世界大百科事典 第2版の解説
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
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…ロマンの死後国内では貴族が勢力を振るい,またハンガリー,ポーランドの介入を受けたが,ロマンの子ダニイルDaniil Romanovich(1201‐64)により再建され,新たな経済的・政治的高揚期を迎えた。しかし,タタール人の侵入に直面し,ダニイルはローマ教皇をも巻き込んで対抗したが,結局キプチャク・ハーン国の勢力圏に組み込まれる。14世紀初め一時的に統一を回復するが,公国内には自立的諸公が存在し,分裂傾向を阻止できないまま,14世紀半ばにはポーランドとリトアニアによって分割され,以後18世紀末まで両国の支配下に置かれた。…
…キプチャク・ハーン国による中世のロシア諸公国の間接支配のこと。すなわち,1236‐41年にわたり,モンゴル軍がロシアを侵略した時から,1480年にハーン国軍が,それまで何度か占領・略奪を繰り返してきたモスクワの都に迫りながら,攻撃を断念して兵を引き揚げた時までの約250年間を,後世のロシア人が形容した言葉。…
…当初は眇(びよう)たる小国であったが,モスクワ川を擁して交易路の要衝にあったことと,ダニイルの後を継いだ歴代の支配者の手腕によって,モスクワはしだいに領土を広げ,権威を高めていく。 ダニイルの子のイワン・カリタはキプチャク・ハーン国の宮廷にとり入ってその援助を受けて近隣のロシア諸公国の土地を手中に収める一方で,ウラジーミルから府主教を迎えたり,クレムリン内にウスペンスキー聖堂を建立したりして,モスクワを全ロシアの宗教上の中心たらしめようと努めた。14世紀後半のドミトリー・ドンスコイ大公の治世にはクレムリンの周囲に木の柵の代りに石の城壁が築かれ,城外に出城の役割を兼ねてアンドロニコフ,シーモノフなどの修道院がつくられた。…
※「キプチャク・ハーン国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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