世界大百科事典(旧版)内のウクライナ中央ラーダの言及
【ウクライナ】より
…第1次世界大戦で一時ロシア軍に占領された東ガリツィアでは,徹底したウクライナ人弾圧,ロシア化政策がとられた。
[内戦と社会主義政権の確立]
1917年二月革命の後,キエフにフルシェフスキー,V.K.ビンニチェンコ(1880‐1951),S.V.ペトリューラ(1879‐1926)らを指導者として成立したウクライナ中央ラーダ政府(〈ラーダ〉の項参照)は帝政時代のロシア化政策を一掃して,ウクライナ化政策を各分野で実行しようとした。とくに軍隊のウクライナ化をめぐってロシアの臨時政府と厳しく対立した。…
【ロシア革命】より
…郡と村の間の行政単位)のレベルに委員会をつくった。被圧迫民族は,たとえばウクライナでは,3月4日に民族統一戦線としてのウクライナ中央ラーダ(ラーダ)を成立させている。このあとから加わった〈農民革命〉と〈民族革命〉の展開が〈労兵革命〉と〈ブルジョアジーの革命〉の関係に影響してくるのである。…
※「ウクライナ中央ラーダ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」