世界大百科事典(旧版)内の《ローマ帝国衰亡史》の言及
【ギボン】より
…58年帰国,ハンプシャーのバリトンの実家での読書生活,2年間の軍隊生活の後,63年ふたたびヨーロッパ大陸に渡り,パリでディドロ,ダランベールなどと知り合い,翌64年10月15日,ローマのカピトルの廃墟で裸足の托鉢僧たちの夕べの祈りを耳にしたとき,この市の衰亡を記そうという霊感をうけた。それがローマ市の衰亡ではなく,マルクス・アウレリウス帝の死(180)からオスマン・トルコによるコンスタンティノープルの陥落(1453)に至る1300年に近い長大雄渾な《ローマ帝国衰亡史》6巻(1776‐88)にまで発展したのは,彼が青少年時に身につけた古典的教養と東方ビザンティン,イスラム,トルコ世界への関心と知見による。76年,第1巻刊行。…
【ローマ没落史観】より
…ボルテールはモンテスキューにも認められる反キリスト教立場をさらに強め,キリスト教公認に没落の原因をみた。これら啓蒙思想の影響の下で,ギボンは大著《ローマ帝国衰亡史》を著し,至福の五賢帝時代における野蛮と宗教の支配に帝国没落の責任を帰し,かつ文明の進歩と理性への信仰を吐露した。
[現代]
19世紀以後の歴史学の発達は,さまざまな没落原因論を生み出した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」