イギリス美術(読み)いぎりすびじゅつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イギリス美術」の意味・わかりやすい解説

イギリス美術
いぎりすびじゅつ

イギリス美術は、古代ローマの遺跡やそれ以前の先史時代を除くと、大略して、中世、近世、近代、現代の4期に分けられる。いずれもヨーロッパ大陸諸国と、1950年代後半以降はことにアメリカと絶えず不可分の関係を保ちつつ独自のものを生み出している。また一説に、大陸諸国の美術は建築やそれに付随した壁画、彫刻から出発したのに対し、イギリス美術は中世以来のミニアチュールマニュスクリプト(手写本)の伝統を継承して始まるといわれるのもうなずけるふしがある。建築は、大陸のものと比べ、例外はあるにせよ、聖堂、城、館(やかた)、民家など、どことなく無骨で頑健で実質的なところがあり、換言すれば残酷でもあり、装飾性がなく、そこにまた独特な魅力がある。一方、ミニアチュールやマニュスクリプトは華麗なわりに素朴な親密感がある。その点、見方にもよるが、中世と現代とにもっとも魅力があり、近世では、いわゆる正統派は華麗さはあるものの、例外的作家や作品を除いて、見るべきものはあまりない。

[岡本謙次郎]

中世の美術

中世の建築ではダーラム大聖堂カンタベリー大聖堂、そのほかイギリス風ロマネスクやゴシックの作例も少なくないが、同時に、小さな村にあるひなびたロマネスクの小教会などにも興味深いものがあり、各所に点在する廃城の遺構群も印象的である。工芸も、家具調度など、生活に密着し、有機的な構造をもっていて、無骨で荒さがあるが、その堅牢(けんろう)な構成に作者の生命が隅々まで通っている。こうした工芸の伝統は、産業革命による大量生産以前まで続くといってよいが、19世紀末のウィリアム・モリスの美術運動も、このあたりに着目してのことといってよかろう。ミニアチュールとしては、700年ごろアイルランドで制作された『ダロウの書』『ケルズの書』などが、ケルト系の縄目模様やキリスト教に対する異教的要素を取り入れた点で有名である。そのほか各地の博物館、図書館に収蔵されている数は膨大で、未調査のものも多い。13世紀ヘンリー3世(在位1216~1272)のころから、百年戦争を一つの契機として、14、15世紀に外国の芸術家たちが渡英し、多くの作品を制作しているが、パネル画としては『ウィルトン家の二翼祭壇画』(1380~1390)が国際ゴシック様式の一典型として著名である。

[岡本謙次郎]

近世の美術

ヘンリー8世(在位1509~1547)のとき多くの外国画家が渡英し優遇されたが、そのうちハンス・ホルバインはイギリスに定住した最初の一流画家といえる。この時期から肖像画がようやく興隆するが、イギリス人の画家としては、ホルバインの流れをくみつつ風土的なものを感じさせるミニアチュール画家ニコラス・ヒリヤードとその弟子アイザック・オリバーIsaac Oliver(1565?―1617)がいるくらいである。1629年、チャールズ1世在位中、ピーター・パウル・ルーベンスが外交使節としてロンドンにきたことはイギリス画壇に大きな刺激を与える。ついで1632年のファン・ダイクの渡英定住は、以後1世紀あまり、イギリスのアカデミックな肖像画に、ほとんど決定的な影響を与えることになる。18世紀の擬古典主義はロンドンを中心とする上流社交界と結び付き、また、絵画における後進性という意識は、目標としてその頂点を首都に集中する。画家はほとんどみなロンドンに集まった。ファン・ダイクの追随者でクロムウェル時代に活躍したサミュエル・クーパーSamuel Cooper(1609―1672)らから、ピーター・リーリーPeter Lely(1618―1680)、ゴッドフリー・ネラーGodfrey Kneller(1646―1723)らを経て、この系統からジョシュア・レノルズ以下のアカデミズムが生じ、南欧ことにイタリアにあこがれ、「荘重体」の歴史画や肖像画が流行する。

 しかし、その前にウィリアム・ホガースをあげねばなるまい。アカデミックな肖像画が上流社交界と結び付いたとすれば、対照的に、庶民的なアングロ・サクソンの血統を代表するのはホガースである。イギリス人らしい絵をかいた最初の画家で、『えび売りの娘』など近代絵画かと思われるほど生気に満ちているが、当時の主流から思えば特異な存在で、まことに世俗的な力強さで風刺画を多産し、これを版画にして普及させている。デモクラチックな自由な精神が民衆への愛情と結び付き、痛烈な風刺は倫理観とユーモアに支えられている。これは、スウィフト、フィールディングなどの散文芸術の発生と不可分に結び付くものである。彼の風刺的要素はトマス・ローランドソンThomas Rowlandson(1756―1827)そのほかの戯画やさまざまな風刺画へと、かなり変形されながらつながって現代に至っている。

 1768年ロイヤル・アカデミーが設立され、レノルズはその会長となり、その後二十数年画壇の最高権威となり、アカデミックなイギリス絵画の樹立者として、その影響は大きかった。レノルズと同時代で最大のライバルだったトマス・ゲーンズバラは、肖像画をかく一方、風景画を好んでかき、リチャード・ウィルソンとともにイギリス風景画の創始者としての意義のほうがいっそう重要かもしれない。これ以後イギリスはわずか半世紀間に肖像画の黄金時代を現出し、ビクトリア時代(1819~1901)まで多くの画家が輩出するが、この派は、例外的作家を除いて、その当時の世間的隆盛はともかくとして、芸術としては急激に下降線をたどるといえよう。これにかわって風景画が上昇する。

[岡本謙次郎]

