エストニア(読み)えすとにあ(英語表記)Republic of Estonia 英語

精選版 日本国語大辞典 「エストニア」の意味・読み・例文・類語

エストニア

(Estonia) ラトビアとロシアに接し、バルト海、フィンランド湾に面する共和国。スウェーデン領、ロシア領をへて一九一八年独立。一九四〇年ソ連邦に併合されたが、一九九一年に独立を回復した。首都タリン。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「エストニア」の意味・わかりやすい解説

エストニア
えすとにあ
Republic of Estonia 英語
Eesti Vabariigi エストニア語

ヨーロッパ北東部に位置する共和国。1918年の独立の後、1940年ソビエト連邦に併合され、連邦を構成する社会主義共和国の一つになったが、1991年独立を回復しエストニア共和国となった。同年9月国連に加盟。ラトビア、リトアニアと並ぶいわゆるバルト三国の一つである。

 国土の北と西はバルト海に面し(海岸線3794キロメートル)、東はロシア連邦(国境線294キロメートル)、南はラトビア共和国(国境線339キロメートル)に接する。面積4万5227平方キロメートル、総人口は137万0052(2000センサス)、129万4455(2011センサス)。首都はタリン。ほかに主要都市としては、タルトゥ、ナルバ、コフトラ・ヤルベ、パルヌなどがある。多民族国家で民族別の人口構成は、エストニア人68.5%、ロシア人25.7%、ウクライナ人2.1%、ベラルーシ人1.2%、フィンランド人0.8%、その他1.7%(2005)。

 公用語はエストニア語で、ウラル語族のフィン・ウゴル語派バルト・フィン諸語に属する。ソ連邦時代、ロシア語が第一公用語とされ、ロシアからの移住も促進されたため、ロシア語を日常語とする住民も多い。宗教は、ルター派が15万2000人、エストニア正教会が14万4000人で多く、そのほか、バプティスト、カトリックなどがいる(2000)。

[今村 労]

自然

東ヨーロッパ平原の北西部に位置する国土は、東部および南東部にかけてやや標高が高くなるが、総じて平坦で最高点のムナマギ山が318メートル、平均標高は約50メートルである。全長10キロメートルを超える河川は約420を数え、主要なものとして、ロシア連邦との国境をなしフィンランド湾に注ぐナルバ川、ペイプス湖(ロシア語名チュド湖)に注ぐエマヨギ川、リガ湾に注ぐパルヌ川などがある。ロシア連邦との国境をなすペイプス湖をはじめ、人造湖を含めて1400を超す湖沼があり、総面積約9000平方キロメートルとなる約1万2000の泥沼地や湿地帯を有する。植生は比較的豊かで、植林地を含め国土の約40%以上を森林が占め、原生林は針葉樹が多い。気候はやや寒冷ながらも穏やかで、年平均気温は最西部で6.0℃、最東部で4.2℃~4.5℃、月別平均気温は最低が2月の零下6℃、最高が7月の17℃である。年間降水量は約700ミリメートル、南東部では12月から、そのほかの地域でも1月から3月まで積雪がある。

[今村 労]

歴史

バルト・フィン系のエストニア人は紀元前500年ごろにはバルト海沿岸北方に住んでおり、10世紀にはいくつかの部族集団を形成していた。12世紀末からバルト海東南岸地域へ植民を始めたドイツ人帯剣騎士団にとってかわったリボニア騎士団が、現在のエストニア南部およびラトビア北部を領地としていった。エストニア北部は1219年にデーン人によって征服され、1346年にリボニア騎士団に売却された。現首都の名称タリンTallinn(デーン人の町Taani linnという意)にその痕跡(こんせき)を残している。こうして支配層がドイツ人、被支配層がエストニア人という構成ができあがった。その後、タリンはハンザ都市として発展した。教会権力を背景とするドイツ人による封建的支配は、16世紀中葉の宗教改革によって意味を失った。リボニア騎士団の弱体化とそれに伴うスウェーデンとロシアの覇権争いで1561年にリボニア騎士団領は解体、タリンとエストニア北部は1561年以降にスウェーデン領となり、1629年にはリガを含むリボニア北西部もスウェーデン支配下となった。スウェーデン領となった現エストニアの大部分では、これまでのドイツ人地主貴族による封建的支配が続いた。この時代は1632年にタルトゥ大学が創設されるなど、後に「古き良きスウェーデン時代」とよばれるが、実際には農民の負担は増大した。

 バルト海を目ざすロシアの西漸は、1700年に始まった大北方戦争でふたたび示され、1721年のニスタット条約で、同地域はスウェーデンからロシアの支配に移った。この時代はまだ都市の人口は少なく、農民は家庭で教育を行っていたが識字率は高かった。敬虔(けいけん)主義者のモラビア兄弟会の運動が1730年ころまでに伝わっている。また、啓蒙(けいもう)思想がバルト・ドイツ人地主に影響を及ぼした。さらにロマン主義の影響でエストニア人も民謡や叙事詩を集めるようになった。1710年に閉鎖されていたタルトゥ大学が1802年に再開されたが、そこではドイツ語が用いられた。

