カブラル(英語表記)Cabral, Amilcar

デジタル大辞泉 「カブラル」の意味・読み・例文・類語

カブラル(Francisco Cabral)

[1528~1609]ポルトガル宣教師。1570年、日本布教区長として来日、織田信長足利義昭らにも会い、布教の基礎を固めた。のちインドに行き、ゴアで没。

カブラル(Pedro Álvares Cabral)

[1467?~1520?]ポルトガルの航海者。1500年、インド遠征の途中、風に流されてブラジルに上陸。その地をポルトガル領とした。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カブラル」の意味・わかりやすい解説

カブラル
Cabral, Amilcar

[生]1924.9.12. バファタ
[没]1973.1.20. コナクリ
ギニアビサオの解放運動指導者。サンビセンテの高校を経てリスボンのアグロノミア高等学院に学んだ。アンゴラ出身の A.ネト,J.P.アンドラーデらとともに,1948年リスボンにアフリカ研究センターを設立。 50~54年農業技師としてギニアビサオのポルトガル政庁に,次いでアンゴラに渡り砂糖農園に勤務。 56年9月ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党 PAIGCを組織し,解放運動に着手。同年 12月再びアンゴラに渡り,旧友ネトとともにアンゴラ解放人民運動 MPLAを創設。 59年8月のピジギティ虐殺事件を契機に武装闘争の準備にかかり,62年 12月より本格的な武装闘争開始。 65年3月にはギニアビサオの約 40%を,68年2月には約3分の2を,72年前半には約4分の3を解放,さらに党の指導のもとで解放区内の社会的,経済的再編と発展に尽力。こうした成果をもとにギニアビサオは 73年9月に独立宣言を行なったが,それに先立つ同年1月隣国ギニアでポルトガル側の人間に暗殺された。マルクス主義によって理論武装した戦闘的知識人で,『ギニアの革命』 Revolution in Guinea (1970) ほか多数の著書がある。

カブラル
Cabral, Luís de Almeida

[生]1931.4.11. ポルトガル領ギニア,ビサオ
[没]2009.5.30. ポルトガル,リスボン
ギニアビサオの解放運動指導者,政治家。異母兄のアミルカル・カブラルとともに 1956年ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党 PAIGC創設に参画し,1970年まで同党政治局員兼中央委員会委員を務めた。この間の 1961年にギニアビサオ労働全国同盟書記長に就任。1970~72年解放区再建問題の責任者,1972年党副書記長。1973年1月兄アミルカルが暗殺され,同年 9月ギニアビサオが独立を宣言するとともに国家元首の国家評議会議長に就任した。1974年宗主国ポルトガルが正式に独立を承認した。1977年再選されたが,1980年軍部のクーデターにより元首の座を追われた。

カブラル
Cabral, Pedro Álvares

[生]1467? ベルモンテ
[没]1520? サンタレン?
ポルトガルの航海者。バスコ・ダ・ガマのインド航路発見後,カリカットの国王と外交関係を結ぶために,マヌエル1世 (幸運王)の命を受けて 1500年3月8日リスボンを出港したが,大西洋航路を南西にとった結果,同年4月 22日ブラジルに到達,これをポルトガル領とした。そのまま航海を続け,カリカットではイスラム商人の妨害にあったが,コーチンで香料の買付けに成功し,リスボンに多大の富をもたらした。しかし,その後,国王の不興を買い,宮廷を去って不遇のうちに死去した。

カブラル
Cabral, Francisco

[生]1528. コビリャン
[没]1609.4.16. ゴア
ポルトガル人のイエズス会士。ゴアで同会に入り,元亀1 (1570) 年第2代日本布教長として来日。日本の風習になじまず,日本人信者らを差別し,日本人司祭の養成に反対した。戦国大名を貿易などで懐柔し,布教に利用しようとして,巡察師バリニャーノと布教方針について対立,80年布教長を辞任,マカオに転出した。

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百科事典マイペディア 「カブラル」の意味・わかりやすい解説

カブラル

ポルトガル人イエズス会士。1570年来日。宣教師会議を肥前(びぜん)天草の志岐(しき)に開催。豊後(ぶんご)を経て上京,将軍足利義昭に謁す。岐阜で織田信長に会う。有馬義直大友宗麟に授洗。日本人聖職者養成について消極的でバリニャーノと対立。1579年マカオに移り,インド管区長などを務め,ゴアで没。
→関連項目オルガンティーノ

カブラル

ポルトガルの航海者。バスコ・ダ・ガマの喜望峰回航後,マヌエル1世による第2次インド派遣船隊の隊長として1500年に出発したが,西進してブラジルに到着,ポルトガルによる領有のきっかけとなった。のちインドにおもむいた。

カブラル

アフリカのポルトガル領ギニア(現,ギニア・ビサウ)とカーボベルデの民族解放運動家。1956年ギニア・カーボベルデ独立アフリカ人党(PAIGC)を創設,1963年から武装闘争を開始。しかし1973年9月のギニア・ビサウの独立宣言を見ることなく暗殺された。

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改訂新版 世界大百科事典 「カブラル」の意味・わかりやすい解説

カブラル
Francisco Cabral
生没年:1533-1609

ポルトガル人のイエズス会士。サン・ミゲル島の出身。1554年ゴアでイエズス会に入会し,58年司祭に叙階された。1570年(元亀1)第3代日本布教長として来日し,81年(天正9)まで在任した。1570年7月下(しも)在住のイエズス会士を招集し,志岐会議を開催した。71-72,74年の2度にわたり上京し各地の教会を訪問し,織田信長に謁見した。在任中,76年有馬義直,78年大友宗麟ら九州の有力大名が改宗し,教勢は急速に伸展したが,79年来日した巡察師バリニャーノと布教方針をめぐって対立し,日本から転出させられた。のち,マカオの修院長(1583-86),インド管区長(1592-97)の要職につき,インドで没した。
執筆者:

