カント(Immanuel Kant)(読み)かんと(英語表記)Immanuel Kant

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

カント(Immanuel Kant)
かんと
Immanuel Kant
(1724―1804)

ドイツの哲学者。18世紀後半、西欧啓蒙(けいもう)思想の成熟とフランス革命の時代にあって、それ以前の西欧近世哲学の展開のはらむ問題状況を汎(はん)ヨーロッパ的規模で踏まえながら、近代人の思想と行動を律すべき「理性」の基本的輪郭を素描し、以後ロマン派から今日に至る哲学的思索へと道を開いた。

[坂部 恵 2015年2月17日]

伝記的事実と時代的背景

1724年4月22日、東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現、ロシア領カリーニングラード)に、馬具匠を父とし、敬虔(けいけん)主義の信仰厚い婦人を母として生まれる。ギムナジウム(高等学校)を経て、1740年生地の大学に入学、神学、哲学などを学んだ。1747年学業を終え、ケーニヒスベルク近在の諸家庭で家庭教師をしながら勉学を続けた。1755年ケーニヒスベルク大学の形而上(けいじじょう)学、論理学担当の私講師、1770年正教授となり、以後1796年に老齢のため引退するまで、5期にわたって学部長を務めた期間も交えて、形而上学、論理学、倫理学、自然地理学、人間学をはじめとする諸学科について講義を続けた。そのかたわら、のちにみるような多くの著作を世に送る。1804年2月12日、老衰によりケーニヒスベルクで死去。

 カントが自らの思想を形成し、学問的に活躍した時代の大半は、フリードリヒ2世(大王)の治世(1740~1786)にあたっており、ベルリンを中心にG・E・レッシングらの活躍したこのドイツ啓蒙主義時代盛期の自由な雰囲気が、カントを真に「世界市民的」な哲学者にまで育てたのである。

[坂部 恵 2015年2月17日]

思想的発展――前批判期

大学在学中から、当時ドイツの学界、思想界に大きな影響をもっていたライプニッツ‐ウォルフ学派の学校形而上学に触れたが、少壮の員外教授クヌッツェンMartin Knutzen(1713―1751)の感化によりニュートン物理学を知ったことが、カントの思想的発展にとって決定的な転機となった。1755年に公にされた『天界の一般自然史と理論』は、ニュートンの原理を拡張的に適用して、宇宙の生成を純機械論的、力学的に説き明かすことを試みたものであり、のちに「カント‐ラプラス星雲説」の名で知られるようになる画期的な学説を打ち立てたものにほかならない。

 この試みは、世界を機械論的に、つまり一個の機械と見立て、その仕組みを説き明かそうという行き方を、ニュートンその人をも超えていけるところまで適用してみたものである。とはいえ、それは、ライプニッツ‐ウォルフ学派の、またニュートンの世界観の根幹をなす創造者としての至高神を中心とする目的論的な秩序ないし調和という考えと、すこしも矛盾するものではない。それどころか、宇宙の機械としての完璧(かんぺき)さが純力学的に説き明かされるほど、それは神の作品としての世界の完全性と合目的性の証(あかし)となる、とこの時期のカントは考えている。ガリレイ以来の、自然を機能的、関数的関係の総体としてとらえる自然観と、旧来の有機体論的、目的論的世界観とを、単に一方に偏することなく、それぞれに場所を得させながら批判的に調停するという、後の批判哲学につながるモチーフが、ここにはみられる。

 とはいえ、ここでは、宇宙や人間についての究極の原理にかかわる学としての形而上学、その認識のいわば学的身分を、いったんは疑って徹底的に吟味する姿勢はまだみられない。この点でカントの確信を揺るがしたのは、ヒュームの懐疑論哲学による形而上学批判であった。後年「ヒュームによって独断のまどろみを破られた」と自ら回想するカントは、1760年代に入ると、自然科学や形而上学への関心から、一転して人間の問題や学的知識の獲得のための方法の問題に興味を向け始める。

 この関心の転換にあたっては、文明に毒されない素朴な人間の尊さに対してカントの目を開かせたルソーの影響が、ヒュームのそれと並んで大きな役割を演じている。『自然神学および道徳の諸原則の判明性に関する研究』(1764)での方法論的論究、『美と崇高の感情に関する観察』(1764)での、イギリス感情哲学の影響を受けた人間の諸相への生き生きとした観察、『視霊者の夢』(1766)での、超能力者スウェーデンボリに触発された形而上学批判の試み、などが、この時期のカントの関心のありかを示している。

[坂部 恵 2015年2月17日]