 18世紀末までに、バルト海南東岸地域はすべてロシア帝国支配下になるが、バルト・ドイツ人が支配層であったエストニア北部、リボニア、クールランドは、その後、似たような発展を遂げる。農奴解放は、エストニア北部では1816年、リボニアでは1819年であった。バルト・ドイツ人は、ロシア帝国支配下でも地主貴族として社会的、経済的、政治的影響力をもっていたが、1840年ごろまでにはバルト・ドイツ人地主貴族とロシア政府の関係は悪化し、バルト・ドイツ人の自治は侵食されていった。さらにロシア語が導入され、正教への改宗が奨励された。

 19世紀後半は、厳しいロシア化政策の実施とエストニア人の民族覚醒(かくせい)で特徴づけられる。19世紀なかばにフィンランドの民族的叙事詩『カレバラ』(『カレワラ』)Kalevalaに倣ってクロイツワルトFriedrich R. Kreutzwald(1803―1882)がまとめた『カレビポエクKalevipoeg(カレフ王子の物語)はエストニア語、ドイツ語で出版された。民族覚醒は、エストニア語の新聞や詩、演劇などを生み、言語も整えられた。民族規模の歌謡祭が1869年に始まった。成人の識字率も1897年には96%であった。ロシア帝国内の鉄道網の整備によって、産業は発展し、都市ではエストニア人労働者が生まれた。

 1905年のロシア革命は、エストニアにも波及し、自治の要求や政党の組織化がみられた。第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)でドイツとロシアとの間の争いに巻き込まれたこの地域は、1917年ロシア革命によるロシア帝国の崩壊をきっかけに、1918年2月24日にエストニアの独立を宣言した。エストニアはソビエト・ロシアのボリシェビキ軍とバルト・ドイツ人に擁護されたドイツ軍との戦闘を余儀なくされたが、フィンランドからの義勇兵やイギリス艦隊の支援で独立を導いた。1920年2月2日に結んだソビエト・ロシアとの平和条約で、エストニアの独立は承認された。

 独立国家となったエストニアは、議会制民主主義の共和国となり、土地改革でバルト・ドイツ人地主貴族の広大な所有地は再分配され、これまでの社会構造は大きく変わった。しかし議会制民主主義とはいうものの政治状況は不安定で、1919年から1933年までの政府は、平均8か月という短命であった。1930年代の不景気は、政治状況をいっそう不安定にし、1934年3月には首相パッツKonstantin Pats(1874―1956)が独裁体制を敷いた。

 1930年代の緊迫した国際環境で中立政策をとろうとしたエストニアは、すでに1923年に防衛同盟を結んでいたラトビアに加えて、リトアニアを含む3国の相互援助条約を1934年にジュネーブで締結した(バルト協商)。しかしこの協力の試みは、ラトビア、リトアニアの関心がドイツの脅威にあるのに対して、エストニアの関心はソ連の脅威にあることから、あまり有効ではなかった。1939年8月23日に独ソ不可侵条約が結ばれ、その付属秘密議定書ではエストニアがソ連の影響圏におかれることとなっていた。9月28日にソ連との相互援助条約の締結を強いられ、エストニア軍を上回るソ連軍が駐留した。1940年6月16日にソ連は条約不履行で最後通牒(つうちょう)を突きつけた。7月21日に招集された新議会はソビエト社会主義政府の設立を可決し、翌22日にソ連への加盟を決定した。8月6日にソ連最高会議はエストニアの加盟を認め、エストニアはソ連邦の構成共和国となった。

 ソ連への「編入」によってソビエト化が進められ、エストニア国民から大量のシベリア追放者がでた。バルト・ドイツ人は1939年末にはすでに大半がエストニアを去っていた。1941年6月22日に独ソ戦が始まり、侵攻してきたナチス・ドイツ軍による占領は1944年まで続いた。反撃にでたソ連軍によってドイツ軍は撤退させられ、ソビエト政府による支配がふたたび始まり、多数の亡命者も出た。第二次世界大戦後、ソ連の一構成共和国となったエストニアの政府では、モスクワから送り込まれた共産党員が中央集権的なソビエト化をはかり、農業集団化を強制的に押し進めるためにエストニア人を大量にシベリアに追放した。「森の兄弟」とよばれるゲリラの抵抗運動は1950年代初めまで続いた。エストニアはソ連内で工業地域としての役割を担い、ロシア人労働者が流入、バルト海の環境汚染も生んだ。1960年代には厳しい中央集権的支配が進められ、1970年代末に、抵抗運動は地下活動や人権運動として活発化した。

[志摩園子]

