世界大百科事典(旧版)内の《スペードの女王》の言及
【チャイコフスキー】より
…1885年2月モスクワ郊外にはじめて自分の邸宅をかまえ,交響曲《マンフレード》を作曲した。この頃から再び充実した創作力を回復し,《交響曲第5番》(1888),《組曲第4番》(1887),バレエ音楽《眠れる森の美女》(1889)と《くるみ割り人形》(1892),オペラ《スペードの女王》(1890。プーシキン原作)と《ヨランタ》(1891),そして《交響曲第6番(《悲愴》)》(1893)など,晩年の名作を次々と生み出した。…
【プーシキン】より
…〈年少の〉小貴族に与えられる名誉は詩人にとって屈辱であった。世俗権力との衝突の中でプーシキンは歴史的な視野を拡大していき,ピョートルの功業をほめたたえつつ,その犠牲になったペテルブルグの小市民の悲劇を描いた叙事詩《青銅の騎士》(1833),ゴーゴリやドストエフスキーの〈ペテルブルグ物〉の先駆けといえる小説《スペードの女王》(1834),レールモントフの《現代の英雄》やトルストイの《戦争と平和》の原型ともなった歴史小説《大尉の娘》(1836)を書いた。妻とフランス士官G.ダンテスとのスキャンダルにまきこまれたプーシキンは,37年1月27日ダンテスとの決闘で致命傷を負い,2日後に37歳の生涯を閉じた。…
※「《スペードの女王》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」