めて日本に印象派系絵画を移入し、かつ美術教育兼行政家として活躍した。慶応(けいおう)2年6月29日鹿児島市に生まれる。幼名新太郎。伯父清綱の養嗣子(ようしし)となり、1872年(明治5)上京、のち1884年法律研究のためフランスに留学する。アカデミー・コラロッシのラファエル・コラン教室に入り、画学をも修業するが、やがて井上哲次郎にさとされ、法律学校を退いて画家の道に専念する。ベルギーオランダへたびたび旅行。諸サロンに出品。1893年春、ソシエテ・ナシオナル・デ・ボザールに『朝妝(ちょうしょう)』を出品し、夏帰国する。翌年久米桂一郎(くめけいいちろう)と天真道場を設けて後進の指導にあたるほか、日清(にっしん)戦争に従軍。1896年には東京美術学校に新設された西洋画科の主任となり、本格的なフランス式の美術教育を開始するとともに、同志たちと白馬会(はくばかい)を創立し、洋画研究所をも設立した。こうして黒田は日本に初めて明るい印象派系の絵画を移入し、洋画界の近代化を大いに推進した。また1900~01年(明治33~34)ふたたび渡仏し、パリ万国博覧会に出品した『智(ち)・感・情』は銀賞を受けた。内外の博覧会審査官、文展審査員を務め、また洋画家として最初の帝室技芸員(1910)に任命された。1913年(大正2)創設の国民美術協会会頭、1917年養父の死去に伴って子爵を継ぎ、1920年には貴族院議員に当選するなど、概して晩年は美術行政の分野で大いに活躍した。さらに1922年には森鴎外(おうがい)の後を受けて第2代帝国美術院院長に就任、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章ほかを受けた。大正13年7月15日没。その遺志により美術研究所(現東京文化財研究所美術部)が創設された。また同研究所内に黒田記念近代現代美術研究室が設けられている。代表作『読書』、『舞妓(まいこ)』(重要文化財)、『湖畔』(重要文化財)、『木苺(きいちご)』などがある。

[小倉忠夫]

『隈元謙次郎著『黒田清輝』(1966・日本経済新聞社)』『黒田清輝著『絵画の将来』(1983・中央公論美術出版)』『『新潮日本美術文庫27 黒田清輝』(1997・新潮社)』


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朝日日本歴史人物事典 「黒田清輝」の解説

黒田清輝

没年:大正13.7.15(1924)
生年:慶応2.6.29(1866.8.9)
明治大正期の洋画家。鹿児島(薩摩)藩士黒田清兼の子。鹿児島生まれ。幼名新太郎,号に水光。明治4(1871)年伯父黒田清綱の養嗣子となり,翌年から東京平河町の清綱邸で育つ。築地英学校,外国語学校フランス語科などに学ぶかたわら,高橋由一門下の細田季治に鉛筆画を教わったのが洋画との最初のかかわりであった。17年法律研究を目的にパリに私費留学,山本芳翠を知り,翌年藤雅三の通訳として外光派の画家ラファエル・コランに接し,自己の画才に目覚めた。19年画学研究への転向を決意しコランに入門,翌年から画学に専念した。この間,久米桂一郎と同門となり,終生の交友を始める。留学後半期の23年からは,ロアン河沿いの小村グレーを制作拠点とし,印象派風の作品や構想画を手がけた。パリのふたつのサロンにそれぞれ入選した「読書」(東京国立博物館蔵)と「朝妝」(焼失)が留学期の代表作。26年帰国し,翌年久米と画塾天真道場を開設,29年には美術団体白馬会を結成,この間に外光表現による清新な画風で青年画家たちを魅了し,明治洋画壇革新の中心人物となった。 一方,29年創設の東京美術学校(東京芸大)西洋画科の初代教授として,40年の文展開設に至る間,日本アカデミスム形成の確立者としての役割もになった。制作上では,留学後半期から帰国後の10年間位が最高潮期で,作品には「舞妓」(東京国立博物館蔵)や初期白馬会展に発表した「昔語り」「智・感・情」,「湖畔」(東京国立文化財研究所蔵)などがある。43年,洋画家として最初の帝室技芸員となった。文展開設前後から,「鉄砲百合」(石橋美術館蔵),「木莓」など平明だが芳醇な味わいを持つ外光表現による独自の画風を展開し,「昔語り」のような構想画制作からは遠ざかった。大正2(1913)年国民美術協会創立に際し会頭に就任,6年子爵を継ぎ9年に貴族院議員に当選,11年には森鴎外のあとを受け帝国美術院長となるなど,次第に美術行政家としての側面を強めた。遺文を集めた論集に『絵画の将来』がある。

(三輪英夫)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「黒田清輝」の意味・わかりやすい解説

黒田清輝
くろだせいき

[生]慶応2 (1866).6.29. 鹿児島
[没]1924.7.15. 東京
洋画家。本名清輝(きよてる)。薩摩藩士黒田清兼の子で,伯父の黒田清綱子爵の養子となり,明治5(1872)年上京。初め東京外国語学校でフランス語を学び,1884年法律研究のため渡仏したが,途中で洋画研究に転じてラファエル・コランに師事し画作に没頭。1891年パリのサロンで『読書』(1891)が,1893年には『朝妝(ちょうしょう)』(1893)が入選した。同 1893年に帰国して翌 1894年に久米桂一郎と,のちに白馬会洋画研究所となった画塾,天真道場を創設。1896年東京美術学校西洋画科設置とともに講師,のち教授として後進の指導にあたり,フランス外光派の明るい作風を日本画壇に伝えた。1900年文部省の命でフランスへ留学,滞仏中パリ国際博覧会に『湖畔』(1897),三部作『智・感・情』(1899)を出品して銀賞を受賞。帰国後は帝室技芸員,国民美術協会会頭,帝国美術院院長となって日本の洋画のアカデミズムの伝統を築き,また子爵,貴族院議員として海外との文化交流にも貢献。作品の多くは,遺志により 1930年につくられた帝国美術院附属美術研究所(→東京文化財研究所)内の黒田記念室に残された。その他の主要作品に『舞妓』(1893,国指定重要文化財),『鉄砲百合』(1909)がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「黒田清輝」の解説