独立までの歴史・政治

1985年、当時ソ連邦書記長として権勢を振るったゴルバチョフによってペレストロイカ(改革)の意志が示されると、エストニア北東部でも環境保護を求める燐(りん)鉱石採掘反対運動が展開した。このころの共和国の人口は、エストニア人が61.5%、ロシア人が30.3%で、北部のナルバを含むコフトラ・ヤルベ地区ではエストニア人がわずか23%であった。1988年夏の歌謡祭で、およそ30万人は、民族の歌を聞きながら将来を議論し、デモや集会で禁じられていた民族の歌をうたったため「シンギング・レボリューション(歌とともに闘う革命)」とよばれた。エストニア政府指導部には改革派がつき、エストニア語を公用語に定めた。同年春に哲学者サビサールEdgar Savisaar(1950―2022)の提案で生まれたペレストロイカを擁護する「人民戦線Rahva Rinne」(設立は10月2日)は、ラトビア、リトアニアと協力して、民主化を求める声を結集し運動を展開した。3国の民主化運動の動向は、西側諸国からペレストロイカの進行を判定する「リトマス試験紙」とされた。1990年2月の選挙でも「人民戦線」は圧勝し、新エストニア最高会議は3月には独立への移行を宣言した。ソ連との分離・独立交渉は難航したが、1991年8月のモスクワでのクーデター未遂で状況は変わり、8月20日独立を宣言、9月6日にソ連の国家評議会が承認した。1992年6月28日の国民投票で大統領制を定めた新憲法が採択された。バルト三国において、1991年12月のソ連解体後も、ソ連軍はロシア軍として駐留していたが、3国は、「人民戦線」運動のように、ロシア軍の撤退問題の交渉でも協力し、1994年8月31日ロシア軍の撤退は完了した。ロシアとの国境画定については1999年、約7年にわたる交渉を経て仮調印が行われた。その後2005年5月にモスクワで正式に署名されたが、8月にロシアは署名を撤回し、国境画定条約は未発効のままとなっている。独立回復以来、EU(ヨーロッパ連合)やNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)への加盟を望んできたが、ロシアの圧力もあって、1997年7月のマドリード・サミットでのNATOの東方拡大の第一次対象国には該当しなかった。しかし2004年、正式にNATOおよびEUに加盟した。3国のなかでは、フィンランドその他の北欧諸国との絆(きずな)がもっとも強いエストニアが目覚ましい経済発展をとげている。

 議会は一院制で議席数は101、任期は4年、直接選挙の比例代表制で決められる。大統領は議会によって選出され、任期は5年。政党としては改革党、中道党、祖国・レス・プブリカ同盟、社会民主党などがあり、独立回復後、連立政権の交代が続いている。

[志摩園子]

経済・産業

独立回復の1991年以後、通貨改革、民営化、外資導入などを柱に、市場経済への移行へ向けた経済改革が進められた。1992年にはIMF(国際通貨基金)に加盟、さらに通貨改革を行い、ドイツ・マルク(DM)に連動する独自通貨クローン(EKR)が導入され、1DM=8EKRの比率に固定された。EUにおける通貨ユーロ導入後は1ユーロ=15.64クローンに固定されていたが、2011年1月にユーロを導入した。国営企業の民営化は、1993年の民営化法に基づき、同年に設立された民営局主導で進められた。外資導入は、エストニア投資庁のもとで促進され、1994年には国民1人当りの外資受入額が中東欧諸国で最高を示した。おもな投資国はフィンランドとスウェーデンで全投資額の約60%を占め、ロシア、アメリカ、さらにイギリス、オーストリアなどのほかのヨーロッパ諸国がこれに続く。

 工業は、食品、繊維、木材加工、化学、機械、金属、エレクトロニクスなど多岐にわたり、ソ連邦時代から主要産業部門をなしていたが、独立回復後は建設業、運輸・通信業、サービス業などの伸長がみられる。農業は独立回復後、一時生産額が減少したが、国内需要はほぼ満たしている。独立回復以前は90%以上がソ連邦の諸共和国との間で行われていた貿易は、独立回復後、EU諸国、北欧諸国、バルト諸国、ウクライナなどとの間に自由貿易協定が結ばれるなど、ヨーロッパ諸国を中心に幅広く展開されている。主要貿易相手国は輸出入ともに、フィンランド、ロシア、スウェーデン、ドイツなどである。輸出品としては、繊維製品、機械、木材加工品、化学工業製品、食品などで、輸入品としては機械、鉱産物、繊維製品、化学工業製品、食品などがそれぞれ上位を占める。オイルシェール(油母頁岩(ゆぼけつがん))、泥炭、燐鉱石などの天然資源が産出され、とくにオイルシェールは火力発電のエネルギー源や化学工業の原料など、幅広く利用されている。

 外交面でもEU諸国、北欧諸国、バルト諸国との関係が緊密化し、1995年6月にEUと準加盟協定を結び、2004年5月には正式加盟している。2006年の日本への輸出額は68億円、日本からの輸入額は191億円であった。なお、2004年に大統領のリューテルArnold Rüütel(1928― )が来日、2007年に天皇・皇后がエストニアを訪問している。

[今村 労]

文学

昔からバルト海東岸地域は民間伝承の宝庫とよばれている。レキバルスregivärssという、伝統的な頭韻形式の民謡などは、その豊富な民話や伝説とともにエストニアでは「人々の書かれざる年代記」とみなされてきた。文学史はフォークロアから説き起こされるのが常であり、そこにはフルトJakob Hurt(1839―1907)やエイセンM.J.Eisen(1857―1934)らの民俗学者の名が頻繁にあらわれる。19世紀なかばに、同じウラル系民族のフィンランドの叙事詩『カレバラ』に刺激されて、クロイツワルトらの手で編まれた、叙事詩的な作品『カレビポエク』にしても、時代のロマン的民族主義の産物であると同時に、このような土壌に深く根ざしたものであったといってよい。今日、『カレビポエク』伝説をはじめとする『大きなテョル』Suur Tõll、『昔の怪物』Vana Paganの三大伝説資料集成が編まれ、膨大な『民謡大成』の事業が公に継続されてきたゆえんでもある。

