キーロフ(英語表記)Sergei Mironovich Kirov

デジタル大辞泉 「キーロフ」の意味・読み・例文・類語

キーロフ(Kirov/Киров)

ロシア連邦西部、キーロフ州の都市。同州の州都。旧称フリイノフ、続いてブヤトカウラル山脈西麓、ブヤトカ川沿いに位置する河港都市。シベリア鉄道が通る。機械工業化学工業が盛んなほか、人形などの玩具製作で知られる。帝政ロシア時代の流刑地の一つ。

キーロフ(Sergey Mironovich Kirov)

[1886~1934]ロシアの革命家政治家シベリアカフカスで活動後、十月革命を指導。1923年共産党中央委員となり、昇進を重ねスターリンに並ぶ人物と評されたが、1934年12月に暗殺された。

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改訂新版 世界大百科事典 「キーロフ」の意味・わかりやすい解説

キーロフ
Sergei Mironovich Kirov
生没年:1886-1934

ソ連邦の革命家,政治家。本名コストリコフKostrikov。ビャトカ県(現,キーロフ州)のウルジュムで生まれた。町人身分の出身。早く両親を失い,孤児院で育つ。1904年カザン工業学校卒業後,シベリアおよびカフカスの諸地域で革命運動を続けた。14-18年には北カフカスボリシェビキ組織責任者。19年アストラハン軍事革命委員長。20-22年ザカフカス各地のボリシェビキ政権成立に関与し,23年に党中央委員となった。26年2月ジノビエフ派の拠点であったレニングラードの党組織に第一書記として乗りこみ,同組織をスターリン派のもとに糾合。以後一貫してレニングラードにとどまり,30年に政治局員,34年11月には書記局員兼組織局員となったが,その直後に暗殺された。彼は,内戦期に頭角をあらわして20年代の党内闘争でスターリン派の支柱となった一連の地方指導者の代表であり,典型である。しかし,30年代初頭には,スターリンの政策の行きすぎに対し,やや穏健な政策を唱え,スターリンと対立したのではないか,彼の暗殺もこの対立に起因するものではないか,との推測がなされている。
キーロフ暗殺事件
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キーロフ
Kirov

ロシア連邦,ヨーロッパ・ロシアの中東部,同名州の州都。カマ川支流ビャトカ川の河港。人口44万8509(2004)。1181年,フリノフKhlynovとして,ノブゴロド商人により創建され,14~15世紀にロシア人が定住した。1489年,モスクワが奪取し,1708年シンビルスク県,27年カザン県にそれぞれ編入された。80年ビャトカVyatkaと改名。流刑地として知られ,ゲルツェン,サルトゥイコフ・シチェドリンなどがここに流された。革命前は皮革・製靴業がさかえ,またウラル,シベリアとの中継貿易が行われてきたが,今日では金属加工,機械製作,タイヤ製造,木材加工が発展している。鉄道がペルミコトラスボログダ,ニジニ・ノブゴロド(旧名ゴーリキー)へ通じている重要な交通分岐点でもある。ゲルツェンが流刑中に創設した図書館が残っている。1934年にS.M.キーロフにちなんで改称された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「キーロフ」の意味・わかりやすい解説

キーロフ
Kirov, Sergei Mironovich

[生]1886.3.27. ウルジュム
[没]1934.12.1. レニングラード
ロシアの革命運動家,ソ連初期の共産党指導者。 V.I.レーニンの弟子,I.スターリンの戦友といわれていた。 1904年カザン工業技術学校卒業。 05年ロシア社会民主労働党に入党,ボルシェビキに属し,鉄道ストライキの指導などで何回か逮捕された。 17年の十月革命ではペトログラード (現サンクトペテルブルグ) で活動。国内戦ではアストラハン臨時革命軍事委員会議長,南方軍集団革命会議議員などとしてデニキン軍掃討作戦に参加した。 21年党中央委員候補,23年党中央委員。 25年からレニングラードでスターリンの指導体制確立のため尽力し,26年党政治局員候補,30年政治局員,34年中央委員会書記となったが,34年 12月暗殺。彼はスターリン派の有力者で国民の人気も高かったが,1930年代初期の政策をめぐってスターリンと対立したためスターリンの指図によって暗殺されたとの見方もあり,真相は不明である。キーロフの暗殺はスターリンの大粛清の合図となった。

キーロフ
Kirov

1934年までビャトカ Vyatka。ロシア西部,キーロフ州の州都。カザンの北約 320km,ビャトカ川上流部左岸に位置する河港都市。 1181年ノブゴロドの商人が東方との交易のために建設,フルイノフ Khlynovと呼んだ。 1489年モスクワ大公国領に入った。 1781年ビャトカと改称され,行政中心地となったが,あまり発展せず,長い間流刑地とされていた。ロシア革命後工業が発展し,現在,機械 (工作機械,農業機械,洗濯機) ,測定器具,木材加工,マッチ,皮革・製靴,食肉加工などの工業がある。教育,農業,工科の各大学,ロシアの作家 A.I.ゲルツェンが流刑囚として市に住んでいたときに設立した図書館などがある。市内には 1689年建造のウスペンスキー大聖堂をはじめ,17~19世紀の建築記念物が多数保存されている。鉄道交通の要地で,ペルミ,コトラス,ボログダ,ニジニーノブゴロド (旧ゴーリキー) の各方面へ鉄道が通じている。人口 47万3668(2010)。

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百科事典マイペディア 「キーロフ」の意味・わかりやすい解説

キーロフ

ソ連共産党指導者の一人。1904年以来のボリシェビキで,スターリンの後継者と目されていた。1926年党レニングラード県委員会書記兼北西局書記(ジノビエフ派の拠点であった党組織をスターリン派のもとに糾合),1930年党政治局員,1934年党中央委員会書記となる。同年12月レニングラード(現サンクト・ペテルブルク)で暗殺されたが,このキーロフ暗殺事件はスターリン大粛清の発端となった。

キーロフ

ビャトカ

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旺文社世界史事典 三訂版 「キーロフ」の解説

キーロフ
Sergei Mironovich Kirov

1886〜1934
旧ソ連の政治家
ボリシェヴィキに参加し,十一月革命ではペテルブルクの蜂起を指導。内乱の鎮圧に尽力して党中央委員となり,スターリンを支持してトロツキー派追放に活躍したが,1934年暗殺された。この暗殺が,1930年代後半の大粛清の契機となった。

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世界大百科事典(旧版)内のキーロフの言及

【キーロフ】より

…ゲルツェンが流刑中に創設した図書館が残っている。1934年にS.M.キーロフにちなんで改称された。【高田 和夫】。…

【キーロフ暗殺事件】より

…ソビエト共産党政治局員,書記局員で,レニングラードの党組織の第一書記でもあったS.M.キーロフが,1934年12月にスモーリヌイで射殺された事件。1930年代後半の大粛清の直接の契機となったことで知られる。…

【ソビエト連邦】より

…国内では1932‐33年の飢饉の傷跡は深刻であった。34年にかけて緊張緩和の措置がとられたが,その年の12月,新任の党書記キーロフが暗殺され,これが旧反対派の所業とされたことは,暗雲の前ぶれであった(キーロフ暗殺事件)。
[スターリン独裁へ]
 35年のコミンテルン第7回大会は反ファシズム人民戦線の結成を呼びかけた。…

※「キーロフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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