批判哲学の展開

1770年の教授就任論文『可感界と可想界の形式と原理』が、形而上学的認識と、数学・自然科学的認識の関係に心を砕いていたカントに、一つの新たな飛躍をもたらした。すなわち、カントはここで、ケンブリッジプラトン学派の影響の下に、空間をなお神に直接関係づけていたニュートンを離れて、空間・時間を、人間の感覚に現れる可感的世界の形式とみなす考えを初めて提示した。同時にまた、この可感的世界の形式と純粋知性の対象となる可想的世界の形式の取り違えによって、たとえば可想的世界の事象に可感界の述語を付することによって、さまざまな解決不可能な形而上学的な難問や対立が生じてくるという構想を示したのである。

 このような見通しのうえに、人間の理性の認識の根拠と限界を明らかにすべき、より完全な著作として、10年余りの苦闘を経て公にされたのがカントの主著である『純粋理性批判』(1781)にほかならない。ここで、カントは、先の教授就任論文での見通しをさらに徹底させ、人間理性によって理論的に確実に認識可能なものは、感覚的与件をもとに人間の認識主観のア・プリオリ(先天的)な手持ちの認識形式としての空間・時間、カテゴリー(純粋悟性概念)などによって、整序され構成された「現象」としての自然、いいかえれば可感的世界に限られることを立証した。さらにこの「現象」の世界を超えた「物自体」の世界、可想界ないし「英知界」にかかわる「理念」についての形而上学的認識は、理論的学としては成立しえず、もろもろの理念は、現象世界の認識に究極の統一を与えるべき方向を指示する「統制的原理」としてのみ認められると結論する。

 近世の数学的自然科学の認識の成立場面の構造を分析し、人間を「現象」としての自然的世界の立法者として、かつてないその積極性と自律性においてとらえながら、反面、霊魂の不滅、自然的因果系列からの自由、神の存在などの理念をめぐる認識については、理論理性の限界を超えることとして、その有限性を見定めつつ制限を付するのである。

 理論的認識に対しては、統制的原理として以上の意味を認められなかった物自体の世界、ないし英知界への展望は、第二の批判書『実践理性批判』(1788)において、人間の自律的道徳が存立すべき不可欠の「純粋実践理性の要請」として、積極的意味を担って再興される。条件抜きの道徳的命令としての「定言命法」が意味をもつためには、永生、自由、また徳と福の一致を保証すべき神の存在などが不可欠の条件として要請されねばならないとされるのである。

 第三の批判書『判断力批判』(1790)は、以上の第一、第二の批判書で扱われた理論と実践の領域を媒介統一すべきものとして構想される。カントは、ここで、美的認識を想像力と悟性の戯れによる「目的なき合目的性」の、利害関心なき概念を抜きにした認識にほかならぬものとして、有機的自然の認識にあたって使われる目的論的原理を、単に「統制的原理」にとどまるべきものとして、それぞれ位置づけ、美的あるいは目的論的判断力が、理論理性と実践理性の間をとりもち媒介するものにほかならぬゆえんを明らかにする。

 カントは、以上の三つの批判書によって、認識し、行為し、信じあるいは感じる近世的人間主体のあり方を、その有限性に十分留意しながらも、その自律性、積極性を生かしながらとらえたのである。

[坂部 恵 2015年2月17日]

哲学体系への志向

『自然科学の形而上学的原理』(1786)、また「法論の形而上学」「徳論の形而上学」をそれぞれ第一部、第二部として含む『人倫の形而上学』(1797)は、それぞれ、第一と第二の批判書によって置かれた人間学的哲学の基礎のうえに、新たな哲学の体系を打ち立てようというカントの意図に出るものにほかならない。1780年代に書かれるいくつかの歴史哲学についての小論や、キリスト教の教義を理性の立場から解釈する試みとしての『単なる理性の限界内における宗教』(1792)は、歴史における神の摂理という古来の「目的論的」認識にかかわる問題に、新たな批判的見通しを与えたものとして位置づけられよう。このほか、長年にわたる「通俗講義」がまとめて出版された『人間学』(1798)、『自然地理学』(1802)は、近世市民の自覚としてのカントの哲学の根底に隠された生き生きとした人間的関心の一端を示すものとして、見逃せない。

[坂部 恵 2015年2月17日]

後世への影響

カントの哲学は、カントがなお持していた有限主義の立場を捨てて、人間主体を無限の宇宙を構成ないし産出する主体、有限の感性を無限の英知的直観などに拡大する形で、フィヒテ、F・シェリング、ヘーゲルら、のちに続くロマン主義の世代の、いわゆるドイツ観念論の哲学に受け継がれた。カントの影響は、さらにイギリス、フランスの理想主義の諸潮流にまで及んだ。ドイツの新カント学派の哲学は、19世紀後半からの学的問題状況に応じて、カントの批判主義を復興せしめんとしたものであった。新カント学派の退潮後に現れた今日におけるさまざまな哲学の潮流も、その多くが直接間接にカントの影響を受けており、この意味で、カントの哲学は今日なお生き続けているといってよい。たとえば、認識批判的な超越論的哲学の方法の影響は、フッサールの現象学からハバーマスらの批判的合理主義にまで、またウィットゲンシュタイン、ストローソンらの言語分析の哲学にまで及んでいる。