 ところで、現在知られるもっとも古いエストニア語の資料は、16世紀初めにルーテル派が、低地ドイツ語と並んでウィッテンベルクで印刷した教理問答だが、以来、聖書などの宗教的出版物以外の、いわゆる文学的な記録では18世紀の大北方戦争の結果によってもたらされたカス・ハンスKäsu Hans(?―1715)の『破壊されたタルトゥの町の悲しみの歌』(1714年の写本)がある。だが、一般的にはクロイツワルトに協力した学者ファールマンF.R.Faehlmann(1798―1850)の出現こそがエストニア近代文学の夜明けとみられている。

 やがて、新聞や合唱祭を主催し、国民劇場や文学協会の創設に尽力するなど、啓蒙(けいもう)的な文化活動家であった父ヨハン・ヤンセンJohan Jansen(1719―1790)の後を受け継いで、不屈の祖国愛を歌い、国民演劇の母といわれて、いまなお人々に深く敬愛されているリュティア・コイトゥラLydia Koidula(1843―1886)が登場する。その詩集にちなんで「エマヨキ(母なる川)のナイチンゲール」ともいわれている。さらに、ゲルマンやスラブの圧迫や支配下で過ごした歳月の間に、過酷な運命を生き抜くために鍛えあげられた言語の象徴主義を駆使してエストニアのランボーとも称せられたユハン・リーブJuhan Liiv(1864―1913)、ジャーナリスト出身のエトゥワルト・ビルデEduard Vilde(1865―1933)(長編小説『寒い国に』など)らの各分野にわたる活躍がそれらに続いた。

 第一次世界大戦後に独立したエストニアにあっては、華々しく登場した西欧派の詩人、評論家のグスタフ・スイーツGustav Suits(1883―1956)をはじめ、『若きエストニア』Noor Eestiや、神話の不死鳥にちなんで名づけられた『シウル』Siuruらの文学グループに結集したビレム・リタラVillem Ridala(1885―1942)、ヘンリク・ビスナプーHenrik Visnapuu(1890―1951)、さらにはノーベル賞候補にもなった女流詩人マリエ・ウンテルMarie Under(1883―1980)(詩集『心から離れた石』など)、フィンランドとの文学の掛け橋となり、両国語で作品を書いたフィンランド出身の人気作家アイノ・カッラス(父と兄は有名な民俗学者のユリウス・クローンJulius Krohn(1835―1888)、カールレ・クローンKaarle Krohn(1863―1933)父子)らがいる。英訳で広く読まれているカッラスの作品『レイキの牧師』『テイゼンフッセンのバルバラ』はエストニアの作曲家トウビンE.Tubin(1905―1982)の手でオペラ化され、後者はヤーン・クロスJaan Kross(1920―2007)がそのテキスト化を手がけた。1940年以降のソ連時代にはさまざまな制約の下で、なかには亡命を余儀なくされるものも出てきた。が、以前からの彼らのよき理解者であったフリーデベルト・トゥクラスFriedebert Tuglas(1886―1971)は、引き続きペンクラブや作家同盟代表の重責を担いながら変わらぬ作家活動を行ってきた。

 また、大作『真実と正義』五部作や、己の「ファウスト」と名づけた『地獄農場の新しい昔の怪物』など、自らのペースで骨太の作品を世に送り続けた、アントン・タンムサーレAnton H. Tammsaare(1878―1945)、ドイツ人の侵攻と戦った歴史をテーマにした『ユメラ川のほとり』など歴史小説の分野でのマイト・メッツアヌルクMait Metsanurk(1879―1957)、ネオリアリズムの佳品で映画化もされた『春』など、さわやかな青春群像を描いたオスカル・ルッツOskar Luts(l887―1953)らの作品が生まれた。加えてフィンランド語で絵本になった『不思議な絵描き』など、エレン・ニートEllen Niit(1928―2016)の児童文学作品が注目を集めた。社会主義リアリズムを標榜(ひょうぼう)するこの時期、ロシア語で書かれて日本語訳も出された少年小説『緑の仮面』の作者ホルゲル・プックHolger Pukk(1920―1997)や、スターリン賞作家ユハン・スムールJuhan Smuul(1922―1971)などの名も知られている。

 かくして次の世代に人気を持続させつつ、内外での活発な創作活動を行い、杜甫(とほ)や李白(りはく)の訳詩集(この本の後半はラウトR. Raud(1961― )による古今集の抄訳)も出している行動的な詩人ヤーン・カプリンスキJaan Kaplinski(1941―2021)やルンモP. E. Rummo(1942― )ら、そして、かつて反体制作家の烙印(らくいん)を押されて流刑の憂き目をみながらも、着実に世界の注目を集めてきた現代作家ヤーン・クロス(『狂人と呼ばれた男』原題『皇帝の狂人』の邦訳が英語からの重訳で出ている)らの仕事ぶりもあって、体制のいかんにかかわらず、それぞれの時代をたくましく生き抜いてきたエストニア人の強靭(きょうじん)な文学精神が現代に息づいているのをみることができる。

 なお、日本との関係でいえば、早くに、エスペラント語から翻訳されたウンテルの詩や、雑誌論文などの中で、エストニアの文学作品が紹介された例は少なくないが、民話や昔話のほかに、まとまってエストニア語から翻訳されているものは少ない。一方、ラウトの日本古典詩歌の研究や翻訳のほか、タルトゥ大学で長らく教鞭(きょうべん)をとってきた日本語、中国語学者のヌルメクントPent Nurmekund(1906―1993)から指導を受けた人々が、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)、川端康成(かわばたやすなり)、三島由紀夫らの現代小説をエストニア語訳し、それらはすべて1970年代から出版されている。

