日本大百科全書(ニッポニカ) 「クラーク」の意味・わかりやすい解説
クラーク(T. J. Clark)
くらーく
T. J. Clark
(1943― )
イギリスで生まれアメリカで活動する美術史家。専門は西洋近現代美術史。美術作品を当時の社会との関連において検討する独自の研究方法で知られる。ブリストル生まれ。ケンブリッジ大学とロンドン大学コートールド・インスティテュートに学ぶ。1966年から1年間パリに留学し、その後いくつかの大学で教鞭をとったあと、80年ハーバード大学美術学部の美術史の教授に就任。さらに87年以降はカリフォルニア大学バークリー校教授。
後のクラークの業績を考えれば、アカデミックなキャリアもよりも60年代に彼が参画していた社会運動のほうが注目される。当時クラークはシチュアショニスト・アンテルナシオナル(SI=Situationniste International)のイギリス支部員だった。ギイ・ドゥボールGuy Debord(1931―94)主導のもと57年にパリで結成されたこの社会・芸術運動集団は、消費社会を徹底的に批判するとともに、その消費社会にどっぷり浸かった都市の日常生活=「状況」の再構築を目指した。「芸術の社会史」という構想を早くから抱いていたというクラークはこのとき、ドゥボールやSIのいう「都市」や「スペクタクル」の問題に鋭く対峙したのである。
その最初期の著作『民衆のイメージ』Image of the People(1973)で、クラークは、ギュスターブ・クールベがどれだけ都市パリの「市民」と故郷オルナンの「民衆」、それぞれの政治的な立場を同時に相手にし、またその両者との駆け引きから活力を得ながら、大作『オルナンの埋葬』(1849~50)をはじめとする作品を描き上げたかを明らかにした。また84年の著書『近代生活の絵画』The Painting of Modern Lifeでは、エドゥアール・マネをはじめとする画家たちが、当時のパリに氾濫していた、「スペクタクル」としての都市あるいは女性にどのように応じつつ作品を描いたかを論じている。ドゥボールのいう「スペクタクル」とは、そこに具体的に存在する社会的な問題や矛盾を抽象化し、またその状態があたかも自然なものであるかのように見せる偽装工作、またその結果としての、見栄えのいい、あるいはそれゆえにすんなりと理解できるイメージのことである。それに対してたとえばマネは、『オランピア』(1863)や『1867年パリ万博の光景』(1867)で、当時の観客にとってマネがなにをいいたいのかよくわからない、不自然な女性像や都市の姿を描いている。それらを通じて、逆になじみのある「自然な」女性や都市のイメージこそが「スペクタクル」、つまり偽装された自然にすぎないことを気づかせるために描かれたとクラークは論じる。
こうしたクラークの立場を要約するなら、次のようになるだろう。あらゆる美術作品は、芸術家とそれを取り囲む社会との意識的あるいは無意識的な「取引」の産物である。つまりそれはたえず両者の緊張関係のなかで、「創造」ではなく「生産」され、「鑑賞」ではなく「消費」される。クラークは作品を、そして同時に作品や同時代の社会に関わるあらゆる資料を微視的に分析し、また記号論や精神分析などの手法も取り入れてゆくことで、そうした相互的な「取引」の状況を明らかにする。もちろん「生産」や「消費」といった語の選択は、彼のマルクス主義への傾倒からくるものである。だが従来のマルクス主義的な美術史学の多くが、ある美術作品はそれを生んだ社会状況を(一方的に)「反映」している、と見なすに留まるのに対し、クラークはあくまで個々の作品の成り立ちに則しつつ、その相互作用的な「生産」と「消費」の状況を執拗に記述する。彼のこの姿勢は、アメリカの第二次世界大戦後の美術などを対象としたその後の研究でも一貫している。
同時にこのクラークの立場は、芸術は社会から独立した自律的なものであると主張する、モダニズム/フォーマリズム(形式主義)のそれとも真っ向から対立するものでもある。モダニズム/フォーマリズムの陣営を代表するクレメント・グリーンバーグを批判的に読解した彼の一文「クレメント・グリンバーグの芸術理論」Clement Greenberg's Theory of Art(1982)は、グリーンバーグ直系の批評家、美術史家マイケル・フリードとの論争を引き起こした。この論争は近代芸術をめぐるもっとも重要な論争の一つとなっている。
[林 卓行]