近代の美術

19世紀イギリス絵画といえば、すぐ風景画を思い起こさせるが、この世紀前半にロマン主義的風潮と結び付いて、ジョン・コンスタブル、J・M・W・ターナーを頂点とする、その隆盛期を迎える。一般に、肖像画はロンドンを中心とする都会の芸術であったのに反し、風景画はもともと地方に分散していた。これは単に題材による相違というより、文化全体にかかわる問題であろう。風景画が、啓蒙(けいもう)的合理主義への批判として生まれたロマン主義、ナショナリズム、自然主義と結び付くのも当然であろう。また大陸の風景画、ことにオランダの風景画に多くの影響を受けながら、かなりの相違を示すのも理解される。風景画のうち、水彩画の果たした役割も大きい。大陸諸国にもむろんあったが、ルネサンス後期以後、水彩画がイギリスほど重要な役割を果たした所はあるまい。水彩風景画には、18世紀以来諸地方に分散して、目だたない仕事をしていた名所図絵派風の流れと、カズンズ父子Alexander Cozens(?―1786)、John Robert Cozens(1752―1799)を中心とする文人画風の流れとがあり、それが、トマス・ガーティンやターナーを通って統合され、一つの伝統を形成する。

 いま一つ、イギリス民族の底を流れる力にウィリアム・ブレイクの系統がある。詩人、画家、神秘思想家であるブレイクは、おそらく詩人としては若いころ頂点に達し、晩年になるにつれ画家として大成したと思われる。『ヨブ記』およびダンテの『神曲』の挿絵は最晩年の傑作だが、後者は未完成である。彼の提出した問題は現代に鋭く迫っていると思われる。19世紀後半、ビクトリア時代は、産業の発展に伴い、複雑な時代相を呈するが、美術の一般的風潮としては、中産市民階級の、いわゆる「健全」な趣味に適合して、アカデミーの類型や教訓的あるいは逸話風な物語絵が支配的であった。

 この風潮を予想し反発するかのように、1846年ごろからイギリス美術史上特異な意義をもつラファエル前派の運動が起こる。初めは明確な芸術運動ではなく、若い3人の画家ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、ジョン・エバレット・ミレイ、ホルマン・ハントの友情による統合から出発し、のちに数名が加わったが、この集団活動は数年しか続かなかった。しかし、のちにロセッティはウィリアム・モリスと知り合い、総合的に美術を生活と結び付けようとする運動が起こる。かならずしも成功したとはいえないが、大量生産への批判として、中世以来の手作りによる有機的構成に着目した実験の意義は大きい。一方、このころ、印象主義の影響を受けた人々がアカデミーに反発し、1886年「新イギリス美術クラブ」が結成される。この時期はまた世紀末の唯美主義などと重なり合う。

[岡本謙次郎]

20世紀の美術

20世紀のイギリス美術を見渡すと、芸術家が集まり主義(イズム)が宣言されるというよりも、むしろ自然で緩やかな結合が、批評家によってスクール(派)やグループと名づけられることが多い。また地理的にヨーロッパ大陸と海を隔てていることもあって、20世紀前半のイギリス美術が、単線的で発展史的な美術史の叙述から疎外されたことは必然の結果であった。しかしいってみればそこでは、国外の芸術運動を独自に吸収しながらより個人的な表現が確立されていたのであり、その有効性を証明するかのように1960年代以降、現代美術界におけるイギリスの地位は高くなっていった。

[保坂健二朗]

第一次世界大戦まで

1910年前後、ウォルター・シッカートWalter Sickert(1860―1942)などのカムデン・タウン・グループCamden Town Groupは、ポスト印象派post-impressionism(従来後期印象派と表記されていたもの)的な色彩によって都市風景や労働者階級の日常を描いていた。それと時をほぼ同じくして開かれた、批評家ロジャー・フライによる二つの展覧会、1910年の「マネとポスト印象派」展と、1912年の「第2回ポスト印象派」展は美術史上あまりにも名高い。後者に含まれていたダンカン・グラントDuncan Grant(1885―1978)とバネッサ・ベルVanessa Bell(1879―1961)は、1913年、フライとともに、オメガ・ワークショップ(オメガ制作工房)Omega Workshopを結成する。理念としてはモリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に近いこの工房は、しかし非伝統的で抽象的なモダン・デザインによる室内空間を目ざしていたのであって、伝統的要素がいまだ強く残っていたイギリスに新たな空間をもたらしたのである。また彼らに加えて、クライブ・ベルClive Bell(1881―1964)やバージニア・ウルフなど多くの芸術家や文学者たちが集まるブルームズベリー・グループもあった。1914年には、機械文明を賛美するイタリア未来派(未来主義)の強い影響下、パーシー・ウィンダム・ルイスPercy Windham Lewis(1882―1957)が中心となって設立したボーティシズムVorticism(渦巻主義)の機関誌、『旋風』Blastが発刊された(2号まで続く)。情念を含めたエネルギーの渦巻を表現するべきだとしたこの運動は、第一次世界大戦もあってさほど長く続かなかったものの、彫刻家ジェイコブ・エプスタインや画家デビッド・ボンバーグDavid Bomberg(1890―1957)などの造形作家だけでなく、エズラ・パウンドやT・S・エリオットなど文学方面の参加もあり、20世紀イギリスにおいて横断的な「主義」が実行された希有(けう)な例である。

[保坂健二朗]

第一次世界大戦後から第二次世界大戦まで

ポール・ナッシュは、第一次世界大戦後の荒廃した風景をシュルレアリスム的で預言的な風景画に昇華させた。またボンバーグはボーティシズムの様式をすでに捨て即物的な絵具の扱いで実在の対象をからめとろうとしており、その手法は彼の生徒であったレオン・コソフLeon Kossoff(1926―2019)やフランク・アウエルバハFrank Auerbach(1931― )に大きな影響を与えた。1933年、国際的な隆盛をみせていた構成主義に並行して、ヘンリー・ムーア、ベン・ニコルソン、バーバラ・ヘップワース、ナッシュなどにより、ユニット・ワンUnit Oneが結成された。なお彼らが滞在していたセント・アイブスSt. Ivesは、芸術家コロニーとして知られている。しかし1940年代に入っても、主流はビクター・パスモアVictor Pasmore(1908―1998)の抒情(じょじょう)的抽象や、田園風景に精神性を付与した新ロマン主義とよばれる動向であった。

[保坂健二朗]

