イワン3世(英語表記)Ivan Ⅲ Vasil'evich

改訂新版 世界大百科事典 「イワン3世」の意味・わかりやすい解説

イワン[3世]
Ivan Ⅲ Vasil'evich
生没年:1440-1505

モスクワ大公。在位1462-1505年。ワシーリー2世(1415-62)の長子。分裂していたロシアを統一し,ロシアをモンゴルタタール人の支配から最終的に解放するなどして,ロシアをヨーロッパ列強の一つにした。まず対内的にはヤロスラフ公国(1463),ロストフ公国(1474),ノブゴロド共和国(1478),トベーリ公国(1485),リャザン公国の一部等を併呑し,モスクワを中心とするロシア中央集権国家の形成を実現した。対外的には,1480年ウグラ河畔に兵を進め,タタール軍の侵入を阻止することによって,240年余続いた〈タタールのくびき〉に終止符をうった。さらに隣国リトアニア大公国と戦い(1487-94,1500-03),チェルニゴフ,ノブゴロド・セベルスキー,ゴメリブリャンスク等の西ロシア地方を奪いとったほか,リボニア騎士団とも戦い(1501-03),騎士団に貢納を義務づけた。またカザン・ハーン国とも戦い,モスクワ国家の影響下においた。内政面でも中央官庁の近代化を図り,《法典(スジェーブニク)》を編纂する(1497)など,行政機関,法制の整備を行った。かくしてロシアの国際的地位も高まり,ローマ教皇庁,神聖ローマ帝国ハンガリーモルドバトルコイラン,クリム・ハーン国などとの間に外交関係が樹立された。ビザンティン帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世パライオロゴスの姪ゾエ(ソフィア)との婚姻も,モスクワ大公権,ひいてはロシア国家の国際的地位向上の表れである。彼はまた初めて,意識的に〈ツァーリ〉と自称したロシア君主としても知られている。
モスクワ・ロシア
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のイワン3世の言及

【モスクワ】より

…当初は眇(びよう)たる小国であったが,モスクワ川を擁して交易路の要衝にあったことと,ダニイルの後を継いだ歴代の支配者の手腕によって,モスクワはしだいに領土を広げ,権威を高めていく。 ダニイルの子のイワン・カリタはキプチャク・ハーン国の宮廷にとり入ってその援助を受けて近隣のロシア諸公国の土地を手中に収める一方で,ウラジーミルから府主教を迎えたり,クレムリン内にウスペンスキー聖堂を建立したりして,モスクワを全ロシアの宗教上の中心たらしめようと努めた。14世紀後半のドミトリー・ドンスコイ大公の治世にはクレムリンの周囲に木の柵の代りに石の城壁が築かれ,城外に出城の役割を兼ねてアンドロニコフ,シーモノフなどの修道院がつくられた。…

【モスクワ・ロシア】より

…国号はモスクワ大公国ウラジーミル大公国内でのモスクワ公国の発展をうけて,モスクワ大公イワン3世は〈北東ロシア〉(ウラジーミル大公国とノブゴロド)の政治的統一に向かい,〈タタールのくびき〉にも終止符を打った。また,イワン3世は〈ルスカヤ・プラウダ〉後,最初の全国的な〈裁判法規集(スジェブニク)〉を1497年に編纂した。…

【ローマ理念】より

…しかし第二のローマも1453年滅亡する。この後1472年最後のビザンティン皇帝の姪を娶ったモスクワ大公イワン3世は,外国に対してツァーリ(カエサル)の称号を用い始め,その子ワシーリー3世の時代には〈二つのローマは滅んだが,今や第三のローマがある。第四のローマはありえない〉とされた(第三ローマ論)。…

※「イワン3世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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