黒田清輝
くろだせいき

1866.6.29~1924.7.15

明治・大正期の洋画家。薩摩国生れ。黒田清兼の子。伯父の黒田清綱の養子となり上京。法律を学ぶため1884年(明治17)パリに留学したが,画家に転向してラファエル・コランに師事。93年に帰国し,翌年久米桂一郎とともに天真道場を設け,96年には白馬会を結成。「読書」「湖畔」(重文)などの外光派風作品は画壇に大きな影響を与えた。東京美術学校西洋画科の教授となり,以来長く美術教育に貢献し,文展の創設にも尽力。帝室技芸員,国民美術協会会頭,帝国美術院会員のち同院長。晩年には貴族院議員となった。業績を記念した黒田記念館(東京国立博物館管理)が東博に隣接してある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「黒田清輝」の解説

黒田清輝 くろだ-せいき

1866-1924 明治-大正時代の洋画家。
慶応2年6月29日生まれ。伯父黒田清綱(きよつな)の養子。明治17年法律研究のためフランスに留学。ラファエル=コランにまなび,画家を志望。帰国後の29年久米桂一郎らと白馬会を結成。外光派とよばれるあかるい画風は洋画界の主流となった。31年東京美術学校教授,のち帝国美術院院長。貴族院議員。大正13年7月15日死去。59歳。薩摩(さつま)(鹿児島県)出身。本名は清輝(きよてる)。作品に「朝妝(ちょうしょう)」「舞妓」「湖畔」など。
【格言など】始終骨なし人形ばかり描いていて,いつまでも美術国だといっていられるか

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旺文社日本史事典 三訂版 「黒田清輝」の解説

黒田清輝
くろだせいき

1866〜1924
明治・大正時代の洋画家
薩摩(鹿児島県)の生まれ。フランスに遊学して初め法律を志したが,ラファエル=コランに師事して絵を学ぶ。1893年帰国し,'96年東京美術学校で洋画を教授。同年明治美術会を脱退して白馬会を創設し,印象派(外光派)を日本に紹介。裸体モデルを日本で初めて使用するなど,日本近代洋画を確立した。官展派の重鎮として活躍し,のち帝国美術院長・貴族院議員を歴任。代表作に『湖畔』『読書』『花野』など。

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世界大百科事典(旧版)内の黒田清輝の言及

【黒田清輝】より

…洋画家。本名は〈きよてる〉と読む。薩摩藩士黒田清兼の長子として鹿児島に生まれ,伯父黒田清綱(1830‐1917)の養子となり,1872年(明治5)上京。清綱は元老院議官,歌人としても知られた。84年法律勉強のために渡仏したが,87年法律学習を放棄して絵画に専念,R.コランに師事し,アカデミー・コラロッシで学んだ。滞仏末期の90‐92年,パリ郊外のグレー村に滞在し,《読書》《婦人像(厨房)》などを制作,93年パリの春のサロンに《朝妝(ちようしよう)》(焼失)を発表し帰国した。…

【印象主義】より

…外国においてはヨーロッパの内外を問わず,広く印象主義を吸収する動きがあり,それぞれの国の美術の特質に従ってさまざまに翻訳された。後期印象派新印象主義【馬渕 明子】
[印象主義と日本の近代美術]
 日本における印象主義の導入は,1893年(明治26),黒田清輝,久米桂一郎(1866‐1934)がフランスから帰国して画壇に新風をもたらしたことに始まる。黒田の渡仏は1884年,久米は86年で,後者の渡仏年に印象派グループの最後の展覧会が開かれた。…

【官展】より

…これは,日本美術,洋風美術それぞれの新旧諸流派が対立し反目し合う美術界に共通の場を与え,抗争を収拾して美術の振興を図ることを目的として設けられたもので,その年の6月,勅令をもって官制が発布され,10月から11月にかけて上野公園で第1回展が開催された。東京帝国大学教授大塚保治の建議,正木直彦や黒田清輝らの運動が開設をうながしたという。時の首相は西園寺公望,文相は牧野伸顕であった。…

【明治・大正時代美術】より

…このなかでは浅井忠がフォンタネージの画風をよく生かして,《春畝》(1889)や《収穫》(1890)のように田園風物詩的なすぐれた作品を生んで傑出している。またミュンヘンに留学してドイツ歴史画派のガブリエル・マックスに師事した原田直次郎は,確かな表現力によって次代を担うホープとして期待されたが,92年脊髄病に倒れて再び立たず(1899年37歳で夭折),彼に代わるように,93年黒田清輝がフランスから帰国する。 ブーグロー,カバネルのアカデミストにつき,バスティアン・ルパージュの外光描写をとり入れた折衷様式の画家R.コランが黒田の師であった。…

【山本芳翠】より

…1880年代のパリ画壇で認められていた唯一の日本人画家といえるが,87年の帰国に際して作品を積み込んだ巡洋艦〈畝傍〉が沈没して滞欧時代の作品は消失。黒田清輝の画才を高く評価して,法律学から画家へ転身させる契機をもたらしたのは芳翠である。そうした関係で帰国後に開設した画塾生巧館を黒田にゆずり,みずからも白馬会に参加した。…

※「黒田清輝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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