第二次世界大戦後から1950年代

第二次世界大戦後もやはり、労働者階級の日常的風景である台所を描いたことで名づけられた、ジョン・ブラッツビーJohn Bratsby(1928―1992)らのキッチン・シンク・スクールKitchen Sink Schoolや、コソフ、アウエルバハ、ルシアン・フロイトLucian Freud(1922―2011)、ロナルド・B・キタイRonald B. Kitaj(1932―2007)などをもってよばれるロンドン派London Schoolなど、具象的表現が力をもっていた。抽象表現主義全盛ともいえる時代にあって彼らの精神的支えとなったのは、宗教的題材を積極的にとりあげ、またトリプティックtriptych(三幅対)など伝統的絵画形式を用いていたフランシス・ベーコンやグレアム・サザランドの絵画がすでに獲得していた評価である。

 1950年代後半、リチャード・ハミルトンRichard Hamilton(1922―2011)やパオロッツィなどのインディペンデント・グループIndependent Groupは、マス・メディアに氾濫(はんらん)するイメージを否定することなく、むしろ物質文化の時代を反映するものだとして作品内に引用した。ポップ・アートと名づけられた、アメリカ的消費文化を肯定するこの動向は、やがてニューヨークへと移りそこで絶頂期を迎える。それまで広告向けとみなされてきたシルクスクリーンの技法が芸術作品に積極的に用いられたポップ・アートの系譜に、デビッド・ホックニーを置くことができるだろう。

[保坂健二朗]

1960年代以降

1960年代以降、芸術が規範として到達すべき地点がそれまでのフランス中心のヨーロッパからアメリカにとってかわられ多様な動向が噴出するなか、イギリス美術の存在はむしろ大きくなっていった。たとえばマイケル・ボールドウィンMichael Baldwin(1945― )などが1968年に設立したグループ、アート・アンド・ランゲージArt & Languageや画家ブリジット・ライリーなどは、それぞれコンセプチュアル・アート、オプ・アートという今日まで続くジャンルの主導的立場としてあげることができよう。しかしそれらでさえも、ムーア、ヘップワース、ケネス・アーミテージKenneth Armitage(1916―2002)、リン・チャドウィックに続く世代の立体表現がもちえた影響力にはかなわない。アンソニー・カロによる台座のない構成的な彫刻は、フォーマリズムFormalism、つまりアメリカの批評家クレメント・グリーンバーグが唱道した、視覚性を徹底すると同時に形式formに固有な要素を純化させる主義を代表する作品である。一方それに続く世代は、カロの無機的であまりにも審美的な彫刻に反発し、それまでとはまったく異なる形式による(そうよぶのはためらわれるような)彫刻を制作することになる。自らの身体を「生きている彫刻」として提示した2人組の作家ギルバート・アンド・ジョージや、自然の中に自らの行為の痕跡(こんせき)を残し、またそれを写真に収めたランド・アートLand Artのハミッシュ・フルトンやリチャード・ロング、そして非伝統的な手法と素材を用い、予測不可能な偶然の変化を含む制作プロセスを作品の主要な要素としてとらえるプロセス・アートprocess artの黎明(れいめい)期に大きく寄与したバリー・フラナガンなどが代表的である。さらにその後に続くのが、さまざまな素材を集め非人称的で工業的な手法により構築するリチャード・ディーコンRichard Deacon(1949― )や、プラスチックの破片や廃材を用い、その断片性と詩情をもって彫刻に新たな意味を加えようとしたトニー・クラッグTony Cragg(1949― )とビル・ウッドローBill Woodrow(1948― )などで、彼らの作品はときに、ニュー・ブリティッシュ・スカラプチュアnew British sculptureと包括的によばれる。

 イギリスには、テートなどの美術館はもちろん、ホワイトチャペル・アート・ギャラリーやICA(Institute of Contemporary Art)など、同時代美術をサポートする非営利の展示スペースが多い一方で、概して展覧会のもつ経済的意義が大きい。1988年、当時まだ学生であったデミアン・ハーストの企画によって行われた「フリーズFreeze」展が象徴的だったのは、その内容もさることながら、台頭してきた新たな産業資本の出資により、再開発された地域であるロンドンのイースト・エンドで行われたからである。こうした芸術と新興資本の関係がより緊密な形で顕示されたのが、一企業の同時代美術コレクションによって構成され、ロイヤル・アカデミーという権威的場所で行われた「センセーションSensation」展(1997)であった。ちなみにこの展覧会にも含まれていたハーストは、1995年にターナー賞Tuner Prizeを受賞しているが、この賞はイギリスにおける同時代美術を対象として、1984年にテート美術館によって創設されたもので、美術の世界的動向を占う役割さえ帯びている。彫刻家レイチェル・ホワイトリードRachel Whiteread(1963― )や映像作品で知られるダグラス・ゴードンもその受賞者で、後者の出身地グラスゴーはチャールズ・レニ・マッキントッシュの建築群で知られていたが、20世紀の末にはロンドンと並ぶ同時代美術の発信地となった。こうして世界的規模での隆盛をイギリス美術はみせているが、その担い手たちをヤング・ブリティッシュ・アーティストとよぶこともある。

[保坂健二朗]

建築

20世紀の建築では、造形的なコンクリート建築を設計したグループであるテクトンTectonや、構造技術家オーウェン・ウィリアムズOwen Williams(1890―1969)に始まり、CIAM(シアム)崩壊後の国際的建築グループの一つ、チーム・テンTeam Ⅹのメンバーであったスミッソン夫妻、ハイテックなリチャード・ロジャーズやノーマン・フォスターがあげられる。さらにポスト・モダン的な古典主義のジェームズ・スターリングの活動や、実現不可能なプロジェクトを次々と発表したピーター・クックPeter Cook(1936― )やロン・ヘロンRon Herron(1930―1994)らによるアーキグラムの活動など、建築の解体が叫ばれて以降は、むしろ発言力を増している。また、長らく伝統的様式のリバイバルが大勢を占めてきたインテリア・デザインでは、1960年代以降ポップ・カルチャー的な使い捨て家具や、伝統的規範に反抗するようなサイケデリックな色彩が登場して一変した。その一方で、環境問題の登場とほぼ同時に現代版カントリー・コテージ風デザインを流行させたローラ・アシュレイLaura Ashley(1925―1985)や、さまざまなデザインから個人の嗜好(しこう)にあわせて選択可能なセレクト・ショップの手法を確立したテレンス・コンランTerence Conran(1931―2020)など、創造的とはいいがたいが消費的浸透力をもつ活動が注目されている。