[菊川 丞]


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改訂新版 世界大百科事典 「エストニア」の意味・わかりやすい解説

エストニア
Eesti
Estonia

基本情報
正式名称=エストニア共和国Eesti Vabariik/Republic of Estonia 
面積=4万5227km2 
人口(2010)=134万人 
首都=タリンTallinn(日本との時差=-7時間) 
主要言語=エストニア語(公用語),ロシア語 
通貨=クローンKroon(2011年1月よりユーロEuro)

バルト海北東岸にある共和国。旧ソ連邦のもとでのエストニア・ソビエト社会主義共和国Eesti Nõukogude Sotsialistik Vabariik(ロシア語ではEstonskaya SSR)が,1991年独立したもの。バルト3国の一つで,南はラトビア共和国,東はロシア連邦と境を接し,北はフィンランド湾,西はバルト海とリガ湾に臨む。行政区は15の地区に分かれ,人口の70%が都市に集中している。言語をはじめ,この国の文化は,スラブ系のそれとは異なる性格をもち,古来特徴のある伝統を築き上げてきた。

国土は平たんで丘陵がゆるやかに波打ち,南東部にある318mのスール・ムナマキが最も高い。沿岸には1520もの島が散在し,西方のサーレマーヒーウマーがとくに大きい。湖も1150を数えるが,ロシア連邦と国境を分けているペイプシ(チュド)湖が最大である。北岸は石灰台地の崖で,北部平野の土壌はうすく,岩石裸地もみられる。中部は低湿地が多く,南部はロームをかぶった丘がひろがる。月平均気温は1月のサーレマーで-2.3℃,北東端のナルバで-6.8℃,7月はそれぞれ16.3℃,17.4℃。雪は12月10日ごろから積もり始め,3月末に溶ける。年間降水量は平均550~650mm。森林は国土の37%を覆い,松,シラカバ,モミが多い。

エストニア人の自称はエーストラネEestlane。その祖先はフィン語系の人々で,前3千年紀にエストニアの地に現れたと考えられている。それらの人々はバルト系の諸族,スカンジナビア半島の諸族と混血し,紀元後にはさらに東スラブ系の諸要素も加えて今日のエストニア人になったと推定されており,ウラル系のバルト・フィン諸語の一つであるエストニア語を話す。全人口中エストニア人は61.5%で,ロシア人30.3%,ウクライナ人3.2%,ベラルーシ人1.8%,フィンランド人1.1%,その他2.1%という構成をなす(1989)。エストニアには六つの大学があり,古い伝統をもつタルトゥ大学をはじめ,タリンに美術,音楽,工業,教育の各大学等の高等教育機関がある。1990年の学生数2万4000,普通教育の生徒数約22万。新聞は1993年現在,日刊紙15を含む173紙(エストニア語129紙とロシア語紙など)発行されている。テレビ局は5局あり,エストニア語とロシア語で放送する。図書館は全国に約700,博物館は63に及ぶ。

第2次世界大戦後,農業と工業の比率は大きく変化した。1934年に農業67%,工業15.5%であったものが,76年には農業13.8%,工業74.3%となった。1993年の国内総生産のうち,鉱工業は26.3%,農業・漁業は11%を占めている。工業は魚と肉の加工,乳製品を主とした食品工業,織物,皮革製品の軽工業,木材工業などに特徴がある。工業は北部ことに北東部において発展をみた。コフトラ・ヤルベKokhtla-Yärveでは多量の油母ケツ岩が採掘され,これによる火力発電と石油精製がナルバで行われ,多種部門の工業が集中する。石油,ガス,電気はタリンにも送られる。第2の工業地帯はタリンで,機械製造,食品工場が多い。近郊には化学肥料工場,セルロース,建設資材製造の各工場がある。ソ連時代に農業集団化が進められ,1983年初めでコルホーズ150,ソホーズ154を数えた。大麦,エンバク,小麦などの穀類(57万t,1994年。以下同じ),ジャガイモ(70万t)を栽培。西部の農業は低湿地の排水と丘陵地の牧草循環種まきで発展し始めた。畜産は農業のなかで大きな位置を占め,中央部はビートを飼料とする集約畜産地帯で,南部はトウモロコシによる乳・肉牛地帯。全体で牛(46万頭),豚(42万頭),羊(8万頭)を飼養している。漁業もソ連時代には集団化されて,1983年には八つのコルホーズにまとめられ,ペルヌ港,サーレマー,ヒーウマー両島に漁業根拠地があり,冷凍,缶詰工場が設置された。

 旧ソ連時代の末期に,連邦各国のなかでエストニアの1人当り所得は最高位にランクされるほどであった。

前500年ころのバルト海沿岸には,北方にエストニア族,その南の北ラトビアにもバルト・フィン系のリボニア族が住んでいた。さらに南側の住民はバルト・スラブ系のラトビア族とリトアニア族で,民族移動期(400-800)にはスカンジナビア人やスラブ人とも接し,キリスト教がしだいに浸透してきた。10世紀には自治的部族集団が大小12形成された。

