クシャン朝(読み)クシャンちょう

精選版 日本国語大辞典 「クシャン朝」の意味・読み・例文・類語

クシャン‐ちょう ‥テウ【クシャン朝】

(クシャンはKushan) 紀元前二〇年頃から六世紀頃まで、イラン系のクシャン族が建てた王朝大月氏諸侯の一つが、独立したもの。カニシカ王の時、アフガニスタン、西北インドの大部分を領有して最盛期出現。三世紀にはササン朝ペルシアに服属し、四世紀後半、一時復興したが、エフタルに滅ぼされた。ゾロアスター教仏教が並んで行なわれ、ヘレニズム文化の影響の濃いガンダーラ美術を残した。クシャナ朝。

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デジタル大辞泉 「クシャン朝」の意味・読み・例文・類語

クシャン‐ちょう〔‐テウ〕【クシャン朝】

Kushan》前1世紀後半、大月氏の諸侯の一つ、イラン系のクシャン族が現在のアフガニスタン中心に建てた王朝。カニシカ王のころが最盛期で、トルキスタンから北および西インドまでを支配した。3世紀以降ササン朝ペルシアに服属し、6世紀に至りエフタルに滅ぼされた。貴霜きそうクシャーナ朝

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「クシャン朝」の意味・わかりやすい解説

クシャン朝
くしゃんちょう

古代、中央アジア、インドの王朝。中国文献では貴霜(きそう)と記されている。クシャンKushan民族はイラン系民族で、バクトリアで半農半牧の生活をしていた。1世紀前半、その族長ヤブグ)のクジュラ・カドフィセス丘就郤(きゅうしゅうげき))がバクトリアの支配権を握り、ついでヒンドゥー・クシ山脈を越えてアフガニスタンを征服した。その子ビーマ・カドフィセス(閻膏珍(えんこうちん))のときには、ガンダーラ地方から北インドのマトゥラまで勢力を拡大した。ややしばらくして、130年ごろカニシカ1世が現れて、中央アジアから北インドにかけての大国家を建設し、それからフビシカの治世まで約70年間、この王朝の最盛期を迎えた。この領土には、イラン、インド、ギリシアといった諸民族が居住しており、またそこは東西貿易の要衝にあたっていたため、この帝国はコスモポリタン(国際国家)的な性格をもち、商業国家として隆盛を極め、その統治下で東西文明が融合して、仏像などの特色ある文化を生んだ。仏教が中央アジアと中国に伝わったのはこの時期である。だが、カニシカ1世のときから、王朝の勢力の中心はしだいに西北インドに移り、インド文化に同化するようになった。3世紀になると、イランのササン朝ペルシアによって中央アジアの領土を奪われて、この王朝は衰え、やがてグプタ朝によって残存勢力も滅ぼされた。

[山崎利男]

『山崎利男著「クシャーン朝とグプタ帝国」(『岩波講座 世界歴史3』所収・1970・岩波書店)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クシャン朝」の意味・わかりやすい解説

クシャン朝
クシャンちょう
Kushan Dynasty

古代,アフガニスタン,中央アジア,インド北西部を支配したクシャン族の王朝。大月氏 (→月氏 ) 支配下のバクトリアのクシャン (貴霜) 侯クジューラ・カドフィセースが1世紀に大月氏を倒して創始。彼はパルティアに侵入し,ヒンドゥークシ山脈を越えてガンダーラに進出した。その子ウィマ・カドフィセースはインド内部まで領土を広げ,王朝繁栄の基礎を築いたが,この2代を第1クシャン朝という。中心地はバクトリア。2世紀なかばカニシカ王 (第2クシャン朝創始者) の時代,首都はガンダーラのプルシャプラ (現ペシャワル) におかれ,版図は東西トルキスタンからガンジス川中流域に及んだが,3世紀なかばイランのササン朝シャプール1世により征服され,5世紀後半新興のエフタル族に滅ぼされた。領土が当時の四大文明圏 (インド,中国,パルティア,ローマ帝国) を結ぶ要地にあたり,東西の経済,文化交流に大きな役割を果した。文化面ではガンダーラ美術の発生と仏教の興隆が目立つ。

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改訂新版 世界大百科事典 「クシャン朝」の意味・わかりやすい解説

クシャン朝 (クシャンちょう)

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