[保坂健二朗]

『ロイストン・ランダウ著、鈴木博之訳『イギリス建築の新傾向』(1974・鹿島出版会)』『主婦の友社編・刊『エクラン世界の美術12 イギリスA 王室の秘宝と大英博物館』『エクラン世界の美術13 イギリスB ナショナル・ギャラリーと名画名宝のコレクション』(ともに1981)』『『原色世界の美術8 イギリス1 大英博物館』『原色世界の美術9 イギリス2 ナショナル・ギャラリーほか』(ともに1987・小学館)』『エミール・カウフマン著、白井秀和訳『理性の時代の建築 イギリス イタリア編』(1993・中央公論美術出版)』『『世界美術大全集20 ロマン主義』『世界美術大全集22 印象派時代』『世界美術大全集23 後期印象派時代』(ともに1993・小学館)』『サイモン・ウィルソン著、湊典子他訳『テイトギャラリーAn illustrated companion日本語版』(1996・ミュージアム図書)』『『世界美術大全集24 世紀末と象徴主義』(1996・小学館)』『『ロンドン・周辺の美術館とスコットランドの古城美術館』(1997・美術出版社)』『サイモン・ウィルソン著、多田稔訳『イギリス美術史』(2001・岩崎美術社)』『ローランス・デ・カール著、高階秀爾監修、村上尚子訳『ラファエル前派 ヴィクトリア時代の幻視者たち』(2001・創元社)』『高橋裕子著『イギリス美術』(岩波新書)』


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改訂新版 世界大百科事典 「イギリス美術」の意味・わかりやすい解説

イギリス美術 (イギリスびじゅつ)

本項では,グレート・ブリテン島,アイルランド島を中心とした,いわゆるイギリス諸島全体にわたる美術の流れを概観する。なお〈アイルランド美術〉〈ケルト美術〉の項目も参照されたい。

 イギリスは,文学においてはチョーサー,シェークスピア以後,大陸諸国と比較しても遜色ない逸材を生んだが,美術に関しては常に高い水準を保ってきたわけではない。中世のケルト美術,18世紀中葉から19世紀にかけての絵画,17~18世紀の建築などは,全ヨーロッパ的な見地からしても誇るに足るものである。しかし,いずれも独自の国民様式として定着するにはいたらず,時代による質的な差も目だつ。また少なくとも19世紀のJ.M.W.ターナー,J.コンスタブルの時代までは,ジャンルを問わず大陸諸国に与えた影響よりは受けた影響の方が大きかった。島国という地理的特殊性がイギリス美術にどれだけ作用しているかは微妙な問題であるが,様式の伝播という点からすれば,大陸諸国との間に時間的なずれがしばしば認められる(マネ,セザンヌ,ゴッホ,ゴーギャンなどの作品がイギリスで初めて本格的に紹介されたのが,ようやく1911-12年の〈マネと後期印象派〉展によってであったというのは,その一例である)。また外来芸術家の活躍が,イギリスの場合には特に18世紀以前の,国家間の人的交流がそれほど盛んでなかった時代に目だっている。特に線画の領域では16世紀のH.ホルバイン(ドイツ),17世紀のファン・デイク(フランドル)らの存在を抜きにして,それ以降のイギリス絵画の展開は考えられない。

 このようなイギリス美術の歴史的特質の背景には,イギリスの宗教事情も多分にからんでいる。ルネサンスからバロックにかけてのヨーロッパの大芸術を支えていたのは教会と国家ないし宮廷であるが,イギリスにはこのようなパトロンが欠如していた。すなわち,この時代ヘンリー8世が自らの離婚問題でローマ・カトリックと絶縁してアングリカン・チャーチを樹立し(1534),また17世紀中葉にはピューリタン革命が起こったが,このような歴史は造形芸術,とりわけ宗教美術の育成には不利に働いた。したがってイギリスでは,世俗的・私的性格の強いジャンル,すなわち建築では個人の住宅や城館,絵画では肖像画,風景画,風俗画などに見るべきものが多い。

 自然の抒情的な,あるいは〈ピクチュアレスク〉な美しさに対するイギリス人の感性は,ロマン派の詩に典型的に表れているが,ターナー,コンスタブルら同時代の風景画も,この点で他国に抜きん出ている。また,18世紀の市民社会の成立,発展と共にイギリスの文学はヨーロッパをリードする位置にあったが,小説的,逸話的,ときに教訓的,風刺的なものを好む国民性は,イギリス人特有のユーモア感覚と相まってW.ホガースからビクトリア期に至るイギリス絵画のバックボーンのひとつをなした。

 〈コモン・センス〉という言葉に象徴されるイギリス人の穏健な良識感覚は,大陸における未来主義や表現主義のような前衛的・急進的な芸術運動を生むには適さなかった。その反面で,イギリスの自由主義的な精神風土は,美術にあっては,フランスやイタリアにおけるような権威主義的なアカデミズムや強固な伝統の欠如と相まって,W.ブレーク,ターナー,元来はスイス人のJ.H.フュッスリなどの破格的・独創的な芸術家を生む要因となった。

 イギリス美術の造形的・様式的特質としては,色彩よりも線,とりわけ曲線のもつ表現的,装飾的,あるいは象徴的効果に対して敏感であることがあげられる。この傾向はケルトの装飾写本から,ホガースのいうS字形の〈美しい線line of beauty〉を経てブレーク,さらに19世紀のW.モリスやW.クレーン,あるいは世紀末のA.V.ビアズリーのデッサンに至るまで一貫してうかがえる。こうした線の装飾的な意匠(パターン)を駆使して全体を構成してゆく傾向は,建築,とりわけゴシック建築にも見られる。その反面,イギリス美術は古典的でモニュメンタルな形態感覚にやや乏しく,17~18世紀に流行したパラディオ主義にしても,本質的にはその名のとおりイタリアの古典主義の移入であった。むしろイギリスではフランス・ロココに代表される感覚主義的な華美な装飾性に対する反感もあり,比較的小規模でしかも実用主義的な分野,たとえば住宅建築や工芸デザインの分野で,繊細で堅実な作品が生み出された。19世紀末のアーツ・アンド・クラフツ・ムーブメントはその意味で,イギリスに典型的な運動であったといえよう。

