ウィルヘルム(読み)うぃるへるむ(英語表記)Wilhelm Ⅰ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウィルヘルム」の意味・わかりやすい解説

ウィルヘルム(2世)
うぃるへるむ
Wilhelm Ⅱ
(1859―1941)

ドイツ皇帝兼プロイセン王(在位1888~1918)。フリードリヒ3世の長子。通称カイザー。父王がわずか99日の治世で没したのち、29歳で即位。明敏な頭脳、巧みな話術など素質に恵まれていたが、性格が不安定なうえ、保守的思想の持ち主であった。即位後まもなく宰相ビスマルクと社会民主党対策、対ロシア外交などをめぐって対立、1890年3月彼を罷免した。親政の開始とともに、社会主義者鎮圧法を撤廃、社会政策の拡充を図るなど社会改良政策を進めた(「新航路」の時代)が、それにもかかわらず社会民主党の進出が止まらないのを憤り、94年ふたたび弾圧政策に戻った。一方、彼は「ドイツの未来は海上にあり」として、積極的な対外膨張政策、いわゆる「世界政策」を展開した。97年中国でドイツ人宣教師が殺されると膠州(こうしゅう)湾を占領、山東省をドイツの勢力圏に組み入れ、またバルカンや西アジアへの進出に熱中して、自らトルコを訪れ、バグダード鉄道の敷設権獲得に力を貸した。また、世界政策の道具として大艦隊の建造に着手、国民の間に海軍や植民地に対する熱狂を呼び覚ました。しかし、対外膨張は他の列強との間に摩擦を増大させ、1904年以降イギリスはフランスに接近し、これに07年ロシアも参加して三国協商が成立した。深まる孤立から脱出するため、ドイツは05年と11年の二度にわたってモロッコ事件を引き起こしたが、英仏の結束は逆に固まった。彼は独裁者を気どって芝居がかった行動をとることが多かったが、その軽率な判断がしばしば逆効果を生んだ。08年、英紙記者に、英独関係改善を願ってした彼の発言が、かえって両国の関係を悪化させた「デーリー・テレグラフ事件」もその一例である。以来彼は自信を失い、政治の実権は彼の手を離れ、第一次世界大戦中に軍部の独裁が成立した。18年11月、敗戦に続き革命が起こると、彼は退位してオランダ亡命、以後余生をそこで送り41年6月4日没した。

[木谷 勤]


ウィルヘルム(1世)
うぃるへるむ
Wilhelm Ⅰ
(1797―1888)

プロイセン王(在位1861~88)、ドイツ皇帝(在位1871~88)。プロイセン王フリードリヒ・ウィルヘルム3世の次子。保守的で、軍人気質の持ち主。1848年の三月革命で革命の鎮圧に活躍、そのため一時ロンドンに亡命せざるをえなかった。58年病気の兄王フリードリヒ・ウィルヘルム4世の摂政(せっしょう)となり、61年即位。プロイセン陸軍の大増強を目ざし軍制改革案を議会に上程、反対する議会との間に憲法闘争を引き起こした。このため王は窮地に陥ったが、62年ビスマルクを首相に登用、議会を抑えて軍備増強を強行した。71年普仏戦争(プロイセン・フランス戦争)に勝って、プロイセンを中心にドイツ帝国が成立、1月18日ベルサイユ宮殿での戴冠(たいかん)式でウィルヘルムはドイツ皇帝になった。以後、91歳で没するまでビスマルクにすべてを任せ、78年にアナキストに狙撃(そげき)される事件などがあったが、政治の表面にはほとんどたたなかった。

[木谷 勤]


ウイルヘルム(1世)
ういるへるむ

ウィルヘルム(1世)


ウイルヘルム(2世)
ういるへるむ

ウィルヘルム(2世)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウィルヘルム」の意味・わかりやすい解説

ウィルヘルム
Wilhelm zu Wied

[生]1876.3.26. ノイウィート
[没]1945.4.18. プレデアル
アルバニア大公 (在位 1914) 。ドイツの出身。 1913年ロンドン大使会談においてオーストリア=ハンガリー帝国の提案でアルバニア大公に指名された。 14年3月7日ドゥルラスに到着,トルハン・パシャを首班とする政府を組織。しかし国内では封建領主が外国勢力の支持のもとに割拠し,政府の支配はドゥルラスとその近郊に限定された。農民反乱の拡大,エサド・パシャによるウィルヘルム反対運動などが起り,9月4日国外に逃亡。

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