オースティン(英語表記)Jane Austen

デジタル大辞泉 「オースティン」の意味・読み・例文・類語

オースティン(Jane Austen)

[1775~1817]英国の女流小説家。地方中流階級の生活や人物を諧謔かいぎゃくをまじえて描いた。作「高慢と偏見」「エマ」など。

オースティン(Austin)

米国テキサス州の州都。同州中部にあり、コロラド川に面し、食品加工業などが盛ん。オースチン

オースティン(John Austin)

[1790~1859]英国の法律学者。実定法の体系的、論理的分析を課題とする分析法学を樹立した。著「法理学の職分規定」。

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改訂新版 世界大百科事典 「オースティン」の意味・わかりやすい解説

オースティン
Jane Austen
生没年:1775-1817

イギリスの女流小説家。地方地主社会の娘たちが似合いの相手と結婚するまでの話を日常生活の中で,機知とユーモア,正確な人間観察を織りまぜつつ淡々と描くその6編の作品は,小説の一つのあり方の模範として,今日でも最高の評価を得ている。イングランド南部ハンプシャーの村の牧師の娘として生まれ,才能豊かな多くの兄弟や姉とともに育った。12歳ごろからすでに家族を楽しませるための喜劇的な物語やパロディを書き,ノートに清書したものが今日でも残っている。20歳をこえた頃から本格的な小説の執筆を始め,《高慢と偏見》の原形は1796年に,《良識と感受性》の原形は97年に書かれている。父も彼女の創作を励まし,《高慢と偏見》を出版社に送ったが出版を断られている。ついで97-98年執筆の《ノーサンガー僧院》を自ら出版社に送ったが,またも日の目を見なかった。1801年父が引退して保養地バースに移り,父の死後はサウサンプトンで暮らしたが,09年に兄の世話で生れ故郷に遠くないハンプシャーのチョートン村に移った。この期間には《ワトソン家》の断片が残されているだけで,創作活動はほとんどなかったと思われる。チョートンの田舎生活で再び創造力が活発になり,《良識と感受性》を11年,《高慢と偏見》を13年にそれぞれ改訂のうえで発表した。続いて14年の《マンスフィールド・パーク》,15年の《エマ》で円熟した力量を示している。翌16年《説得》を完成して感情表現に新しい方向を開いたが,17年はじめから健康が衰え,未完の《サンディトン》断片を残して同年7月に死去した。《説得》は最初期の特徴を示す《ノーサンガー僧院》と合本で彼女の死後18年に出版されている。

 チョートン移住後の作品は別として,彼女の前期の作品は原形をどの程度とどめているかの推定にしたがって《ノーサンガー僧院》《良識と感受性》《高慢と偏見》の順に並べられる。オースティンの小説はすべてハッピー・エンドに終わるという意味で喜劇であり,また人間の愚かしさを鋭く軽妙に活写し,それに対処するヒロインの人間的成長を描いている。しかしその中でも《良識と感受性》《マンスフィールド・パーク》《説得》のように控え目で内向的な女性をヒロインとする系列と,《ノーサンガー僧院》《高慢と偏見》《エマ》のように明るく活発なヒロインをもつ系列とがあり,それぞれ作者のうちの強靱な倫理的批判力と喜劇精神とに対応している。彼女の作品はイギリス家庭小説の頂点を示しているが,外国への影響はほとんどないと言ってよい。しかし夏目漱石が彼女の作品を激賞し,晩年彼の〈則天去私〉の精神を体現するものとしてオースティンの小説をあげているのは注目すべきことである。
執筆者:

オースティン
John Langshaw Austin
生没年:1911-60

イギリスの哲学者。ランカスターに生まれ,オックスフォード大学で古典学,哲学を修め,1952年同大学ホワイト記念道徳哲学教授,在任中に病没。第2次大戦後のイギリスの哲学を代表する哲学者であり,ライル,エアー,ストローソン,H.L.A.ハートらとともにオックスフォードの哲学の地位を世界的なものにすることに貢献した。とくに,日常言語の厳密な分析を哲学の課題とする日常言語学派の中心的指導者として大きな影響力をもった。また,言語の記述的ではない使用法を分析しつつ,言語行為という概念を詳細に検討した《いかにして言葉を用いてことをなすか》(1955講演,1962刊)は言語学,社会学,心理学,倫理学にまで影響を及ぼしている。このほかに,知覚,真理,自由,責任などの伝統的問題に言語分析の手法によって加えた鋭い考察は,《哲学論文集》(1961),《センスとセンシビリア》(1962)に収められている。
執筆者:

オースティン
John Austin
生没年:1790-1859

イギリスの法学者。軍人,弁護士を経て1826-32年ロンドン大学の法理学教授。その間ドイツに渡り,ローマ法およびドイツ概念法学の方法を学ぶ。同大学を辞任した32年に《法理学の領域決定》を著した。ベンサムおよびJ.ミルの影響を受け,功利主義を基調にもちつつ,法実証主義理論を説き,典型的な法命令説(法は命令の一種であるとする考え方)を展開した。彼の理論は,死後,未亡人サラーによる同書の再刊(1861)およびJ.S.ミルのノートの助けをかりて著された《法理学講義》の刊行(1863)以後有名になった。その理論は,分析法学と呼ばれ,その後変貌し修正を受けつつ,T.E.ホランドやJ.W.サーモンドらに継承され,現代イギリス法理学の礎石として,今日も重要な意義をもっている。
執筆者:

