いちき串木野(市)(読み)いちきくしきの

日本大百科全書(ニッポニカ) 「いちき串木野(市)」の意味・わかりやすい解説

いちき串木野(市)
いちきくしきの

鹿児島県、薩摩半島(さつまはんとう)の北西部に位置する市。2005年(平成17)串木野市、日置(ひおき)郡市来町(いちきちょう)が合併して成立。市の北部から東部は八重山(やえやま)山塊に連なる山地。五反田(ごたんだ)川、八房(やふさ)川などが流れ出し、シラス台地を西流して東シナ海に注ぐ。これら河川の流域と海岸部に沖積平野が開ける。串木野市街は五反田川河口部南岸に発達し、これより南の海岸は、吹上(ふきあげ)浜の北端部にあたる砂丘海岸。JR鹿児島本線、南九州西回り自動車道、国道3号が通り、湊町(みなとまち)で3号から分岐する270号が沿岸部を南下。串木野新港からは、甑島(こしきじま)列島へ定期船がある。

 旧石器時代の松尾ノ平(まつおのびら)遺跡をはじめ先史時代の遺跡が多い。古代から中世にかけて、北部域は薩摩郡、南部域は日置郡市来院に所属。北部では、はじめ在庁官人の大前氏らの勢力が強かったが、平安後期に串木野氏が台頭した。市来院の院司であった市来氏は、南北朝時代には南朝方として市来城に拠り、北朝方の島津氏とたびたび合戦した。市来氏は15世紀半ば島津氏に攻められ滅亡するまで、八房川河口の市来湊を拠点に朝鮮、中国などとも交易し、高い経済力を保持した。16世紀後半にはフランシスコ・ザビエルも市来城を訪れている。江戸時代、市域は地頭支配の鹿児島藩直轄領で、北部は串木野郷、南部は市来郷に属した。市来郷の地頭仮屋は湊町に置かれ、津口番所も設置された。湊町には野町、浦浜も形成され、古くから薩摩国府・薩摩国守護所に至る道であった出水筋(いずみすじ)(現在の国道3号に相当)の宿場町としても繁栄した。幕末期には豪商海江田家ほかの貿易商人が活躍。串木野郷は最盛期には7千人余が入山していたという芹ヶ野金山(せりがのきんざん)の採掘で栄え、海岸部の湊は鹿児島藩領有数の漁港として賑わった。冠岳(かんむりだけ)は古くから信仰の山で、平安時代以来、冠嶽(かんむりだけ)神社や別当寺の鎮国(ちんこく)寺などを中心に山伏が活動、幕末まで山岳宗教の拠点であった。

 現在の基幹産業は農林水産業で、串木野漁港は遠洋マグロ漁業の基地として知られ、冷凍冷蔵庫の施設や製氷造船、水産加工などの関連産業がある。ちりめん、練り製品などの水産加工品のほか、柑橘類、ゴーヤ、焼酎などが特産。芹ヶ野金山は明治時代に再注目され、三井鉱山が採掘、現在は三井串木野鉱山として貴金属のリサイクル施設が稼動。金山跡の坑道を利用した観光施設「薩摩金山蔵」がある。吹上浜や冠岳などの自然を生かした観光にも力を入れている。大里(おおざと)地区の七夕踊は国指定重要無形民俗文化財。豊作と豊漁を祈願する羽島崎神社(はしまざきじんじゃ)の春の大祭(太郎太郎祭)は県指定無形民俗文化財。面積112.29平方キロメートル、人口2万7490(2020)。

[編集部]


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