カンギレム(読み)かんぎれむ(英語表記)Georges Canguilhem

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カンギレム」の意味・わかりやすい解説

カンギレム
かんぎれむ
Georges Canguilhem
(1904―1995)

フランス科学史家、科学哲学者。フランス西南部のカステルノダリーに生まれる。1924年エコール・ノルマル・シュペリュール(高等師範学校)に入学し、その後ソルボンヌ哲学を、ストラスブール大学で医学を修める。ソルボンヌではバシュラールに師事して科学哲学研究者の道を歩む。バシュラールの後任としてパリ大学科学史・技術史研究所長を務め、1955年から1971年までソルボンヌで科学史・科学哲学を講じた。

 フランスにはブランシュビック、バシュラールらのように、科学的概念の歴史的な形成を具体的にたどり、ある概念がどのようにそれまでの伝統を受け継ぎ、なおも時代ごとに微妙にその意味を変えていくのか、そしてそれが意味を変えていくときの哲学的意味はなんなのか、という問題を熟考する学問的伝統がある。それは、哲学的反省意識に支えられた科学史であるともいえる。普通、それは科学認識論、またはフランス語をそのままとってエピステモロジーとよばれる。カンギレムは、バシュラールの後の世代、つまり1940年代から1960年代にかけて活躍したエピステモロジーの代表的思想家である。しかも、バシュラールがおもに数学、物理学、化学の認識論的考察に焦点を絞ったのに対して、あたかもそれを補完するかのように、カンギレムは、医学、生物学を主要な研究対象にした。バシュラールとカンギレム二人の業績を緻密(ちみつ)に分析するなら、フランス科学認識論の神髄に触れられる。

 カンギレムは寡作な学者だった。単独の主題を扱った著書としては『反射概念の形成』La formation du concept de réflexe aux ⅩⅦe et ⅩⅧe siècles(1955)と『正常と病理』Le normal et le pathologique(1966)の2冊があるのみである。『反射概念の形成』は、生体のなかに潜む機械的因子の代表的現象であるように思える反射という現象の理解が、まさに身体を機械論的に説明し尽くそうとしていたデカルトの人間論に端を発するのではなく、むしろ医化学や自然哲学に近い立場にいた医師トーマス・ウィリスらによって形づくられていったという歴史的な逆説を跡づけたものである。また、『正常と病理』は、正常と病理との差を、血糖値のような定量的把握によって客観的に把握できるはずだと考える発想を生理学者クロード・ベルナールらの学説を検討しながら最終的には否定するという結論に導く。定量化の総体から正常と病理を見極めるという意味での客観的生理学は存在しない。なぜならそこには病理を病理と感じる、生物の側からの質的規範位相が不可避的に介在しているからだ。この逆説的結論は、フランスの医学哲学に激震を与えた。

 この二つの論考以外の業績のなかで特記すべきなのは『生命の認識』La connaissance de la vie(1952)と『科学史・科学哲学研究』Études d'histoire et de philosophie des sciences(1968)という2冊の論文集であろう。コントやベルナールに関する論考などのほか、生気論や環境概念の分析、さらには怪物という特殊な存在がもつ哲学的意味などを提示したそれら一連の論考は、幅広い視野と地道な資料調査に支えられた秀作ぞろいである。

 科学的概念の史的変遷に関する哲学的省察は、本来特殊な専門領域であり、けっして一般受けするようなものではない。だが、カンギレムの仕事はフーコーやアルチュセールなど、フランス現代思想を築きあげた多くの英才に深い影響を与えた。20世紀後半のフランス思想を真に理解しようと思うのであれば、カンギレムの業績を知悉(ちしつ)することは、必須の要件である。

[金森 修 2015年5月19日]

『滝沢武久訳『正常と病理』(1987・法政大学出版局)』『金森修訳『反射概念の形成――デカルト的生理学の淵源』(1988・法政大学出版局)』『金森修監訳『科学史・科学哲学研究』(1991/新装版・2012・法政大学出版局)』『杉山吉弘訳『生命の認識』(2002・法政大学出版局)』『金森修著『フランス科学認識論の系譜』(1994・勁草書房)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「カンギレム」の意味・わかりやすい解説

カンギレム
Georges Canguilhem
生没年:1904-95

フランスの科学哲学者,科学史家。元来は医師。医学の基礎を問う歴史的,哲学的なアプローチを土台にして,バシュラールの認識論的な科学史の道を継承する。またソルボンヌの科学・技術史研究所長としてもバシュラールの後継者であり,現代フランスの科学哲学,科学史の分野の長老的存在として活躍している。重要な論考として《17,18世紀における反射概念の形成》(1955)などがあり,内在史的な立場でありながら,科学の歴史を,理論内部での自律的かつ論理的・因果的な発展過程として定位するA.コイレらとは違って,幅広い文脈のなかから,概念のさまざまな様相を浮かび上がらせる独特の手法をとる。それはM.フーコーに発展的に受け継がれている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「カンギレム」の意味・わかりやすい解説

カンギレム

フランスの科学哲学者,科学史家。パリ大学教授,同大学科学・技術史研究所所長。認識論と科学史の総合を企図するその立場は,バシュラールフーコーを媒介するもの。主著《正常と異常に関する試論》(1943年),《17,18世紀における反射概念の形成》(1955年)。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カンギレム」の意味・わかりやすい解説

カンギレム
Canguilhem, Georges

[生]1904.6.4. オード,カステルノダリー
[没]1995.9.11. イブリーヌ,マルリルロア
フランスの科学哲学者,科学史家。パリ大学教授。科学史的観点から従来の観念論哲学や機械的唯物論を批判し,哲学の課題は概念形成の過程の解明にあるとした。主著『生命の認識』 La connaissance de la vie (1952) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android