[坂部 恵 2015年2月17日]

自然科学とカント

カントの時代には、哲学と自然科学とがまだはっきり分化していなかった。このことを反映して、とりわけ、いわゆる前批判期における彼の仕事には、自然科学上の問題が中心主題になっているものが多い。

 そもそも彼の大学卒業論文『活力の真の測定について(活力測定考)』(1747)が、物体の運動する力の大きさを問題にしたものである。デカルトがこの大きさを質量と速度との積mvであるとし(運動量の恒存)、ライプニッツが質量と速度の2乗との積mv2であるとした(力の恒存)のに対して、カントは、調停者的学風で、デカルトの命題は死力に妥当し、ライプニッツの命題は活力に妥当する、と判示した。この論文にはまた、空間論ないし幾何学論もあり、たとえば、空間の三次元性はニュートンの万有引力の法則から導出できるのではないか、と示唆している(それ以上の展開はないが)。

 自然科学におけるカントの最大の功績は、『天界の一般自然史と理論』のなかで提出された星雲説である。カントはここで、初めに引力と斥力(せきりょく)とを備えた物質のカオス(星雲状物質)があり、これが引力の性質によって固まって天体になり、天体が斥力によって渦運動をおこし、その結果、太陽系、恒星系などができた、とした。なお、40年後にラプラスが、カントとは独立に、より精密な星雲説を展開した(「カント‐ラプラスの星雲説」)。

 前批判期における自然科学的著作には、このほか、『地軸論』『地球老衰論』『火について』(以上1754)、『物理的単子論』『地震の研究』『風の理論』(以上1756)、『運動および静止の新説』(1758)がある。このうち『単子論』において、ライプニッツの単子論とニュートンの引力説とを調和させようとする彼の学風がみられるが、カントはこの時期全体を通じて、はっきりニュートンの見地にくみする立場へ移っていく。これは、たとえば『新説』において、同形不動の唯一の究極的な基準座標系としての「絶対空間」の概念が承認・定立されていることからも認定できる。

 以上のような経過と成果とを踏まえて、カントは、いわゆる批判期において、いよいよ、『純粋理性批判』を中心に、ニュートン力学の客観的妥当性の基礎づけという認識論上の大仕事に力を尽くすことになる。その際、議論の前提とされたのは、「純粋数学」(=算術)・「純粋幾何学」(=ユークリッド幾何学)と「純粋自然科学」(=ニュートン力学の初めに掲げられた諸命題の全体)との存在という、「学の事実」であった。

 ところで、算術もユークリッド幾何学も、今日とは違って、客観的自然のごく基礎的な構造・関係を的確に反映した諸命題の体系と解されていたから、これはニュートン力学の簡単な一章であったといってよい。こうしてカントは、この本のなかで、同時代のすべての知識人と同様に、ニュートン力学の客観的妥当性を無条件に承認し前提としたうえで、このような認識はどのようにして可能になるのか、その根拠を問うたのである。そしていわゆる超越論的観念論の立場から独特な空間論・時間論・因果論・実体論などを展開して、その解答とした。彼の認識論はニュートン力学の科学論という性格をもっていたわけである。

 その後、19世紀にG・リーマンらの手で非ユークリッド幾何学が形成され、20世紀に入ってアインシュタインの特殊および一般相対性理論が登場した。これに伴って、カント認識論の前提であった「絶対空間」の存在や、空間と時間との相互独立性や、自然空間のユークリッド性(=曲率ゼロ)などが否定された。この状況の下でもカントの空間論・時間論は、はたして妥当性を保持できるのか、また、どこまで保持できるのか、という問いをめぐって、1920~1930年代、学界で激論が闘わされることになった。そしてそこから、さらに進んで、新しい「学の事実」を踏まえ、物理学の今後の発展をも展望しながら、新しい空間‐時間論ないし一般に科学論の樹立を目ざして議論が展開されることになったのである。

[秋間 実 2015年2月17日]

『原佑編『カント全集』全18巻(1965~1988・理想社)』『坂部恵他編『カント全集』全22巻・別巻1(1999~2006・岩波書店)』『岩崎武雄著『思想学説全書 カント』(1958・勁草書房)』『山崎正一著『世界の思想家 カント』(1977・平凡社)』『坂部恵著『人類の知的遺産 カント』(1979・講談社)』『荒川泓・秋間実著『現代科学の形成と論理』(1979・大月書店)』

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