《拾玉得花》(読み)しゅうぎょくとっか

世界大百科事典(旧版)内の《拾玉得花》の言及

【金春禅竹】より

…父の弥三郎は1386年(元中3∥至徳3)に興福寺衆徒から大夫に補任され,後に円満井座の棟梁の地位を金春権守の長兄光太郎の子の毘沙王(びしやおう)次郎から譲られたものの,早世したらしく,禅竹は父の芸についてひと言もふれていない。そのためか禅竹は岳父の世阿弥に教導を仰ぐことが多かったようで,金春大夫になった後の1428年(応永35)には《六義(りくぎ)》を,1428年(正長1)には《拾玉得花》を世阿弥から相伝されており,その奥書や《却来華》の文言から,世阿弥が禅竹の将来に嘱望していたことが知られる。義兄の観世元雅も〈一大事の秘伝の一巻〉(《花鏡》か)を見せるなど,禅竹に好意的であった。…

【世阿弥】より

…29年(永享1)の仙洞御所での能の阻止,翌年の醍醐寺清滝宮の楽頭職剝奪などがそれで,世阿弥が一時は元重を養子にしたらしいのに,元雅に観世大夫を譲ったことが義教の反感の一因になったのかもしれない。義教の弾圧下にも,女婿金春禅竹(こんぱるぜんちく)のため《拾玉得花(しゆうぎよくとつか)》を著述し,《習道書(しゆどうしよ)》を書いて一座の結束をはかるなど,世阿弥の意欲は衰えなかったが,1430年には元能が父の芸談を《申楽談儀(さるがくだんぎ)》にまとめて遁世し,32年8月には元雅が伊勢で客死し,観世座の本流は断絶してしまった。老後に後嗣を失った嘆きは《夢跡一紙(むせきいつし)》に痛ましく,翌年成立の《却来華(きやくらいか)》は相伝者のいないまま後代への形見として書かれている。…

※「《拾玉得花》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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