本来の建築とは見なされないが,先史時代の建築的な遺物としては,ソールズベリー平野ストーンヘンジがある。ヨーロッパの巨石記念物の代表的なもののひとつに数えられるが,その目的については定説がない。1世紀にブリテン島を征服したローマ人は5世紀初めに島を去り,その後アングロ・サクソン人が渡来する。今日のイギリスの基礎を築いたこれらアングロ・サクソン人は,6世紀末~8世紀にキリスト教に改宗し教会堂を建てたが,ローマ時代も含めこの頃の遺構はほとんど残らない。今日完全な形で残るイギリス建築の最も古い例としては,ブラッドフォード・オン・エーボンBradford-on-Avonの教会がある。窓が少なく,外壁に細い筋のような壁柱を用いただけの素朴な〈アングロ・サクソン様式〉は6~11世紀に行われたが,その後1066年のノルマンディー公ウィリアムによるイングランド征服がイギリス建築に新時代を導入した。すなわち,半円アーチや厚い壁を特色とする重厚な〈ノルマン様式〉が確立され,11世紀末から12世紀中ごろにかけて主流となった。ただしこれは,実際には,フランスのロマネスク様式を移入したものであった。これに対し1093年に着手されたダラム大聖堂はリブ・ボールトを採用した建築,言い換えればゴシックの名に値する建築としては,イギリスのみならずヨーロッパでも最初の例とされる。しかしその後のゴシック建築の展開はフランスが主導権を握り,12世紀末にはフランスの工匠ギヨーム・ド・サンスGuillaume de Sensが渡英してカンタベリー大聖堂の新築の指導に当たり,イル・ド・フランスを中心に発達したフランスのゴシック様式を伝えた。12世紀末から13世紀にかけての〈初期イギリス様式Early English Style〉は,大陸での盛期ゴシックに当たり,ウェルズ,リンカン,ソールズベリーなどの大聖堂が生まれた。しかしイギリスでは建築構造そのものに対する関心よりも,壁面,天井,トレーサリー(狭間飾)などの細部の装飾が重視され,14世紀の〈装飾様式Decorated Style〉においては,曲線を多用した装飾が見られ,星状ボールトのようなモティーフも生んだ。エクセターやイーリーの大聖堂がこの様式による。14世紀後半に入ると,〈装飾様式〉に対する反動のように〈垂直様式Perpendicular Style〉が登場する。縦長の大きな窓や支柱などが強調されているためこう呼ばれるが,〈垂直様式〉ではまた同時に水平方向も強調されており,直線的な要素が目だっている。しかし,この様式はグロスター大聖堂やロンドンのウェストミンスター・アベーに見られるように,外観上は幾何学的で簡素な造形を示すものの,内部は依然として曲線的なモティーフを用いた装飾が目だつ。特に後者のヘンリー7世礼拝堂には,イギリス特有の華麗なファン(扇状)・ボールトが施されている。〈垂直様式〉は16世紀,すなわち時代的にはルネサンスに入るまで見られた。

ヘンリー8世がアングリカン・チャーチを樹立し修道院解散(1536,39)を行ったため,それまでの宗教建築を支えてきた建築家のギルドは弱体化し,これ以後のイギリス建築は国王や貴族のための世俗建築(宮殿,邸館,別荘など)に重点が移動する。ルネサンス様式と後期ゴシック(垂直様式)の混交した16世紀前半の〈チューダー様式〉の後,エリザベス1世の時代(1558-1603)には,イタリア風のシンメトリーも取り入れた〈エリザベス様式〉が行われた。17世紀に入るとI.ジョーンズがイギリス建築に新紀元を開く。彼は40歳のとき,2度目のイタリア旅行でイタリア・ルネサンスの建築家A.パラディオの作品に感激し,イギリスにおけるパラディオ主義の最初の大建築家となった。18世紀前半に,イギリス有数のパトロンで同時に建築家でもあったバーリントン伯が出るに及んで,パラディオ風の古典様式はイギリスに完全に根を下ろした。1666年のロンドン大火は,ジョーンズの晩年に生まれたC.レンの才能を発揮するうえでの大きなチャンスとなり,このとき新築されたセント・ポール大聖堂は彼の代表作となった。レンをはじめ,彼の弟子のN.ホークスムア,J.バンブラーなどはバロック的な装飾性も見せるが,フランスやドイツのそれに比べると古典主義的色彩が強い。この後,ロココ的なデザイン感覚を示すアダム兄弟,今日の都市計画の先駆者でもあるJ.ナッシュらが活躍する。18世紀後半のロマンティックな懐古趣味,変化に富む自然の美しさへの欲求は,一方ではフランスの幾何学様式と対立する〈ピクチュアレスク〉なイギリス式庭園(W. ケントら)を生み,他方ではいわゆるゴシック・リバイバルの要因となった。18世紀半ばのウォルポールHorace Walpole(1717-97)の自邸,ストロベリー・ヒルはゴシック・リバイバルの火付役となり,C.バリーによるイギリス国会議事堂(1870完成)は,その最もモニュメンタルな作例となった。一時バリーの協力者であったA.W.N.ピュージンも当時のゴシック的な傾向を代表するひとりである。

こうした歴史主義的傾向の一方,19世紀のビクトリア朝期には,駅,工場,橋など時代の要求にこたえた,新素材(鉄やガラス)による新しいタイプの世俗建築が誕生する。1851年の世界最初の万国博の会場としてつくられたJ.パクストンのクリスタル・パレス(水晶宮)はその代表例で,これはまた,今日のいわゆるプレハブ建築の先駆としても注目される。住宅建築ではW.モリスの友人P.ウェッグ,A.H.マクマード,R.N.ショー,C.F.A.ボイジー,E.ラティエンスが特に田舎家(カントリー・ハウス)あるいは別荘に新しい傾向を見せている(アーツ・アンド・クラフツ・ムーブメント)。また緑地に囲まれた独立的な都市の建設を提唱したE.ハワードの〈田園都市garden city〉構想は,理想主義的色彩が強いが,各国の都市計画に大きな影響を及ぼした。またグラスゴー美術学校(1897-99)の設計で知られるC.R.マッキントッシュは,イギリスのアール・ヌーボーを代表する建築家,工芸家であるが,彼の機能主義的な一面は,ドイツ,オーストリアの建築家(ロース,ベーレンスら)にも影響を与えた。