オースティン
Austin

アメリカ合衆国テキサス州中央部にある同州の州都。人口69万0252(2005)。1839年,テキサス共和国の首都に選定され,S.F.オースティンにちなんで命名された。しかし,45年にテキサスが合衆国に併合されるまで,政府機関はヒューストンにあった。1930年代のコロラド川開発計画と40年代の軍事産業が興るまでは,州の政治,商業,教育の機能をもっていただけであったが,その後,工業活動も重要となった。家具,煉瓦,食料品,綿実油皮革製品の工場や,多数の電気機械や科学の研究所がある。テキサス大学本部,セント・エドワーズ大学,ハストン・ティロットソン大学,二つの神学校などがある教育都市でもある。
執筆者:

オースティン
Stephen Fuller Austin
生没年:1793-1836

アメリカ合衆国,テキサス州の創立者。1821年メキシコ領テキサスを訪れ,300世帯分のアメリカ人入植者の開拓地を確保し,34年までに約750世帯のアメリカ人を入植させた。入植者とメキシコ政府との対立によって始まったテキサス独立戦争(1835-36)中はアメリカ政府の援助を求めた。独立後のテキサス共和国大統領選挙ではS.ヒューストンに敗れたが,国務長官に任命され,共和国の連邦加入に尽力,間もなく死去した。テキサス州の州都オースティンの市名は彼にちなむ。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オースティン」の意味・わかりやすい解説

オースティン
Austen, Jane

[生]1775.12.16. ハンプシャー,スティーブントン
[没]1817.7.18. ウィンチェスター
イギリスの女流作家。人生の傍観者といった立場で,冷静で淡々とした筆致をもって田舎の小社会の人事の機微をこまやかに描いた。若い男女の恋愛や縁談を好んで題材としており,思想的な深みには欠けるが,その鮮明で的確な性格描写,構成の巧みさはイギリス小説中屈指のもの。作品に『分別と多感』 Sense and Sensibility (1811) ,『自負と偏見』 Pride and Prejudice (13) ,『マンスフィールド邸園』 Mansfield Park (14) ,『エマ』 Emma (15) ,『ノーサンガー寺院』 Northanger Abbey (18) ,『説得』 Persuasion (18) 。

オースティン
Austin, John

[生]1790.3.3. サフォーク,クレーティンミル
[没]1859.12. サリー,ウェイブリッジ
イギリスの法学者。 16歳のときから5年間軍隊生活をおくったが,1818年に弁護士の資格を取り,法律実務に従事した。次いで 26年に新設されたロンドン大学の法哲学講座担当教授となり,2年間ドイツに留学してドイツ普通法学の方法を学んだ。帰国後,その影響のもとでさまざまな法概念を厳密に分析し,分析法学を樹立,自然法論を批判して,法と道徳との区別を明確にし,法を制裁を伴った主権者の命令であると定義した。彼の分析的方法は当時のイギリスの法学界では評価されず,後世に残した影響力は妻サラーによる彼の死後の著書出版によるところが大きい。著書『法理学講義』 Lectures on Jurisprudence (1869) など。

オースティン
Austin

アメリカ合衆国,テキサス州の州都。州の中南部,コロラド川がバルコーンズ急崖を切って平野に出るところに位置する。 1835年に最初の移住が行われた。 39年テキサス共和国の首都となり,49年合衆国の州となったとき,その州都となった。 71年の鉄道の開通,20世紀初めのコロラド川水力発電の開発などにより発展し,種々の軍需工業なども立地。テキサス大学 (1881創立) があり,彫刻家のエリザベット・ナイの博物館,O.ヘンリーの旧居 (博物館) も残されており,市立の交響楽団がある。州庁舎は,ワシントン D.C.の国会議事堂に次ぐ大きさ。 1980年代にはコンピュータ関連企業や事業所,各研究機関が進出し,90年代になると世界の先端技術産業地域として脚光を浴び,経済と雇用の拡大が進んでいる。人口 79万390(2010)。

オースティン
Austin, Alfred

[生]1835.5.30. リーズ
[没]1913.6.2. ケント,アッシュフォード
イギリスの詩人,評論家,ジャーナリスト。法廷弁護士として出発,やがて外交問題に関心をもち,バチカン公会議 (1870) ,普仏戦争 (70~71) では,『ロンドン・スタンダード』紙の特派員となった。 1883年『ナショナル・レビュー』誌の発刊と同時に編集に参画,87年以後8年間主筆。 71~1908年に 20冊の詩集を出版した。散文作品『愛するわが庭園』 The Garden that I Love (94) は広く読まれた。 1896年桂冠詩人となった。

