改訂新版 世界大百科事典 「アヘン戦争」の意味・わかりやすい解説
アヘン戦争 (あへんせんそう)
アヘンの輸入をめぐって起きた,清朝とイギリスとの戦争。阿片戦争,鴉片戦争ともかく。
背景
19世紀初頭に至り,中国市場は,イギリス・インド・中国およびイギリス・アメリカ・中国それぞれの三角貿易関係によって国際市場に組み込まれた。前者は,インドへイギリス工業製品を,中国へインド・アヘンを,イギリスへ中国茶をという貿易関係であった。イギリスはこれらの関係を形成することにより,(1)自国工業製品の販路開拓,(2)銀を対価としない中国茶輸入の確保,(3)植民地インド政府の財源確立,という課題を果たさんとした。そのため,東インド会社にアヘン貿易独占権を与え,その東インド会社は,アヘン輸入を禁ずる中国に対し,ジャーディン・マセソン商会などの私貿易商人を通じて密輸出するという,中国市場と表裏二層の貿易関係をとり結んだ。したがって,この関係は次の矛盾を内包していた。すなわち,(1)本国産業資本家による自由貿易の主張と,対外貿易を広州1港の公行に排他的に独占させている清朝政府との対立,(2)1834年に対中国貿易独占権が廃止された後も,アジア貿易金融の実権を握る東インド会社に対するイギリス貿易商人の批判,(3)清朝側では,許乃済らアヘン弛禁派と黄爵滋(1793-1853),林則徐らの厳禁派との対立,以上の3点である。イギリス政府が対清貿易を直接に管理すべく,34年から派遣したネーピア卿(1786-1834)にはじまる貿易監督官も貿易商人や両広総督の反発にあい,清朝にあってもアヘン禁止の効があがっておらず,それぞれが事態の打開に動くなかでイギリスはついに武力による解決を図った。総じて,アヘン戦争は,アヘン貿易の歴史的性格がもたらした帰結であったばかりでなく,通商外交関係をめぐる問題の広がりにかんがみれば,中国の近代を,ひいてはその後のアジア近代史の方向を刻印した事件であった。
戦争の勃発
1839年(道光19)3月,湖広総督林則徐はアヘン禁絶の特命を帯びた欽差大臣として広州に到着し,外国商人にアヘンの提出および今後アヘン密貿易にたずさわらぬという誓約書の提出を命じた。イギリス政府の駐広州貿易監督官C.エリオットはついにアヘン提出を認め,林則徐はそれを虎門海岸で焼棄した。ただしエリオットはイギリス船に誓約書の提出は拒否させて,一方では戦闘態勢を整え,9月九竜港付近で清朝海軍と砲火を交え,アヘン戦争が勃発した。10月1日イギリス政府は中国との戦争を決定し,40年4月,ジョージ・エリオット,チャールズ・エリオットを正副全権代表とする4000人の将兵を派遣した。イギリス軍は広州,厦門(アモイ)を経て定海を攻略した後,北上して8月には天津に至り,G.エリオットは清朝政府に照会を送って,アヘン貿易の合法化,没収アヘンの賠償,領土割譲などの要求を提出した。清朝政府はこの問題を広州における地方的事件として処理せんとし,9月に直隷総督琦善(?-1854)を広州での交渉に派遣し,イギリス軍も南下した。
穿鼻仮協定と広州和約
1841年1月,イギリス軍は大角,沙角の砲台を突破し虎門に侵入した。C.エリオットは穿鼻(せんび)草約を提出し,琦善はこれに基づいて,アヘン賠償金600万元の支払い,広州貿易の回復,香港割譲などを含む穿鼻仮協定を結んだ。しかし,道光帝はこれを知るや琦善の帰京を命じ,代わって甥の御前侍衛内大臣奕山(えきさん)(1790-1878),戸部尚書隆文,湖南提督楊芳(1770-1846)を広州に派遣した。2月,虎門の戦に敗れ,虎門砲台を守る広東水師提督関天培(1780-1841)が戦死した。楊芳はC.エリオットと停戦協定を結び,3月から5月までの通商が回復した。5月末には,広州の戦でイギリス軍は広州城に迫った。奕山は広州和約を結び,清朝軍の広州城撤退,贖城(しよくじよう)費の支払い,イギリス軍の駐留承認,イギリス商館への賠償などを約した。
三元里の戦