(1)ドイツ時代 この頃未開のバルト地方はドイツ商人と異教改宗を目ざすキリスト教の聖職者を引きつけていた。ラトビアのリガで司教のアルベルトは刀剣騎士団を結成し(1208),北方へ向かって本格的な伝道攻撃をしかけてきた。エストニアの部族集団は頑強に抵抗したが,デンマーク王バルデマール2世がアルベルトと結んで,1219年十字軍をエストニアの北岸に上陸させてタリンの市を築いたため,エストニア人は外敵に屈従することとなった。1346年デンマークはエストニアの領地をドイツ騎士修道会に売り渡した結果,上層階級がドイツ人,下層階級がエストニア人という社会構成ができあがった。やがて南方ではリトアニア王国が強大となり,ポーランドと組んでドイツ騎士修道会を打ち破ったので,エストニアの南半分はポーランド領となった。北方ではスウェーデンが隆盛期を迎え,エーリック14世がエストニアに兵を進め(1561),ポーランドと争ったため,戦場となったエストニアは荒廃した。

(2)スウェーデン時代 スウェーデンのグスタブ2世アドルフは大軍を率いてポーランドに攻め入り,1629年アルトマルクの講和によりエストニア全域とリボニアを手中に収めた。彼は外征ばかりでなく文芸の振興にも意を用い,32年タルトゥにドルパート大学を設立した。この大学はバルト地方での学術の源泉となり,エストニアは北欧文化に浸ることとなった。大学は後に北方戦争のため1710年閉鎖されたが1802年に再開され,現在のタルトゥ大学へと続いている。スウェーデンの支配下でドイツ貴族はかえって特権が強化され,エストニア農民は農奴化していった。

(3)ロシア時代 北方戦争でスウェーデンはロシア軍にポルタワで大敗し,1721年ニスタットの和約によりエストニアはロシア帝国に割譲された。とくに戦争中疫病が流行して人口が激減したため,農園主は農民を拘束し,その自由を奪ってしまった。しかし18世紀末バルト地方にも啓蒙思想が伝わり,農民法(1802)により農民にも自由が与えられたが,かえって小作化が促進された。エストニア北部では1816年に,リボニアでは1819年に農奴解放が,ロシア帝国内の他の地域に先がけて実施された。1858年には全国的農民一揆が発生し,1860年代に入り農民にも土地所有が認められるようになった。1860年代~80年代にエストニアの有識者はエストニアの人々に民族的覚醒を呼びかけた(後述の[文学]の項参照)。だが81年,ロシア皇帝アレクサンドル3世はロシア化を強行した。そこでドイツ貴族はある程度没落したが,エストニアの自立運動も閉塞させられた。

(4)独立時代 この重苦しい圧政がロシア革命により崩れ去るや,1918年エストニア人は議会を開き,2月24日独立を宣言した。ドイツ軍の援助によりソビエト勢力は一掃されたが,ドイツ軍が撤退すると赤衛軍が再度侵攻してきたので,エストニアは国軍を組織し,フィンランド義勇軍とイギリスの協力を得てこれを排除した。かくて20年ソビエト・ロシアとの間に和議(タルトゥ条約)が成立した。同年に憲法が制定され一院制の議会が召集されて連立内閣が出現した。24年に反乱謀議のため共産党は弾圧された。1919-34年の間,政府は平均8ヵ月という短命で,政治状況は不安定であった。34年にはパッツK.Pätsが初代大統領に就任し,反ソ親独政策に沿った独裁政治を行った。この間農地解放が実施され,国内の産業は目覚ましい発展をとげた。1934年にはラトビア,リトアニアとバルト協商を結んでいる。

(5)ソ連邦時代 ポーランド分割後,ソ連は40年6月16日エストニアに最後通牒を発し,その翌日軍隊を送りこんで政府の更迭を求めた。7月に共産党のみを公認とした総選挙が強行され,新議会は独立を捨ててソ連邦に加入する決議を行い,8月に連邦へ加盟した。一方では大量の非協力者が逮捕され,41年6月,1万人以上がシベリアへ強制移送された。41年エストニアはナチス・ドイツ軍に占領されたが,44年にはソ連軍により占領軍は掃討された。また,49年には農業集団化促進のために再び強制連行が行われている。やがてエストニアは工業地域としての役割を担い,ロシア人労働者が多数流入した。

(6)独立回復へ ロシア人の大量流入はエストニア人に危機感を生み,すでに1970年代末ころからこれに対抗する運動が起こっていたが,80年代後半以降のペレストロイカのなかで環境保護運動や伝統文化保存運動として発展し,88年10月にはエストニア人民戦線(E. サビサールらが主導)が結成された。バルト3国の連帯のなかで独立運動の方向に向かい,89年1月にはエストニア言語法の制定により民族語を公用語と規定して,90年3月には独立への移行宣言を発し,91年8月モスクワでの保守派クーデタ失敗を機に独立を宣言し,9月にはソ連邦からも承認され,国連にも加盟した。独立後もロシア語系住民の地位をめぐる紛争は続き,旧ソ連軍撤退を控えて94年7月に妥協が成立した。

