世界大百科事典(旧版)内の《ジュピター交響曲》の言及
【モーツァルト】より
…おりしも大作曲家グルックが死んだ直後であった。 翌88年夏にはいわゆる〈三大交響曲〉(第39番K.543,《ト短調交響曲》第40番K.550,《ジュピター交響曲》第41番K.551)が書かれたが,当時,モーツァルトはピアノの弟子もなく,演奏会も開かれず,フリーメーソンの盟友プフベルクに借金を重ねたまま塞状態にあった。翌89年春,リヒノフスキー侯に誘われて,北ドイツ旅行を試み,プラハを経て,ドレスデン,ライプチヒ,ベルリンを訪れ,ポツダム宮殿でプロイセン国王フリードリヒ・ウィルヘルム2世に謁見し,また作品の依頼を受けている。…
※「《ジュピター交響曲》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」