エアトン(読み)えあとん(英語表記)William Edward Ayrton

精選版 日本国語大辞典 「エアトン」の意味・読み・例文・類語

エアトン

(William Edward Ayrton ウィリアム=エドワード━) イギリス電気工学者。明治六年(一八七三)日本政府に招かれ来日。以後五年間、工学寮工部大学校物理学と電信学を講ずるかたわら、電信事業の企画施設指導を行なった。同八年、日本最初のアーク灯点灯。(一八四七‐一九〇八

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デジタル大辞泉 「エアトン」の意味・読み・例文・類語

エアトン(William Edward Ayrton)

[1847~1908]英国の電気工学者。1873年(明治6)日本政府の招きで来日し、電気工学の基礎を築くのに寄与。日本最初のアーク灯の点灯に成功。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「エアトン」の意味・わかりやすい解説

エアトン
えあとん
William Edward Ayrton
(1847―1908)

イギリスの電気工学者。ロンドン名家に生まれ、ロンドン・カレッジを卒業後、グラスゴー大学ケルビン師事。1867年インド政府の通信局に勤務ののち、1873年(明治6)日本政府の招請を受けて工部大学校(現在の東京大学工学部)教授となり、1878年6月までの5年間、物理学、電気工学を教え、日本の電気工学の誕生に寄与した。帰国後、電気工学の技術教育にあたり、1884年サウス・ケンジントン大学の電気工学教授となった。また物理学会会長や電気工学会会長なども務めた。日本滞在中の1878年3月25日、グローブ電池50個を使用してアーク灯を点灯。これが日本最初の点灯で、3月25日は「電気記念日」とされている。また、志田林三郎中野初子(なかのはつね)、浅野応輔(あさのおうすけ)、藤岡市助らを育てたほか、イギリスへの留学生送り出しにも多く貢献した。

高橋智子 2018年8月21日]

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改訂新版 世界大百科事典 「エアトン」の意味・わかりやすい解説

エアトン
William Edward Ayrton
生没年:1847-1908

イギリスの物理学者,電気工学者。御雇外国人教師として日本の工学寮電信科(現,東京大学工学部電気工学科)の初代教授を務めた。弁護士の子としてロンドンに生まれ,ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジで学び,さらにグラスゴーでW.トムソン(ロード・ケルビン)に教えを受けた。インド電信社に勤めたのち,1873年から79年まで在日して工部省工学寮で物理学と電信学を講じた。妻マティルダはイギリスでも草分けの女医の一人で,夫とともに来日し,日本で助産婦養成のための学校を開いて教育している。エアトンの研究への精励ぶりは教え子に強い印象を与えた。工学寮電信科は公開の学校における電気工学関係の学科として世界最初であり,エアトンは世界最初の電気工学教授であった。彼は帰国後79年にロンドン市同業組合学校The City and Guilds of London Instituteの教授となったので,イギリスで最初の電気工学教授でもあった。在日中から帰国後を通じて,彼は同僚のペリーJohn Perry(1850-1920)と共同で電気計測器などの多くの発明をした。エアトンは92年にイギリス電気学会The Institution of Electrical Engineersの会長に選ばれた。在日中の1878年に,中央電信局竣工に際しての祝宴において,エアトンは電信科学生藤岡市助,中野初子,浅野応輔らを指揮してアーク灯照明をつけた。日本における3月25日の電気記念日はこの事績を記念したものである。妻マティルダが83年死亡し,教え子のヘルタ・マークスHertha Marks(1854-1923)と再婚した。ヘルタ夫人はアーク放電の研究者として著名であり,女性として初めて電気関係学会会員となった(1899年にイギリス電気学会に入会を許された)。
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朝日日本歴史人物事典 「エアトン」の解説

エアトン

没年:1908.11.8(1908.11.8)
生年:1847.9.14
明治期に来日したお雇い外国人。イギリス人物理学者,電気工学者。ロンドン生まれ。ユニバーシティ・カレッジを卒業後,グラスゴー大学のトムソン教授(ケルビン卿)のもとで研究に従事。ボンベイで4年間電信架設に携わり,さらにスコットランドのグレート・ウェスタン電信会社に勤務していたとき,トムソンのすすめで,工部省のお雇い教師となった。 明治6(1873)年6月に来日し,工学寮で物理学と電信学を講義し,11年まで在職。研究熱心で有名であり,日本を去る日,出発直前まで学生の実験を指導し,虎の門の工部大学校(東大)から新橋に駆けつけたが汽車が出たあとであったため,直ちに引き返して実験を続け,香港に着くまでにその結果を整理してスエズからロンドンの学会にあててその成果を送ったというエピソードが伝えられている。滞日中,同僚のペリーと協力して50点以上の論文をロンドンの学会誌に発表した。3月25日の電気記念日は,11年のその日,中央電信局の開業式を祝うに当たりエアトンがアーク灯を点じたことにちなんでいる。妻で女医のマチルダも滞日中《Child Life in Japan and Japanese Children Stories》(1879)を著した日本研究者として知られている。 12年に帰国後は,ロンドンのフィンズベリー技術カレッジやセントラル・インスティテューションで実験室教育を創始し,工部大学校で考案したモデルを生かした。これらの学校は,今日のインペリアル科学技術カレッジの母体となった。物理学会長,電気技術者協会長など多くの要職にもついた。主著は《Practical Electricity》(1887)。<参考文献>Perry,J. 《William Edward Ayrton》,三好信浩「教育交渉史におけるブーメラン現象」(『教育科学』19号)

(三好信浩)

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百科事典マイペディア 「エアトン」の意味・わかりやすい解説

エアトン

英国の電気工学者。1873年−1878年来日し工部省工学寮(工部大学校)の初代教授。物理学,電信を教え,日本電気工学界の発展に寄与。1878年,中央電信局開局祝宴の際,日本最初のアーク灯を点じた。日本で3月25日を電気記念日とするのはこの事績にちなむ。帰英後サウスケンジントン大学教授。英国電気学会会長。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「エアトン」の解説

エアトン Ayrton, William Edward

1847-1908 イギリスの電気工学者。
1847年9月14日生まれ。明治6年(1873)来日,工学寮(東大工学部の前身)で電信学と物理学をおしえる。11年3月25日日本最初のアーク灯を点灯。その日がのちに電気記念日となった。12年帰国。1908年11月8日死去。61歳。ロンドン出身。ユニバーシティー-カレッジ卒。

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世界大百科事典(旧版)内のエアトンの言及

【アーク灯】より

…電気利用の最初の光源として,1808年イギリスのH.デービーによって炭素アーク灯が発明されて以来,76年ロシアのP.N.ヤブロチコフが実用化してパリの街路を照明した。日本では79年虎ノ門の工部大学校講堂における中央電信局開業式の祝宴で,イギリス人W.E.エアトンの指導のもと,藤岡市助,中野初子,浅野応輔の学生たちが,グローブ電池50個によってフランス製デュボスク式アーク灯の初点灯に成功,この日3月25日を記念して,1928年以後,電気記念日が制定された。なお,一般に出現したのは,1882年11月1日,銀座の大倉組前に2000燭(しよく)のフランスのブラッシ式炭素アーク灯が点灯されたのが最初である。…

【電気工学】より

…また同じころ,学校における電気の専門教育が始まった。日本では明治6年(1873)イギリスからW.E.エアトンが工部省の工学寮に設けられた工学校の教授に着任し電信科が開校した。明治10年工学寮は工部大学校に改められ,明治17年電信科は電気工学科と改称した。…

※「エアトン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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