『上田高弘訳「クレメント・グリーンバーグの芸術理論」(『批評空間』臨時増刊号『モダニズムのハードコア』所収・1995・太田出版)』▽『Image of the People; Gustave Courbet and the 1848 Revolution (1999, University of California Press, Berkeley)』▽『The Paintings of Modern Life; Paris in the Art of Manet and his followers (1999, Princeton University Press, Princeton)』
クラーク(Sonny Clark)
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Sonny Clark
(1931―1963)
アメリカのジャズ・ピアニスト。ペンシルベニア州に生まれ、4歳でピアノを習い始める。ブギ・ウギ・ピアノのピート・ジョンソンPete Johnson(1904―1967)が好きで、6歳のときにラジオのアマチュア参加番組でブギ・ウギ・ピアノを演奏。14歳のころラジオで放送されるデューク・エリントン楽団、カウント・ベイシー楽団の演奏を聴いて本格的にジャズに興味をもち、ジャズ・ピアノの巨匠アート・テータムの演奏をレコードで聴く。高校時代はビブラホーン、ベースも演奏し、少年バンドに所属する。母子家庭に育ったため、1951年に母親が亡くなると、ピアニストの兄とともにロサンゼルスの叔母のもとに身を寄せる。ちょうどこの時期、ジャズ・シーンの中心はイースト・コーストから軍需産業、映画産業で好況を迎えた西海岸へと移りつつあり、ウェスト・コースト・ジャズが活況を呈し始めていた。ロサンゼルス滞在中、テナー・サックス奏者のワーデル・グレイWardell Gray(1921―1955)、ドラム奏者のシェリー・マンShelly Manne(1920―1984)、ギター奏者バーニー・ケッセルBarney Kessel(1923―2004)、アルト・サックス奏者アート・ペッパーといった一流ミュージシャンたちと共演する。
1953年ベース奏者オスカー・ペティフォードOscar Pettiford(1922―1960)のトリオに加わり、バンドの移動に伴ってサンフランシスコに赴(おもむ)く。ここでクラリネット奏者のバディ・デフランコBuddy DeFranco(1923―2014)に出会い、彼のカルテットのメンバーとなりレコーディングに参加する。1954年にはジャズ評論家レナード・フェザーLeonard Feather (1914―1994)率いる「ジャズU. S. A.」の一員としてヨーロッパに公演旅行を行う。1956年ふたたびロサンゼルスに戻り、白人ベース奏者ハワード・ラムゼーHoward Rumsey(1917―2015)のバンド、ライトハウス・オールスターズのピアニストとなるが、これは典型的な白人ジャズマンによるウェスト・コースト・ジャズで、黒人のクラークの感覚にはあわなかった。
そこで1957年ニューヨークに移り、ベース奏者サム・ジョーンズSam Jones(1924―1981)、ドラム奏者アート・テーラーArt Taylor(1929―1995)とピアノ・トリオを組み、ジャズ・クラブ「バードランド」に出演。テナー・サックス奏者ソニー・ロリンズのアルバム『サウンド・オブ・ソニー』吹き込みに参加する。続いて彼にとって大きな意味をもつジャズ・レーベル、ブルーノートとの契約を果たす。ブルーノートでは彼の代表作である『ソニー・クラーク・トリオ』(1957)、『クール・ストラッティン』(1958)といったアルバムを出している。ほかにもいわゆるブルーノート・ハード・バップの名盤とよばれる多くの作品にサイドマンとして名を連ねており、彼の評価はこのレーベルの存在を抜きにしては考えられない。
1962年、脚気(かっけ)と心臓病のため入院、1963年退院したものの、麻薬の過剰摂取のため心臓発作を起こし死去。ブルーノート以外の代表作に、タイム・レーベルの『ソニー・クラーク・トリオ』(1960)がある。彼のピアノ・スタイルはバド・パウエルの影響を強く受けたもので、比較的地味な印象を与えるためか、アメリカではさほど一般的人気はなかった。だが、ミュージシャンの間での評価は高く、彼の死後セロニアス・モンク、ホレス・シルバー、ケニー・ドーハムKenny Dorham(1924―1972、トランペット)らによってメモリアル・コンサートが催された。また、その哀調を帯びたタッチから、日本のジャズ・ファンの人気は非常に高い。
[後藤雅洋]
クラーク(Larry Clark)
