《スタア誕生》(読み)すたあたんじょう

世界大百科事典(旧版)内の《スタア誕生》の言及

【ウェルマン】より

…第1回アカデミー作品賞を受賞した航空映画の名作《つばさ》(1927)の監督として有名だが,ハリウッドの映画製作がもっとも豊饒(ほうじよう)だった1930年代を中心に,いわゆる〈企業内監督studio director〉として多彩なジャンルをこなした。とりわけ,ジェームズ・キャグニーを不滅のギャングスターに仕立てた《民衆の敵》(1931)は,ホークス監督の《暗黒街の顔役》とともにギャング映画流行のきっかけを作り,《スタア誕生》は内幕物の名作となり(1937年アカデミー・オリジナルストーリー賞受賞),私刑をテーマに心理ドラマを西部劇にもちこんだ《オックスボウ事件》は〈アダルト・ウェスタン〉のはしりとして,《G・I・ジョー》(1945)は戦場をリアルに描いた新しい戦争映画として,それぞれのジャンルを活性化させ,単なる職人監督以上の足跡を残した。ニューヨーク生れ。…

【ガーランド】より

…16歳でV.フレミング監督のミュージカル《オズの魔法使》(1939)に主演して主題歌《虹の彼方に》(オーバー・ザ・レインボー)を大ヒットさせ,アカデミー特別賞を受賞(これは1973年に《ペーパー・ムーン》のテータム・オニールが10歳で助演女優賞を獲得するまでは最年少受賞記録だった)。1954年,不幸な私生活や睡眠薬の常用による精神不安定から奇跡的なカムバックを見せ,彼女の最後の傑作として記憶されることになる《スタア誕生》に至るまで,ミッキー・ルーニーと組んだ《二人の青春》(《アンディ・ハーディ》シリーズの名で知られる青春ミュージカルの一編。1941),2度目の夫になるビンセント・ミネリ監督による《若草の頃》(1944),《踊る海賊》(1948),フレッド・アステアと組んだ《イースター・パレード》(1948)など,数々のミュージカルの傑作を残した。…

【キューカー】より

…安定した技巧でウェルメードなハリウッド映画をつくり続けた。〈女優の演出家〉としての力量に定評があり,《椿姫》(1937)のグレタ・ガルボから《スタア誕生》(1954)のジュディ・ガーランドを経て,《マイ・フェア・レディ》(1964)のオードリー・ヘプバーンに至るまで,彼によって個性を再創造されたスター女優は少なくない。《フィラデルフィア物語》(1940),《アダム氏とマダム》(1949)のキャサリン・ヘプバーンとは,キューカー初のテレビムービー《愛の旅路》(1975)まで9作に及ぶ名コンビだった。…

※「《スタア誕生》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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