《ニーベルンゲン》(読み)にーべるんげん

世界大百科事典(旧版)内の《ニーベルンゲン》の言及

【ドイツ映画】より

…〈表現主義映画〉は,ある意味では小市民的な芸術であったが,映画資本家に利用されなかった純粋な映画として,のちにフランスの〈純粋映画〉とかかわりをもつことになった〈絶対映画absoluter Film〉にもつながるものであり,ハンス・リヒターの《リズム21》(1921),スウェーデン出身のビキング・エッゲリングの《対角線交響曲》(1924),ワルター・ルットマンの《ベルリン――大都会交響楽》(1927)などを生んだ。 ウーファは野心的な映画の製作をつづけ,《パッション》(1919)をはじめ王朝や貴族社会を背景にした歴史的題材のエロティシズムあふれるスペクタクル映画をつくったエルンスト・ルビッチはハリウッドに招かれてドイツを去ったが,ゲルマンの中世伝説をとり上げたフリッツ・ラング監督《ニーベルンゲン》(1924)や,会話字幕をすべて排除して〈ウーファ式カメラ〉として知られる柔軟でダイナミックなカメラワークによるF.W.ムルナウ監督《最後の人》(1924)や,サーカスの世界の愛欲を大胆に描いたE.A.デュポン監督《ヴァリエテ》(1925)や,そしてまたムルナウ監督《ファウスト》(1926)などによって,ドイツ映画は黄金時代を迎えた。しかし,ルビッチの例がそのさきがけであったが,すぐれた脚本家,監督,カメラマン,俳優がアメリカの映画資本によってハリウッドに吸収され,さらにナチズムの台頭とともに有能な映画人が追放されて,黄金時代は短命に終わった。…

【ポマー】より

…第1次大戦開戦後の1915年にデクラ社を設立し,表現主義映画の先駆的作品となったロベルト・ウィーネ監督《カリガリ博士》(1919),フリッツ・ラング監督《ドクトル・マブゼ》(1922)をつくった。23年にデクラ社がウーファ社に合併されたのちも,ラング監督《ニーベルンゲン》(1924),F.W.ムルナウ監督《最後の人》(1924),E.A.デュポン監督《ヴァリエテ》(1925),ヨーエ・マイ監督《アスファルト》(1929)などドイツ表現主義映画の代表作をはじめ,ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督《嘆きの天使》(1930),エリック・シャレル監督《会議は踊る》(1931)など,トーキー初期の重要な作品を製作,ハリウッドに対抗して,ベルリンを〈映画の首都〉とさえいわせたほどの勢いでドイツ映画の黄金時代を築き上げた。しかし,ナチスの台頭とともに他のユダヤ人芸術家と同様ドイツを去り,独立製作者としてパリ,ハリウッド,ロンドンをへて44年にアメリカ市民となったが,ハリウッドでの仕事はふるわず,46年,ドイツ映画復興のためアメリカ軍の司政官の資格でドイツへ出かけたのち,ふたたびハリウッドへ帰って死去した。…

※「《ニーベルンゲン》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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