エストニアに関する最初の記録はラトビア人ヘンリックによる《リボニア年代記》(1241)の中の人名と地名である。エストニア語による最古の文献は,バンラットの《教義問答》(1535)である。スウェーデン支配の下で布教活動が盛んとなり,南エストニア方言で賛美歌と新約聖書(1686),北エストニア方言で賛美歌が著された。ニスタットの和約でロシア領とされた後,ヘレンの手で北エストニア方言による聖書の完訳(1739)が出版され,これがエストニア文語の基礎となった。やがてフランス革命の余波を受け医師フェールマンF.R.Faehlmannはエストニア学術協会(1838)を組織し,エストニアの民族的覚醒を鼓吹した。彼の友人クロイツワルトは伝説的叙事詩《カレビポエク》を書きあげた。またヤンセンJ.V.Jannsenは最初のエストニア語新聞《パルヌの郵便屋》(1864)を発行し,ヤコプソンK.R.Jakobsonは急進的新聞《サッカラ》(1878-82)により民族の権利を主張した。ヤンセンを中心として1869年には最初のエストニア民族歌謡祭が開かれ,以後ほぼ5年ごとにこの行事が続けられて今日に至っている(近年のソ連からの独立に際して,1988年のタリン郊外での歌謡祭は大きな影響を及ぼした)。フルトJ.Hurtらによるフォークロア収集運動も民族文化の発展に寄与している。ヤンセンの娘コイトゥラは《野の花》(1866),《エマ川の小夜鳴き鳥》(1867)により祖国愛をうたいあげ,エストニア文学に真紅の花を咲かせた。次に詩人リーブJ.Liivは暗い世相を嘆き,ビルテE.Vilde(1865-1933)は自然主義的小説《寒い国》(1896)を発表した。新ロマン派のスイツG.Suits(1883-1956)が芸術至上主義をたたえ,女流詩人ウンテルは官能的な詩集《影からの声》(1927)を世に送った。散文ではトゥクラスF.Tuglas(1886-1971)が幻想的な《魂の放浪》(1925)を著し,エストニアの独立は文芸にも絶大な活力を与えた。国際的文豪タンムサーレは大河小説《真実と正義》5巻(1926-33)をまとめ,ルツO.LutsやメツァヌクM.Metsanukが活躍した。しかしエストニアが独立を奪われると文学の歩みも止まった。1940年国土がソ連に編入されると,すぐナチス・ドイツに占領された。44年再びソ連の手に戻る前に6万人のエストニア人が国外に亡命した。この中に著名な作家や詩人が含まれていて,彼らは主としてスウェーデンで創作活動を続けた。しかし57年ころからエストニア本土でも社会主義リアリズム文学が現れた。
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百科事典マイペディア 「エストニア」の意味・わかりやすい解説

エストニア

◎正式名称−エストニア共和国Eesti Vabariik/Republic of Estonia。◎面積−4万5227km2。◎人口−132万人(2014)。◎首都−タリンTallinn(39万人,2011)。◎住民−エストニア人68%,ロシア人26%,ウクライナ人2%,ベラルーシ人1%,フィンランド人1%。◎宗教−プロテスタント(ルター派),ロシア正教など。◎言語−エストニア語(公用語),ロシア語。◎通貨−ユーロEuro。◎元首−大統領,イルベスToomas Hendrik Ilves(2006年10月選出,2011年10月再任,任期5年)。◎首相−タービ・ロイバス(2014年3月就任,2015年4月再任)。◎憲法−1992年7月発効。◎国会−一院制(定員101,任期4年)(2011)。◎GDP−231億ドル(2008)。◎1人当りGNP−1万1410ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−12%(1997)。◎平均寿命−男71.4歳,女81.3歳(2011)。◎乳児死亡率−4‰(2010)。◎識字率−99.8%(2009)。    *    *ヨーロッパ北部の共和国。バルト三国の北端に位置し,フィンランド湾,バルト海,リガ湾に面する。国土の大部分は低い丘陵と平原で,湿地が多い。最高点は317m。ヒーウマ島,サーレマ島を含む。第2次大戦前には住民の9割がエストニア人であったが,1989年にはそれが6割に下がり,ロシア人が3割を占めた。農業が主で,牛,豚の畜産があり,ジャガイモが主産物。油母ケツ岩,泥炭の産があり,これを利用してガス,電気がつくられる。タリンを中心に機械・電気・繊維工業が行われるが,近年は北欧のシンガポールといわれる立地を活かしたIT産業,観光産業が発達している。 中石器時代以後の遺跡がある。13世紀初めにデンマーク領となり,14世紀半ばドイツ騎士修道会に売り渡された。1561年スウェーデンが征服したが,1721年スウェーデンは北方戦争に敗れ,エストニアはロシアに割譲された。ロシア革命後反革命軍が勝利し,エストニア民主共和国が成立,1934年親ドイツ政権が成立したが,1940年ソ連軍の圧力下でソ連内の共和国となった。1941年ナチス・ドイツに占領され,1944年再びソ連に併合された。ペレストロイカ期の1988年〈エストニア人民戦線〉が発足して幅広い支持を得た。〔独立後〕 1990年議会がソ連との交渉による独立を宣言,1991年8月モスクワでクーデタが起こると,即時完全独立を宣言,翌9月ソ連も独立を承認した。独立後,国民の約3割を占めるロシア系住民の法的地位などをめぐって対立が生まれた。1999年WTO(世界貿易機関)に加盟。2004年3月NATO(北大西洋条約機構)に,同年5月ヨーロッパ連合(EU)にそれぞれ加盟した。経済はバルト三国のなかでももっとも良好で,IT産業を中心に成長を維持し,政府による経済統制はほとんど存在しない。2010年にはOECD(経済協力開発機構)加盟国となり,2011年ユーロへの移行が完了した。
→関連項目リガ湾

