オトマール ヒッツフェルト(英語表記)Ottmar Hitzfeld

現代外国人名録2016 の解説

オトマール ヒッツフェルト
Ottmar Hitzfeld

職業・肩書
サッカー指導者 元サッカー・スイス代表監督

国籍
ドイツ

生年月日
1949年1月12日

出生地
西ドイツ・バーデン・ビュルテンベルク州レラハ(ドイツ)

経歴
シュテッテンを経て、1971年スイスのバーゼル入団。’72年、’73年スイスリーグ優勝、’74年スイスカップ優勝、リーグ得点王。その後、ドイツ・ブンデスリーガのシュツットガルト、スイスのルガーノプレー。この間、’72年ミュンヘン五輪に出場した。’83年スイスリーグ2部のFCツークで監督としてスタート。1年目で同チームを1部に昇格させ、’84年スイスリーグ2位、スイスカップ優勝。’84〜88年アーラウを経て、’88年グラスホッパーに招聘され、’89年、’90年スイスカップ、’90年、’91年スイスリーグで優勝し、同国で最も人気のある監督となる。’91年ドイツのドルトムント監督に就任、’95年リーグ初優勝を果たし、’96年リーグ2連覇。’97年UEFA欧州チャンピオンズリーグ(欧州CL)で優勝。’98年バイエルン監督に就任、1年目でチームを優勝に導く。2001年リーグ3連覇、欧州CL優勝、トヨタカップ優勝を果たし、バイエルンの黄金期を築いた。2003年リーグ優勝。2004年シーズン終了後、退任。2007年2月バイエルン監督に復帰。2008年リーグ優勝などチームを国内2冠に導いた。同年のUEFA欧州選手権(EURO2008)終了後、スイス代表監督に就任。2010年のW杯南アフリカ大会ヨーロッパ予選ではグループリーグ首位通過したが、本大会では決勝トーナメント進出は果たせなかった。2014年W杯ブラジル大会は2勝1敗で決勝トーナメントに出場するも、1回戦でアルゼンチンに敗れた。大会後退任。スイスの世界ランクを6位まで引き上げた。数学体育の教員資格を持つ。

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最新 世界スポーツ人名事典 の解説

オトマール ヒッツフェルト
Ottmar Hitzfeld
サッカー

サッカー・スイス代表監督
生年月日:1949年1月12日
国籍:ドイツ
出生地:バーデン・ビュルテンベルク州レラハ
経歴:シュテッテンを経て、1971年スイスのバーゼルに入団。’72年、’73年スイスリーグ優勝、’74年スイスカップ優勝、リーグ得点王。その後、ドイツ・ブンデスリーガのシュツットガルト、スイスのルガーノでプレー。この間、’72年ミュンヘン五輪に出場した。’83年スイスリーグ2部のFCツークで監督としてスタート。1年目で同チームを1部に昇格させ、’84年スイスリーグ2位、スイスカップ優勝。’84〜88年アーラウを経て、’88年グラスホッパーに招聘され、’89年、’90年スイスカップ、’90年、’91年スイスリーグで優勝し、同国で最も人気のある監督となる。’91年ドイツのドルトムント監督に就任、’95年リーグ初優勝を果たし、’96年リーグ2連覇。’97年UEFA欧州チャンピオンズリーグ(欧州CL)で優勝。’98年バイエルン監督に就任、1年目でチームを優勝に導く。2001年リーグ3連覇、欧州CL優勝、トヨタ杯優勝を果たし、バイエルンの黄金期を築いた。2003年リーグ優勝。2004年シーズン終了後、退任。2007年2月バイエルン監督に復帰。2008年リーグ優勝などチームを国内2冠に導いた。同年のUEFA欧州選手権(EURO2008)終了後、スイス代表監督に就任。2010年のW杯南アフリカ大会ヨーロッパ予選ではグループリーグを首位通過したが、本大会では決勝トーナメント進出は果たせなかった。数学と体育の教員資格を持つ。

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