《最後の人》(読み)さいごのひと

世界大百科事典(旧版)内の《最後の人》の言及

【サイレント映画】より

…例えばフランスでは,アベル・ガンスが《鉄路の白薔薇》(1923)をつくり,グリフィスのモンタージュを視覚的なリズムによる心理的なモンタージュに発展させ,カール・ドライヤーは《裁かるるジャンヌ》(1928)で大胆なカメラアングルと,クローズアップを最大限に活用したモンタージュでそれまでの常識を破り,〈サイレント映画〉形式の一つの頂点を示した。また,ドイツ映画の黄金時代(古典時代)を代表するフリードリヒ・W.ムルナウの《最後の人》(1925)は,文学的な借物であるタイトル(字幕)を排除し,カメラを自由奔放に駆使して映画以外の手段では不可能な映画的表現を開拓した。映画を純視覚的な時間芸術に還元するドイツの〈絶対映画〉や,純粋に感性的で視覚的なリズムの芸術としてのフランスの〈純粋映画〉も現れた。…

【ポマー】より

…第1次大戦開戦後の1915年にデクラ社を設立し,表現主義映画の先駆的作品となったロベルト・ウィーネ監督《カリガリ博士》(1919),フリッツ・ラング監督《ドクトル・マブゼ》(1922)をつくった。23年にデクラ社がウーファ社に合併されたのちも,ラング監督《ニーベルンゲン》(1924),F.W.ムルナウ監督《最後の人》(1924),E.A.デュポン監督《ヴァリエテ》(1925),ヨーエ・マイ監督《アスファルト》(1929)などドイツ表現主義映画の代表作をはじめ,ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督《嘆きの天使》(1930),エリック・シャレル監督《会議は踊る》(1931)など,トーキー初期の重要な作品を製作,ハリウッドに対抗して,ベルリンを〈映画の首都〉とさえいわせたほどの勢いでドイツ映画の黄金時代を築き上げた。しかし,ナチスの台頭とともに他のユダヤ人芸術家と同様ドイツを去り,独立製作者としてパリ,ハリウッド,ロンドンをへて44年にアメリカ市民となったが,ハリウッドでの仕事はふるわず,46年,ドイツ映画復興のためアメリカ軍の司政官の資格でドイツへ出かけたのち,ふたたびハリウッドへ帰って死去した。…

【ムルナウ】より

… 戦後,ドイツに帰って1919年に監督としてスタート,イギリスの作家ブラム・ストーカーの小説《吸血鬼ドラキュラ》(1897)を映画化した《ノスフェラトゥ》(1922)で,様式化されたセットを使わずにロケーションで恐怖と怪奇感を描きだし,異色の表現主義映画として世界に衝撃をあたえた。次いで,《最後の人》(1924)は,〈文学からの借りもの〉である会話や説明の字幕をいっさい排除し,カメラを自由奔放に駆使して〈視覚的なことば〉で全編をつづった画期的な作品となった。しかし,つづく《タルチュフ》(1925)と《ファウスト》(1926)が興行的に失敗し,27年,ウィリアム・フォックスの招きでハリウッドに渡り(アメリカでは《最後の人》がサイレント映画の最高傑作と評価され,ヒットしていた),ドイツ時代からの協力者であるカール・マイヤーの脚本とフォックスの財政的な支持を得,大がかりなセットだけで,移動撮影による映像美が映画史上の語り草になっているサイレント映画の最高峰の一つ《サンライズ》(1927)をつくった。…

※「《最後の人》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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