 20世紀のイギリス建築の主流はいわゆる国際様式に追随しているが,その一方ではハワードの〈田園都市〉構想の影響下に,自然とのつながりを重視してつくられたサセックス大学(1960)など,伝統を反映した作品も生まれている。1950年代のスミッソン夫妻Peter Smithson(1923- ),Alison S.(1928-93)やル・コルビュジエの作品に始まる機能主義的な〈ブルータリズムBrutalism〉も,イギリス現代建築のひとつの流れとなっている。

現存するイギリスの中世絵画で注目すべきものは写本装飾で,これは大陸のカロリング朝のそれに先行し,歴史的意義もきわめて大きい。なかでも,ローマ人の征服を受けなかったアイルランドのケルト人は,表現力と装飾性に富む線描表現と,ときにきわめて抽象的な造形感覚によって,《ダローの書》(680ころ),《ケルズの書》(800ころ)《リンディスファーンの福音書》(698ころ)などの傑作を生んだ。すでにキリスト教に改宗していた,これらケルト人は大陸にも盛んな布教活動を展開したが,その際宣教師は彼らの修道院で作られた写本を持参し,これらがドイツやフランスのカロリング朝の写本芸術に影響を及ぼした。これに対しイングランドでは,これよりやや遅れて10世紀ころからウィンチェスター,カンタベリー,ダラムなどの修道院で写本芸術が開花した。とりわけ,ウィンチェスターは重要で,イギリスの写本芸術に一時期を画した。しかし11世紀半ばのノルマン征服以後は,建築と同様に大陸,とりわけフランスからの影響が大きく,英仏いずれの作品か特定しがたいものもある。

少なくとも絵画に関する限り,イギリスは〈ルネサンス〉と呼ぶに値するものは生んでいない。特にアングリカン・チャーチの成立は,絵画とりわけ宗教画にとってはむしろマイナスに作用した。16世紀前半のイギリス絵画をほとんど一人で代表したのが,ヘンリー8世の宮廷画家でドイツ人のH.ホルバインであったという事実は,当時のイギリス絵画の低調ぶりを象徴している。エリザベス朝に入るとN.ヒリアードとオリバーIsaac Oliver(1565か67-1617)が肖像画と細密画に見るべき作品を残したが,大勢に影響はなかった。こうした状況は17世紀に入っても変わらず,当時この国で活躍したのはファン・デイク,ネラーGodfrey Kneller(1646-1723),レリPeter Lely(1618-80)など,やはり外来の肖像画家たちであった。しかし,18世紀以降のイギリスの国民画派の興隆は,彼らの存在を無視しては考えられない。

国内政情の安定,経済的繁栄,それに伴う市民社会の発展などを背景として,イギリス絵画は18世紀に入ると飛躍的な展開を見た。その中興の祖ともなったのがW.ホガースである。彼は当時のイギリス風俗を活写したが,そこには単なる風俗描写に終わらない風刺性とユーモアが見られ,これはイギリス美術の伝統のひとつとなった。

 16~17世紀に外来の画家たちによって培われた肖像画の伝統は,18世紀後半のJ.レーノルズ,T.ゲーンズバラを中心としてひとつの頂点に達した。大陸の荘重なバロック様式,華麗なロココ様式に通じる肖像画もあるが,家庭的な情景の中に何人かの人物の肖像を描き込んだいわゆる〈カンバセーション・ピース〉が,新しいタイプの肖像画として人気を博した。こうした国民画派興隆の機運に呼応して1768年にはローヤル・アカデミーが設立され,レーノルズが初代院長に就いた。これによりイギリスは芸術家養成の国家的機関をもつにいたった。しかし,権威主義的なアカデミズムにあきたりない画家も一方には現れた。その代表格がW.ブレークで,自作の詩やダンテ,ミルトン,シェークスピアなどの文学に想をえた作品は,後期ゴシックあるいはマニエリスムに通じる幻想性と神秘性,装飾性を見せている。ブレークの表現力豊かな線描表現は,イギリス美術の伝統を継承するものであるが,同時に世紀末のアール・ヌーボーの先駆としても注目される。ブレークと親しかったスイス人J.H.フュッスリも,幻想性豊かな前ロマン主義的作風を確立した。

18世紀の肖像画の伝統は19世紀に入って,リーバーンHenry Raeburn(1756-1823),T.ロレンスらに引き継がれたが,絵画におけるロマン主義はJ.M.W.ターナー,J.コンスタブルを中心とする風景画として開花した。18世紀末ごろから盛んに論議された〈ピクチュアレスク〉〈崇高the sublime〉といった美術概念や,詩人ワーズワースに代表される自然をうたったロマン主義文学の興隆も,こうした風景画の誕生とかかわっている。ターナー,コンスタブルのほかR.P.ボニントン,R.ウィルソン,〈ノリッジ画派〉のJ.S.コットマンらを加えた当時の風景画は,イギリス絵画史のひとつの頂点を形成し,ドラクロアをはじめ大陸の画家たちにもかなりの影響を及ぼした。

 ビクトリア女王の即位(1837)に始まる大英帝国の黄金時代は,絵画史的にはかつてない盛況を現出したが,独創性,革新性には乏しかった。なかでは,アカデミックな歴史画(F. レートン,E. ポインター,L. アルマ・タデマ)や感傷的で物語的性格の強い風俗画(W.P. フリス,D. ウィルキー),童話的で空想性に富むファンシー・ピクチャー(R. ダッド,N. ペートン),18世紀のG.スタッブズの系譜を継ぐ動物画(E.H. ランドシーア)などが挙げられる。19世紀後半のイギリス絵画で最も注目されるのは,1848年に結成されたラファエル前派(ハント,ミレー,ロセッティ,マドックス・ブラウン,バーン・ジョーンズら)である。彼らは当時のこうした絵画の状況にあきたりず,ラファエロ以前のプリミティブな絵画を志向し,様式的には同時代のフランス印象派とは対照的な,克明な細部描写を見せ,主題も社会的・文学的性格の強いものが多い。ラファエル前派のロマン主義的自然主義に対し,フランス印象派により近い様式を代表するのが,J.A.M.ホイッスラーとJ.S.サージェントの2人のアメリカ人,それにスティーアPhilip Wilson Steer(1860-1942)らである。なお,ラファエル前派に先立って活躍したJ.マーティンは壮大な文学的テーマを想像力を駆使しながら描いた特異な画家であり,世紀末のA.ビアズリーはもっぱらデッサン家,イラストレーターとして活躍した。後者はイギリスのアール・ヌーボーの代表者の一人で,その病的なまでに繊細で装飾的な線描は,デカダンスと唯美主義的な傾向をよく反映している。