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Larry Clark
(1943― )
アメリカの写真家、映画監督。オクラホマ州タルサ生まれ。乳幼児専門の写真家であった母親の仕事を手伝うことで写真に興味を抱く。1963年、オクラホマ・シティのレイトン美術学校を卒業後にタルサに戻り、幼なじみの不良仲間を撮影し始める。ドキュメンタリー映画のように「セックスとドラッグとロックン・ロールの日々」をストレートなドキュメントとして綴(つづ)った写真は、1971年に写真集『タルサ』Tulsaにまとめられ、同時代の写真表現に決定的といえるような衝撃を与えた。互いに薬を打ち合う男女、警察の密告者への暴行など、たしかに暴力的でセンセーショナルなイメージが多いが、全体としては抑制され、静まりかえった印象を受ける。とりわけ、自然光を巧みに生かしたライティングにより、むしろ古典的といえるような味わいさえ生じている。
クラークは、『タルサ』によって一躍アメリカ写真界の寵児となるが、その後ドラッグと酒に溺(おぼ)れ、1975年から暴力事件とピストル不法所持によって5年間の刑務所暮らしをおくる。1983年に刊行された『ティーンエイジ・ラスト』Teenage Lustは、彼の再起を期した写真集であり、より自伝的な要素が強まっている。巻末の長文インタビューを含めて、子供のころの家族写真、傷害事件の新聞記事、裁判の調書などがアトランダムに挿入されたコラージュ的な構成のなかでとくに目だつのは、10代の男女のポルノグラフィーすれすれの性行為の描写である。しかし、そこには覗(のぞ)き見趣味的ないやらしさはなく、むしろ写真家自身もその状況のなかに巻き込まれていくことで、彼らの生命力の発露が肯定的な眼差しでとらえられている。
『ティーンエイジ・ラスト』で試みられたコラージュ的な構成は次の写真集『1992』Larry Clark;1992(1992)では、より徹底的に突き詰められている。『1992』は断ち落としの写真が300ページ以上も続く写真集で、自殺ごっこをしている少年のさまざまなポーズを執拗(しつよう)に追い続けている。このようなティーンエイジャーの性と死と暴力に対する強いこだわりは、1993年の写真集『完璧な少年時代』The Perfect Childhoodでも、さらに追求されることになる。ここでは、成熟が遅く、性的に正常ではないというコンプレックスに悩んでいた彼自身の少年期の記憶が、殺人や強姦(ごうかん)の罪を犯した少年たちの犯罪記事やテレビの映像から二重映しに浮かび上がってくるような構造をとっている。それはある意味で、写真やコラージュによる自己回復の試みとみなすこともできるだろう。
1995年には、彼の映画監督第一作である『キッズ』が公開された。スケートボーダーたちの日常を、エイズの影を絡ませて淡々と描いた『キッズ』は、1996年(平成8)に日本でも上映され、カルト的な人気を集めた。1998年には映画監督第二作の『アナザー・デイ・イン・パラダイス』が公開されるなど、プライベート・ドキュメンタリーの手法を生かした映画の作り手としても注目を集めるようになってきている。
[飯沢耕太郎]
資料 監督作品一覧
KIDS キッズ Kids(1995)
アナザー・デイ・イン・パラダイス Another Day in Paradise(1998)
BULLY ブリー Bully(2002)
獣人繁殖 Teenage Caveman(2002)
Ken Park ケン パーク Ken Park(2002)
ワサップ! Wassup Rockers(2005)
『「特集ラリー・クラーク」(『デジャ=ヴュ』No.13・1993・フォト・プラネット)』▽『「特集ラリー・クラーク」(『美術手帖』1996年8月号・美術出版社)』▽『飯沢耕太郎著『フォトグラファーズ』(1996・作品社)』▽『Tulsa (1971, Lustrum Press, New York)』▽『Teenage Lust (1983, Millerton, New York)』▽『Larry Clark;1992 (1992, Thea Westreich, New York/Gisela Capitain, Cologne)』▽『The Perfect Childhood (1993, Scalo Verlag, Zürich)』
クラーク(Colin Grant Clark)
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Colin Grant Clark
(1905―1989)