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エストニア」の意味・わかりやすい解説

エストニア
Estonia

正式名称 エストニア共和国 Eesti Vabariik。
面積 4万5336km2
人口 133万2000(2021推計)。
首都 タリン

バルト海に面するバルト3国のうち最北に位置する国。大陸部のほかサーレマ島をはじめとする島嶼部からなる。地形は全体に低平で,氷河作用を著しく受け,チュド湖など多くの湖がある。高緯度のわりには気候は温暖で,平均気温は2月-6~-5℃,7月 16~17℃。年降水量は 600~700mm。住民の 60%以上はエストニア人であり,ロシア人は3分の1近くを占める。公用語はエストニア語。 11~12世紀からデンマーク人,スウェーデン人によりキリスト教の布教が試みられ,13世紀初頭デンマーク王バルデマール2世に征服されたが,1346年ドイツ騎士団に売却された。 1558~1629年に順次スウェーデンの支配下に入ったのち,1721年ニスタットの和約によりロシアに割譲された。 19世紀末より民族意識が高まり,1918年独立。 1940年ソビエト連邦に編入され,エストニア=ソビエト社会主義共和国となった。旧ソ連で生産・生活水準の最も高い共和国の一つであったが,1990年3月独立を宣言し,1991年9月独立を達成して現国名となり,国際連合に加盟した。 2004年にはヨーロッパ連合 EU,北大西洋条約機構 NATOに加盟。オイルシェール (油母頁岩) やリン灰石などの地下資源に恵まれる。主要産業はオイルシェールの採取,加工で,コフトラヤルベでガス化され,パイプラインでタリンやロシアのサンクトペテルブルグに送られる。ほかに電子,ラジオ,造船,化学,セメント,ガラス,製紙,食品,繊維などの工業が発達。農業は畜産中心であるが,ライ麦,ジャガイモ,アマ (亜麻) などの栽培も行なわれる。鉄道,道路の路線密度は高く,海港タリンや空路により内外の各地と結ばれている。 (→エストニア史 )

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知恵蔵 「エストニア」の解説

エストニア

2001年10月、アルノルド・リューテルが大統領に就任した。同大統領は北大西洋条約機構(NATO)と欧州連合(EU)への加盟について、「歴史上これほど強固な安全保障と経済発展の機会を手にしたことはない」と喜んだ。エストニアではフィンランドなど外国からの投資や合弁が順調に進み、00年以降7%前後の成長率で経済状態はバルト3国で最も良い。最近は情報技術が発達し、パソコンの普及率はドイツやフランスより高い。ロシアとの間では、国境問題もくすぶった。1920年のタルトゥ条約で画定した国境が、第2次大戦中のソ連への併合の際に変更されたとして、約2500平方キロのナルバ地方の返還を求めていたが、近年はNATO加盟のために領土問題では譲歩し、05年に国境条約に調印した。しかし05年5月のモスクワでの対独戦勝60周年式典に大統領は欠席し、ロシアは国境条約の批准を拒否している。01年9月の大統領選挙で親欧米派のトーマス・ヘンドリック・イルベス元外相が当選した。

(袴田茂樹 青山学院大学教授 / 2007年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「エストニア」の解説

エストニア
Estonia

旧ソ連西北端のバルト海に面した共和国。首都タリン。ラトビア・リトアニアとともにバルト3国と総称される
初めフィン族のエスト人が定住していたが,13世紀にドイツ騎士団領となる。16世紀半ばにはスウェーデン領となったが,北方戦争の結果,1721年ロシア領となった。1917年のロシア革命の際,独立して共和国となったが,第二次世界大戦中の40年,ソ連に編入された。ソ連でのペレストロイカ開始後,1989年ごろから分離独立運動が高まり,91年8月の保守派クーデタ失敗後,バルト3国の分離独立が承認され,エストニア共和国として独立。なお,バルト3国はその後成立した独立国家共同体には非加盟。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「エストニア」の解説

エストニア
Estonia

バルト三国中最北の共和国。1242年に支配者のデンマークとドイツ騎士団の連合軍がロシアのアレクサンドル・ネフスキー公に東進をはばまれ,1561年スウェーデン領,1721年北方戦争の敗北でロシアに割譲された。第一次世界大戦後に共和国として独立したが,1940年ソ連に併合された。90年独立を宣言,翌年独立を回復した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のエストニアの言及

【ソビエト文学】より

…詩人クパーラ,コーラスYakub Kolas(1882‐1956)がその代表的作家である。
[バルト3国の文学]
 北のエストニアは言語がウラル語族のフィン語派に属し,ラトビア,リトアニアはともにインド・ヨーロッパ語族のバルト語派に属するが,歴史的・文化的には,エストニア,ラトビアの両国に共通点が多い。この両国は北欧諸国,ドイツ騎士修道会に領有されドイツ的影響を強く受け,18世紀のピョートル1世時代にロシアに併合されたが,1816‐19年にいち早く農奴解放が行われ,ロマン主義時代には近代文学の基が築かれた。…

※「エストニア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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