20世紀初頭の大陸のモダニズムはイギリス絵画に新たな脱皮をうながした。未来主義に触発されてW.ルイスが1914年に始めた〈ボーティシズム(渦巻主義)〉はその最初のものといえるが,短命に終わった。むしろ総体としては第1次大戦前後のイギリス絵画は,フランスの印象派,後期印象派を追随する形をとっている。こうした傾向を代表するのがシッカートWalter Richard Sickert(1860-1942)を中心にピサロLucien Pissarro(1863-1944。カミーユ・ピサロの息子),ジョンAugustus John(1878-1961)らをメンバーに加えて1911年に結成された〈キャムデン・タウンCamden Townグループ〉である。これは元来は,スティーアを発起人にホイッスラー,サージェント,シッカートなどが参加して1886年に結成された〈ニュー・イングリッシュ・アート・クラブ〉を継承したものである。〈キャムデン・タウン・グループ〉は1913年に〈ロンドン・グループ〉として発展的解消を見たが,特定の主義主張を掲げず,展覧会活動に重点をおき,20世紀イギリス絵画の発展に特異な役割を果たした。33年,批評家H.リードを世話役として結成された〈ユニット・ワンUnit One〉も特定の流派というより自由な創造を促し,作品発表の場を提供しようというもので(メンバーの中には彫刻家もいた),概して当時の大陸の状況を反映して構成主義的あるいはシュルレアリスム的傾向が強い。なかでもベン・ニコルソンはモンドリアンとキュビスムの影響下に独自の抽象様式を創造した。パスモアVictor Pasmore(1908- )とスコットWilliam Scott(1913-89)は第2次大戦後,それまでの具象を捨てて抽象に向かい,ニコルソン,ボンバーグDavid Bomberg(1890-1957)と共に戦後のイギリスの抽象絵画を代表した。

 一方G.サザランド,フロイドLucian Michael Freud(1922-2011。S.フロイトの孫),パイパーJohn Piper(1903-92),ジョーンズDavid Jones(1895-74)らはシュルレアリスムその他のモダニズムの影響を受けながら,戦後の具象絵画に新たな展開をもたらした。特にF.ベーコンは現代の不安や恐怖,悲劇を独特のデフォルメと色彩によって表現し,現代イギリスの最も注目すべき画家の一人となった。戦後のイギリスはまたアメリカに先んじて1955年ころからポップ・アートを生み出した。その代表的作家にはハミルトンRichard Hamilton(1922- ),ブレークPeter Blake(1932- ),パオロッツィEduardo Paolozzi(1924- ),ジョーンズAllen Jones(1937- ),ホックニーDavid Hockney(1937- )らがいる。

概して言えば,イギリス中世の彫刻は建築以上にフランスに追随する点が多い。大陸における中世のモニュメンタルな彫刻といえばロマネスク,ゴシックの教会堂を飾る人体彫刻が第一にあげられるが,イギリスにおけるこの種の人体彫刻は大陸に比べて遺例に乏しい。ただしこれには,16,17世紀の宗教改革およびピューリタン革命の時代に,聖像破壊主義的な新教徒により多くの宗教彫刻が破壊されたという背景もある。むしろ墓廟彫刻(ウェストミンスター・アベーのヘンリー3世のためのそれ,13世紀末)やイギリス特産のアラバスターによる小型彫刻に若干見るべきものがある。

 16~17世紀,すなわちルネサンス,バロック時代に入っても,宗教芸術全体に対する国家,教会の冷淡な態度がわざわいして,真にイギリスのと呼びうる彫刻家は育たず,肖像彫刻あるいは記念碑を手がけた当時の彫刻家の多くは,外来,特にネーデルラント出身者であった。そうした中にあってピアースEdward Pierce(1635ころ-95)とブッシュネルJohn Bushnell(?-1701)は,ベルニーニ風のバロック様式をとりこんだ胸像彫刻を実現している。18世紀のいわゆるグランド・ツアーは,貴族たちの古典主義様式への傾斜にいっそう拍車をかけ,その影響はこのころのイギリス彫刻にも表れている。一方,同時代の大陸のバロックないしロココ的なダイナミズムや装飾性を感じさせる作品も見られた。シーメーカーズPeter Scheemakers(1691-1781),ルイスブラックJohn Michael Rysbrack(1694-1770),ルビリヤックLouis-François Roubiliac(1705ころ-62)らがこの時代の代表的彫刻家であるが,前2者は元来フランドル人,後者はフランス人である。18世紀後半から19世紀前半にかけてはアントワープ出身のノルケンスJoseph Nollekens(1737-1823),チャントリーFrancis Chantrey(1781-1841),ウェストマコットRichard Westmacott(1775-1856),J.フラックスマンらが活躍し,その作風は当時の大陸の新古典主義に近い。

 ビクトリア朝(1837-1901)の彫刻は,絵画と同様,多様性には富むが独創性には乏しい。20世紀に入ってからも大陸のモダニズムはイギリス彫刻にすぐには反映せず,彫刻の革新も遅れがちであった。その中でわずかに注目されるのがフランスからやってきたゴーディエ・ブルゼスカHenri Gaudier-Brzeska(1891-1915)で,抽象的な作品により新境地を開いたが,24歳の若さで戦死した。1930年代になって,真の国際的名声と影響力をもったイギリス最初の彫刻家といえるH.ムーアとヘプワースBarbara Hepworth(1903-75)が制作を開始する。共にヨークシャー出身で,しなやかな曲線でかたどられたその形態は,いわゆる生体的(バイオモーフィック),有機体的なふくらみやボリュームを見せる。こうした形態感覚には,彼らの郷里の自然を特徴づけるなだらかな丘陵の曲線の影響も指摘されている。元来はユダヤ系ロシア人でアメリカからやってきたJ.エプスタインは,構成主義的な作品やプリミティブな様式によった人体彫刻のほか,肖像彫刻を多数残した。ムーアたちとは別の近代主義的傾向を追求した第2次大戦後の彫刻家に,E.パオロッツィ,バトラーReg Butler(1913-81),チャドウィックLynn Chadwick(1914- ),アーミテージKenneth Armitage(1916- )などがいる。

