アブドゥル・ラーマン(英語表記)Abdul Rahman, Tunku

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アブドゥル・ラーマン」の意味・わかりやすい解説

アブドゥル・ラーマン
Abdul Rahman, Tunku

[生]1903.2.8. ケダアロールスター
[没]1990.12.6. クアラルンプール
マレーシアの政治家。ケンブリッジ大学卒業。 1949年弁護士免許を取得し,マラヤ連邦法務局副検察官となった。 51年統一マレー国民組織 UMNO総裁となり,55年7月の総選挙では華僑印僑政党とともに連合党を結成し選挙に大勝,首相兼内相となった。 57年8月マラヤ連邦の成立と同時に初代首相兼外相。民族協和による国民の団結強化というラーマン政権の基本理念は,61年シンガポール,イギリス領ボルネオを加えたマレーシア連邦構想に発展,フィリピン,インドネシアの反対を抑えて 63年これを実現,首相に就任した。 69年の総選挙をめぐる中国人とマレー人との人種暴動を機に与党連合党が動揺,70年9月後任を T.アブドゥル・ラザクにゆだねて辞職した。

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百科事典マイペディア 「アブドゥル・ラーマン」の意味・わかりやすい解説

アブドゥル・ラーマン

マレーシア建国の父。マレー半島中部ケダの王家の生れ。第2次世界大戦をはさんで2度英国留学。この間,民族主義団体に加わり,戦後の1951年連合マレー人国民組織(UMNO)総裁として英国との協調を保ちつつ民族運動を導く。1955年第1回マラヤ総選挙の結果,首席大臣となり,1957年マラヤ連邦の完全独立を果たす。以後首相(1957年−1970年)としてマレーシア連邦の結成(1963年),同連邦からのシンガポールの脱退(1965年)問題の収拾などを行う。1971年イスラム諸国会議常設書記局の初代書記局長。
→関連項目マレーシア

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アブドゥル・ラーマン」の意味・わかりやすい解説

アブドゥル・ラーマン
あぶどぅるらーまん

ラーマン

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