カブラル
Amilcar Cabral
生没年:1924-73

アフリカのポルトガル領ギニア(現,ギニア・ビサウ)とカボベルデにおける民族解放運動組織PAIGC(ギニア・カボベルデ独立アフリカ人党)の指導者。1956年9月,PAIGCを創設し,63年1月,彼の指導の下で武装闘争を開始した。73年9月,ギニア・ビサウは独立を宣言したが,カブラルはこの日を見ることなく,73年1月20日に暗殺された。彼は民族解放運動の実践家であり,かつ理論家であった。《著作集》《選集》があり,〈第三世界〉を代表する思想家として,彼の著作は今日でも高く評価されている。
執筆者:

カブラル
Pedro Álvares Cabral
生没年:1467ころ-1520

ポルトガルの航海者。有数な貴族の家に生まれた。1499年バスコ・ダ・ガマの帰国後ただちに編成された第2回のインド向け船隊の司令官に任命され,1500年にインドに向かった。途中大西洋を大きく迂回して,現在のブラジルを発見し,同地をポルトガルが領有するきっかけを作った。しかしインドではカリカット王と友好関係を結んで商館を建設するという任務に失敗した。その後ふたたびインドに赴くことはなかった。
トルデシーリャス条約
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「カブラル」の解説

カブラル

没年:1609.4.16(1609.4.16)
生年:1528
イエズス会宣教師。ポルトガル領のサン・ミゲル島生まれ。1533年生まれの説もある。コインブラ大学に学び,1550年インドに渡る。1554年ゴアでイエズス会に入会。元亀1年7月20日(1570.6.18)に天草の志岐に渡来し,日本布教長に就任。翌年,京都に赴き,将軍足利義昭に謁見。織田信長とは入洛前に岐阜で,入洛後に京都で各々謁見。天正1(1573)年9月,口ノ津(長崎県)を発って再び上京した。同6年,大友宗麟に授洗。同9年,日本布教長を辞任。同11年,マカオに帰還。1586年インドに戻り,インド管区長を務めた。布教方針をめぐって,巡察師ヴァリニァーノと意見を異にし,適応主義に従って「清貧」を柔軟に考えるヴァリニァーノに対して,彼は「清貧」を全うすべきであると主張し,日本人聖職者の任用についても,終始反対の立場をとり,日本人に対する評価にははなはだ厳しいものがあった。ゴアで没す。<参考文献>高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』

(浅見雅一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「カブラル」の解説

カブラル Cabral, Francisco

1533-1609 ポルトガルの宣教師。
元亀(げんき)元年(1570)来日し,イエズス会の日本布教長となる。大村純忠(すみただ)の妻子,大友宗麟(そうりん)らに洗礼をさずけ,織田信長にあうなど精力的に布教活動を展開したが,巡察師バリニャーノと布教方針をめぐって対立,天正(てんしょう)10年に離日した。のちインド管区長。1609年4月16日死去。76歳。サン-ミゲル島出身。

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旺文社世界史事典 三訂版 「カブラル」の解説

カブラル
Pedro Alvarez Cabral

1460ごろ〜1526
ポルトガルの航海者
王命で1500年インド遠征艦隊を率いてインドに向かう途中,嵐でブラジルに漂着し,トルデシリャス条約によってここをポルトガル領とした。さらに喜望峰をへてインドのカリカットに到着し,ここをインド経営の本拠として1501年帰国した。

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367日誕生日大事典 「カブラル」の解説

カブラル

生年月日:1924年9月12日
ギニア・ビサウ共和国の解放闘争の指導者
1973年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のカブラルの言及

【カボベルデ】より

…1951年のポルトガル憲法改正により,従来の植民地から海外州となった。56年9月,ギニア・カボベルデ独立アフリカ人党(PAIGC)がA.カブラルの指導下にアフリカ本土のポルトガル領ギニア(現,ギニア・ビサウ)で創立された。63年7月,カボベルデの闘争に関するPAIGC幹部会議が開かれ,以後,民族解放運動がPAIGCによって闘われた。…

【ギニア・ビサウ】より

…51年のポルトガル憲法改正によって,従来の植民地から海外州となった。 56年9月,民族解放運動組織PAIGC(ギニア・カボベルデ独立アフリカ人党)がアミルカル・カブラルの指導下にビサウで創立された。59年8月,ビサウの造船労働者のストライキにポルトガル軍が大弾圧を加えた(死者50人)のを機に,PAIGCは戦術を武装闘争に転換し,60年PAIGCは独立を要求する書簡をポルトガル政府に送ったが,ポルトガル政府はこれを拒否した。…

【大航海時代】より

…1400年ころから1650年ころまでの,ヨーロッパ人による海外進出が始まり,新旧両大陸におけるその勢力範囲が確定した時期をさす。〈地理上の発見〉の時代とも呼ぶ。
[背景]
 1300年ころの西ヨーロッパはビザンティン帝国支配下の地中海東部地域,マムルーク朝支配下の西アジア,エジプトに対して金,銀,銅,奴隷などを輸出し,絹織物などの手工業製品,香料などの東方の産物を輸入していた。この地中海東部地域を起点として地中海を西に向けて横断し,ジブラルタル海峡から大西洋に出て,ヨーロッパ大陸の海岸に沿って北上し,バルト海に入ってロシアに到達する海上貿易ルートが西ヨーロッパの国際経済の大動脈であった。…

※「カブラル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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