オースティン
Austin, Mary

[生]1868.9.9. イリノイ
[没]1934.8.13. サンタフェ
アメリカの女流作家,随筆家,劇作家。旧姓 Hunter。スケッチ集『雨の降らぬ地』 The Land of Little Rain (1903) で名声を博した。ほかに,戯曲『矢をつくる者』 The Arrow Maker (11) ,北アメリカ先住民族 (インディアン) の歌の研究『アメリカのリズム』 The American Rhythm (23) など 32冊の著書と約 200編の論文を出版した。

オースティン
Austin, John Langshaw

[生]1911
[没]1960
イギリスの哲学者。日常言語学派 (オックスフォード学派) に属する分析哲学者。主著"How to Do Things with Words" (1962) 。

オースティン
Austin

アメリカ合衆国,ミネソタ州南東部の都市。シーダー川にのぞみ,トウモロコシ地帯と畜産地域の中心地で,精肉業をはじめ食品加工業が発達。毎年農業博覧会が開かれる。人口2万 1907 (1990) 。

オースティン
Austin, Stephen Fuller

[生]1793.11.3. バージニア
[没]1836.12.27.
アメリカ,テキサスの建設者。同地がメキシコ領域にあった 1820年代に,アメリカからの移民を組織した。

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百科事典マイペディア 「オースティン」の意味・わかりやすい解説

オースティン

英国の法理学者。弁護士を経て,新設のロンドン大学法理学教授(1828年―1832年)。法と道徳の峻別に基づいて実定法の論理的分析の徹底に専念し,分析法学の始祖と称される。自然法論を法と道徳の混交であるとして排し,功利主義的倫理学に立って学説を展開した。主著《法学講義》。
→関連項目法実証主義

オースティン

英国の女性小説家。牧師の娘として生まれ,平凡な人生を送ったが,その作品は平凡で平和な田園生活の中の人間的ドラマを描き尽くして,イギリス小説の一頂点と称されている。作品は,《良識と感受性》(1811年),《高慢と偏見》(1813年),《エマ》(1815年),《マンスフィールド・パーク》(1814年),《ノーサンガー僧院》(1818年),《説得》(1818年)。

オースティン

米国,テキサス州の州都。州のほぼ中央,コロラド川河岸にあり,交通の要地。農牧産品の大集散地。1838年に開かれ,1839年にはテキサス共和国(テキサス〔州〕参照)の主都だった。テキサス大学(1876年創立)がある。79万390人(2010)。

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世界大百科事典(旧版)内のオースティンの言及

【イギリス文学】より

…そのなかでスターンの作品は異色的例外であり,人間精神の活動を論理や道徳の枠から解放しようとした試みであったから,20世紀の小説の先取りであり,それゆえに20世紀の作家から高く評価されることになる。 18世紀後半には,既にあげた〈ゴシック・ロマンス〉の流行が見られたが,こうした文学の批判者であるジェーン・オースティンによって,〈ノベル〉の伝統が継承され,19世紀に入って華麗な花が咲き誇った。オースティンは小さな田舎の村の数家族を材料として,人生の普遍的真実を表現したが,産業革命の結果,イギリス社会が急激に変化していった19世紀中ごろ以降の時代,1837年に即位したビクトリア女王の治世においては,小説家もその舞台を小さな地域社会に限定することはできなくなった。…

【バース】より

…アセンブリー・ルームズは第2次大戦で破壊されたのち復旧され,現在は衣装博物館となっている。小説家T.G.スモレットをはじめ多くの文人がこの町を訪れ,作品にとり上げたが,とくにジェーン・オースティンは1800年前後のこの町を《ノーサンガー僧院》《説得》(ともに1818)で描いている。【榎本 太】。…

【分析法学】より

…19世紀のイギリスにおいて,J.ベンサムの理論を受け継いだJ.オースティンによって提唱された法学理論。オースティンによれば,法学の対象である実定法は,それぞれの社会において,独自の体系をなして存在しているが,それぞれの特殊性にもかかわらず,とくに文化の進んだ社会相互間ではそれぞれの法体系に共通する諸原理,諸概念,諸区分が存する。…

【法源】より

…これに対して,広義においては法源はこの意味のほかに,哲学的法源や歴史的法源の意味で用いられる。前者は法の妥当性の淵源とか根拠の意味であり,たとえば分析法学の始祖であるJ.オースティンは法源をこの意味で用いて,法の拘束力の淵源は主権者にあるとした。後者は法の歴史的由来のことであり,法を歴史的に研究するための史料,文書等を指して用いられる。…

【日常言語学派】より

…日常言語への定位は,存在や善の概念を分析したケンブリッジ大学のG.E.ムーアによって先鞭をつけられ,日常的言語使用のあり方は中期以降のウィトゲンシュタインの考察の中心となった。一方,オックスフォード大学のJ.L.オースティン,G.ライル,ストローソン等もやや独立に日常言語の分析から哲学的問題に接近した。こうして50年代に日常言語学派が形成されたのである。…

※「オースティン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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