イギリスの経済学者、統計学者。オックスフォード大学で化学を学んだが、のちに経済学や統計学の研究に転じた。ハーバード大学助手、ケンブリッジ大学講師などを経て、1937年オーストラリアに渡り、メルボルン、シドニーなどの大学の客員講師を歴任し、またオーストラリア労働産業省の次官などの官職についたこともある。その後53年にイギリスに帰り、オックスフォード大学農業経済学研究所所長になった。彼は、主著『経済進歩の諸条件』The Conditions of Economic Progress(1940)において、各国の統計を利用して国際単位という統計学的操作によって国民所得の国際比較を行ったが、そのなかで産業を第一次、第二次、第三次の三つに分け、経済発展に伴って産業構造が第一次から第二次へ、さらに第二次から第三次産業へと比重を移していくことを実証的に明らかにし、ペティの法則と名づけた。
[志田 明]
『大川一司他訳篇『経済進歩の諸条件』上下(1968・勁草書房)』▽『杉崎真一訳、馬場啓之助監修『人口増加と土地利用』(1973・農政調査委員会)』
クラーク(William Smith Clark)
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William Smith Clark
(1826―1886)
札幌(さっぽろ)農学校(北海道大学の前身)の創設者。アメリカのマサチューセッツ州に生まれる。アマースト大学およびドイツのゲッティンゲン大学に学び、鉱物学、化学を専攻。帰国後母校のアマースト大学の化学教授に就任し、南北戦争では義勇軍に入隊し大佐に昇進した。1867~1879年アマーストのマサチューセッツ農科大学学長となる。北海道開拓事業をつかさどる政府機関である開拓使の懇望により同大学長のまま、1876年(明治9)6月来日し、8月開校の札幌農学校初代教頭に就任。事実上の創設者となった。
彼は細かな学則を否定して「予がこの学校に臨む規則は、Be gentleman!只(ただ)この一言に尽くる」といい、故意に規律を守らない者に対しては、「只退学あるのみ」といった。また厳格なピューリタンとしてキリスト教精神に基づく人間教育を行い、内村鑑三(うちむらかんぞう)はじめ多くの人材を出した。在職1年、1877年4月帰国にあたり、“Boys, be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.”(青年よ、人間の本分をなすべく大望を抱け)の名言を残したことは有名である。1886年3月9日アマーストで61歳の生涯を閉じた。
[梅溪 昇 2018年8月21日]
『原田一典著『お雇い外国人13 開拓』(1975・鹿島出版会)』
クラーク(John Maurice Clark)
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John Maurice Clark
(1884―1963)
アメリカの経済学者。父は著名な経済学者J・B・クラーク。マサチューセッツ州ノーサンプトンに生まれる。1905年アマースト大学を卒業し、コロンビア大学で修士号と博士号を取得した。コロラド、アマースト、シカゴの各大学を経て、26年コロンビア大学の経済学の教授となる。アメリカ経済学会第37代会長。
クラークは、父の経済学の衣鉢を継ぎ、新古典派の完全競争理論を手掛りに、それを現実の経済に近づけるうえで制度学派的接近方法を採用し、重要な貢献も少なくない。とりわけ、完全競争にかわる有効競争workable competitionの概念を提出し産業組織論の分野を開拓したこと、加速度原理と景気循環に関する先駆的研究、社会的費用と私的費用の区別、会計上の費用と経済学者の費用概念の区別などの貢献はよく知られている。主著に『地方の運賃差別に関する合理的基準』Standards of Reasonableness in Local Freight Discriminations(1910)、『間接費の経済学の研究』Studies in the Economics of Overhead Costs(1923)、『景気循環の諸要因』Strategic Factors in Business Cycles(1934)、『動態的過程としての競争』Competition as a Dynamic Process(1961)などがある。
[佐藤隆三]
クラーク(Arthur C. Clarke)
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Arthur C. Clarke