ケルト美術の工芸的な遺品には武具,装身具などがあり,素材としては金,ブロンズ,鉄などが用いられた。線条あるいは浮彫によるその文様デザイン(様式化された動植物文や抽象文)には地中海世界の美術の影響も指摘されるが,逆に大陸,とりわけ民族大移動時代のゲルマン人の美術に与えた影響も見のがせない。中世以降イギリスはフランドルと共に織物業の中心として栄えた。特に13~14世紀には絹に金糸の刺繡をほどこした豪華な織物が〈イギリス製品Opus Anglicanum〉としてヨーロッパ各国に輸出され,これで作った法衣を愛用したローマ教皇もいた。また〈バイユーのタピスリー〉と呼ばれる刺繡壁掛けは,バイユーの司教のため1066-77年ころカンタベリーで作られたといわれるもので,全長約20mに及ぶ。ノルマン征服のもようを絵巻物風に表し,歴史的資料としても重視される。16~17世紀のイギリスは,王室がフランドルの織匠を招くなど,タピスリー技術の輸入を奨励したが,工芸史的には特に際だった貢献はしていない。陶磁器では18世紀半ば,ウースターに磁器窯が設立され,同じ頃J.ウェッジウッドが新古典主義的な典雅なウェッジウッド焼を創始した。またJ.チッペンデールは家具デザイナーとして,アダム兄弟は室内装飾,家具などのデザイナーとして,当時の新古典主義様式,ロココ様式,その一環としてのシノアズリーなどを取り入れた。19世紀末のブレーク,ラファエル前派,ホイッスラーなどは大陸のアール・ヌーボー様式に大きな刺激を与えたが,イギリス本国ではJ.ラスキン,W.モリスの指導下にアーツ・アンド・クラフツ・ムーブメントがおこり,家具,織物,室内装飾,書物などの分野で,近代産業社会における新しい工芸様式の創造を目ざした。この運動は中世のギルド制度や中世的な職人社会そのものを範とするほど復古主義的な一面もあるが,オーストリアの〈ウィーン工房〉,ミュンヘンの〈ドイツ工作連盟〉,ひいてはバウハウスなど,20世紀初期の工芸,デザイン運動にも大きな刺激を与えた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イギリス美術」の意味・わかりやすい解説

イギリス美術
イギリスびじゅつ
English art

最も初期のイギリス美術はアイルランドを中心とするケルト美術で,1世紀古代ローマ人によるイギリス征服以前から存在した。金製品や銅製品にすぐれたものがあり,これらにみられる流麗な線のリズムは,のちのイギリス美術の基調の一つともなった。写本装飾の傑作とされる『リンディスファーン福音書』 (7世紀末) ,『ケルズの書』 (8~9世紀) の抽象的・幾何学的様式にもその伝統が現れている。ノルマン征服により,イギリスはフランス・ロマネスク,ゴシック様式と接触し,影響を受けた。ダラム大聖堂 (1093~1133頃) はその代表例である。また,ノルマン征服を主題とした長さ約 70mに及ぶ 11世紀後半の『バイユー・タペストリー』が重要。ルネサンス時代は,ヘンリー8世によるイギリス国教会の樹立とそれに伴うカトリック教からの背離もあって,美術は全体に低調で,ドイツ人 H.ホルバインが肖像画家として活躍したにとどまった。 16世紀後半には N.ヒリアードが繊細なミニアチュール肖像を多く残した。 17世紀前半にはフランドル人の A.ファン・ダイクがチャールズ1世の宮廷画家として活躍し,その肖像画様式はオランダ系の P.リーリー,ドイツ系の G.ネラーらに引継がれた。イギリス美術が国際的な重要性をもちはじめるのは 18世紀に入ってからで,W.ホガース,J.レイノルズ,T.ゲインズバラらの画家が出た。また 1768年にはロイヤル・アカデミーが創設され,国民画派の形成に一役買った。風景画は R.ウィルソンが出るに及んでその基礎がおかれた。新古典主義からロマン主義への過渡期の画家としては,W.ブレーク,スイス人 H.フュースリらが注目される。歴史画家としては J.バリー,アメリカ人 B.ウェスト,肖像画家としては T.ロレンス,H.レーバーン,風俗画家としては D.ウィルキーらが出た。ロマン主義絵画を代表するのは J.ターナーと J.コンスタブルで,互いに作風は異なるがヨーロッパ風景画史上の巨匠となった。 1848年に H.ハント,J.ミレーらの若い画家によって結成されたラファエル前派は,克明な写実と文学性,象徴性の強い内容を特色とし,美術批評家の J.ラスキンの支持を得た。また,アーツ・アンド・クラフツ運動の中心となった W.モリスは,近代デザインの創始者といえる。スコットランドでは,C.マッキントッシュがアール・ヌーボーに近い独自の建築作品を作り,20世紀初頭の建築に影響を与えた。世紀末の「芸術のための芸術」ないしは,唯美主義的傾向を代表するのは 26歳で死んだ A.ビアズリーとアメリカ人 J.ホイッスラーで,特に前者のアール・ヌーボー風のユニークな線描芸術は異彩を放っている。 19世紀印象主義的様式の代表画家 W.シッカート,P.スティーアらを中心とする反アカデミーのグループは,20世紀イギリスにおけるモダニズムの生成に刺激を与えた。なかでも,W.ルイスによる抽象的ボーティシズム,彫刻家の H.ムーア,B.ヘップワース,画家の P.ナッシュ,B.ニコルソンらを含むユニット・ワンがその例。そのほか画家では,G.サザーランド,F.ベーコン,V.パスモア,S.スペンサー,彫刻家では J.エプスタインらがあげられる。

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