5月末,イギリス軍は広州城北方の三元里で,付近一帯の郷村指導者によって組織された平英団に包囲され,大打撃を被った。その後広州近隣では,郷村教育機関であった社学を中心に,地主,郷紳が地方自衛組織としての団練を作り,それらはアヘン戦争を機に拡大する傾向を示した。後にイギリス軍の広州入城要求に対しても社学は反対し,大きな威圧を加えた。
イギリス軍の北上
イギリス政府は穿鼻仮協定に満足せず,C.エリオットを召還しH.ポティンジャーを全権公使に任命した。8月に彼は澳門(マカオ)に到着し,イギリス軍は北上を開始した。たちまち鼓浪,厦門を落としたが,以降しだいに清朝防衛軍の強い抵抗を受けた。9月定海,10月鎮海を陥落させた後,寧波(ニンポー)を占領した。道光帝は,協辦大学士奕経(1791-1853),侍郎文蔚,蒙古副都統特依順らに浙江防衛を命じたが,1842年3月の反攻は失敗し,イギリス軍はさらに慈渓を攻め落とした。かくして,奕山が指揮した先の広州戦役に続き,奕経による浙江戦役も大部隊を集めながら敗北した。道光帝は和議に転じ,盛京将軍耆英(1790-1858)と両江総督伊里布(1772-1843)を講和交渉のために浙江に急派した。しかしポティンジャーは和議を拒否し,5月に寧波,鎮海を撤退して舟山を基地とし,乍浦(さほ)を攻略して長江(揚子江)への進攻を開始した。6月呉淞(ウースン)砲台を攻略して宝山,上海を占領し,7月には7000の兵を率いて鎮江を攻め,激戦の末に陥落させた。
南京条約
1842年8月29日,清国全権耆英,伊里布とイギリス全権ポティンジャーとの間に南京条約が締結され,ここにアヘン戦争は終結した。南京条約では,五港開放,賠償金,領事駐在,公行制度の廃止などが規定され,追加条約たる翌年の〈五口通商章程〉〈虎門条約〉と合わせ,新たな中・英間の外交通商関係が定められた。さらに44年には米・清の望厦条約,仏・清の黄埔条約が締結され,これらを通じて列国は中国を強制的に世界市場に引き込むとともに,片務的最恵国条款,土地租借,領事裁判権などの権益を拡大した。
執筆者:浜下 武志
日本における影響
アヘン戦争に関する情報は,長崎に入港するオランダ・清両国の貿易船によって,逐次日本にもたらされた。オランダ船のものはイギリス側の情報によったもので,清国船のものは現地での見聞に基づくものであった。一方,従来から海防の問題に苦慮し,西洋諸国の動向に注目していた幕府も,この戦争には多大の関心を示し,みずから積極的に情報収集に乗り出し,特に1843年(天保14)7月にはイギリス軍の兵力・装備・戦術についての質問書を長崎在留のオランダ・清両国人に下して回答を求めている。これらの情報により,西洋諸国の軍事力が圧倒的に優勢であることがいよいよ明白になり,幕府当局者らに深刻な衝撃を与えた。ちょうどこの時期に幕政の実権を握った水野忠邦によって開始された天保改革も,全体としてこのような対外的危機感を背景としているが,具体的な施策としては,1825年(文政8)以来の異国船打払令を撤回し,薪水給与令を発して紛争の回避をはかる一方,長崎町年寄高島秋帆の建言により,彼が研究を重ねてきた西洋流砲術を採用して伊豆韮山代官江川太郎左衛門(英竜)に伝授せしめ,後には一般の希望者にも伝授を許した。また,江川に鉄砲方を兼帯させて同方の強化をはかり,諸大名に対しても日本全体の防衛の観点から軍備強化を指令している。しかし,幕府中枢部に対外的危機の認識はあったものの,幕府が本格的に軍事改革をはじめとする対応策を実施するのは,約10年後のペリー来航以後のことであった。一方,アヘン戦争の情報は知識人にも大きな衝撃を与え,次の弘化・嘉永年間(1844-54)には,斎藤竹堂《阿片始末》をはじめ,戦争の経緯や清の敗因などを論じた書物が数多く著され,広く読まれている。佐久間象山,吉田松陰をはじめとする幕末の思想家たちの思想形成も,これらの影響を抜きにしては考えられない。
執筆者:梅沢 秀夫
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