アルタクセルクセス2世(読み)アルタクセルクセスにせい(英語表記)Artaxerxēs II

改訂新版 世界大百科事典 「アルタクセルクセス2世」の意味・わかりやすい解説

アルタクセルクセス[2世]
Artaxerxēs Ⅱ

アケメネス朝ペルシア帝国の王。在位,前404-前359年。ダレイオス2世の子。〈ムネモン(記憶力よき人)〉の名で知られる。前401年弟キュロス反乱鎮圧。キュロスの軍に参加したクセノフォンのギリシア傭兵1万人退却の記録は《アナバシス》として有名である。この事件はスパルタ干渉を招いたが,前386年にスパルタ使節アンタルキダスを迎え,〈アンタルキダス条約大王の和約)〉によって有利な解決をみた。しかし,父王末年に離反したエジプトを回復しようとする試みは2回とも失敗し,治世末期の約10年間は西方諸州のサトラップの反乱に苦しんだ。王の伝記プルタルコスの《英雄伝》にみられる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アルタクセルクセス2世」の意味・わかりやすい解説

アルタクセルクセス2世
アルタクセルクセスにせい
Artaxerxēs II

アケメネス朝ペルシアの王 (在位前 404~359/8) 。ペルシア名アルタクシャトゥラ。ダレイオス2世の子。前 404年エジプトを失い,翌年ギリシア人と結んだ弟キュロス (小)の謀反にあい,鎮圧はしたもののペルシアの弱体ぶりを露呈。前 400年スパルタの離反に悩まされたが,前 394年クニドス沖でスパルタ海軍を撃破し,前 386年「アンタルキダスの和約 (大王の和約) 」を結び,小アジア本土とキプロスを確保した。ギリシア諸国の自治を認め,アテネを牽制して諸国の相互反目のうえに優位を保持した。他方エジプトへの2度の遠征 (前 385~383,前 374) には失敗,アルメニアアナトリアをはじめ国内にも反乱が頻発したが,反乱側の内部分裂により,アルタクセルクセスは帝国の大部分の失地を回復することができた。宗教面では,ミトラ,アナーヒターの2神を復活させ,神像崇拝の儀式を取入れた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アルタクセルクセス2世」の解説

アルタクセルクセス2世(アルタクセルクセスにせい)
Artaxerxes Ⅱ

(在位前404~前359)

アケメネス朝君主。即位後まもない前401年に,サルディス駐在のペルシア軍総司令官であった弟の(小)キュロスが,王位をねらって起こした反乱を鎮圧。この戦いと,反乱軍に加わったギリシア人傭兵隊1万人の敗走については,クセノフォン『アナバシス』に詳しい。同じ頃エジプトがそむいて独立を宣言したが,これを再平定することはできなかった。半世紀に及ぶ治世中に反乱が勃発し,帝国は徐々に衰退に向かった。

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世界大百科事典(旧版)内のアルタクセルクセス2世の言及

【クテシアス】より

…クニドスの出身。ペルシア軍の捕虜となり,医師としてペルシア王アルタクセルクセス2世に仕え,前401年にクナクサの戦に参加,前398年には王の使節としてアテナイのコノンと交渉した。その後クニドスに戻り,《ペルシア史》23巻,《地理書》3巻,《インド誌》などを著す。…

【ペルシア帝国】より

…それと同時に専制政治の弊害も現れはじめ,クセルクセスは親衛隊長らの宮廷陰謀によって殺された。続くアルタクセルクセス1世の治世前期にエジプトが反乱を起こし,アテナイと結んでペルシアに抵抗した。しかし,前454年に反乱は平定され,ペルシア戦争以来続いたアテナイとの敵対関係も〈カリアスの和約〉(前449)によって一応の解決をみたので,帝国の平和は維持された。…

※「アルタクセルクセス2世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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