(1917―2008)
イギリスのSF作家。キングズ・カレッジで物理学と数学を専攻。1946年、短編『太陽系最後の日』を発表してデビューした。初期の作風の特徴は、豊富な科学技術の知識を駆使して現代科学の発達を可能な限り正確に予測した近未来を描くことにあり、『火星の砂』(1952)、『海底牧場』(1957)などがそれにあたるが、20世紀末、突如出現した外宇宙からの宇宙船団によって地球が支配され、人類の文明が新たな進化に向かう過程を描いた『地球幼年期の終わり』(1953)は単にクラークの代表作にとどまらず、1950年代のSFを代表する名編。
1979年『楽園の泉』の発表を最後に隠退を声明したが、おもな作品には、ほかに『銀河帝国の崩壊』(1953)、同名の映画化とタイアップして書かれた『2001年宇宙の旅』(1968)、自伝的エッセイ集『スリランカから世界を眺めて』(1978)など多数ある。
[厚木 淳]
クラーク(Alvan Clark)
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Alvan Clark
(1804―1887)
アメリカの望遠鏡製作者。1824~1844年は肖像画家として働いていたが、1846年光学会社を設立、もっぱら望遠鏡の製作に従事し、大型かつ精密な望遠鏡の提供により、近代天文学の発展に貢献した。彼の製作になるおもな望遠鏡は、プリンストン大学(口径23インチ)、海軍天文台およびバージニア大学(26インチ)、プルコボ天文台(30インチ)などに設置された。
長子グラハムAlvan Graham Clark(1832―1897)も父の技(わざ)を継ぎ、1862年製作の18インチ望遠鏡は、その試観測の機会にシリウスの伴星(白色矮星(わいせい))を発見、検出した。ついで1888年にリック天文台に36インチ鏡を、さらに1889年にヤーキス天文台に40インチ鏡を設置した。後者は現在でも世界最大の屈折鏡である。
[島村福太郎]
クラーク(John Bates Clark)
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John Bates Clark
(1847―1938)
アメリカの経済学者。ピューリタン。ロード・アイランド州プロビデンスに生まれる。アマースト大学卒業後、3年にわたりドイツに留学し、K・クニースのもとでドイツ前期歴史学派の影響を受ける。帰国後、カールトン大学で教鞭(きょうべん)をとる。制度学派の創始者T・ベブレンはそのときの学生。その後、スミス、アマースト大学を経て、1895年コロンビア大学の教授となる。アメリカ経済学会第3代会長。
1870年代の、W・S・ジェボンズ、C・メンガー、L・ワルラスにはやや遅れをとったが、クラークは独自に、86年に限界効用理論を、99年にはさらに限界生産力的分配論を展開し、いわばアメリカにおいて限界革命の一翼を担った。また、クラークは、比較静学的分析の先駆者でもあった。しかし、歴史学派の洗礼を受けたクラークには社会倫理的視点も鮮明であり、効率と同時に公正を重視する点が特徴となっている。主著には『富の哲学』The Philosophy of Wealth(1886)、『富の分配――賃金・利子および利潤の理論』The Distribution of Wealth : A Theory of Wages, Interest and Profits(1899)、『トラストの統制』The Control of Trusts(1901)などがある。
[佐藤隆三]
クラーク(Frank Wigglesworth Clarke)
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Frank Wigglesworth Clarke
(1847―1931)
アメリカの地球化学者。ボストンに生まれる。ハーバード大学で分析化学を学び、シンシナティ大学教授となる。1883年合衆国地質調査所に移ってから岩石・鉱物の化学組成を研究し、多くの分析を行うとともに資料を集め、1908年に『Data of Geochemistry』(地球化学データ)を著した。また地殻の平均化学組成を試算し、元素の地殻存在度を推定した。クラークの算出した数値はそれぞれの元素のクラーク数とよばれ広く用いられた(現在の存在度はクラーク以後に計算されたもの)。万国原子量協会International Committee on Atomic Weights(ICAW)の議長を長年にわたって務めた。
[橋本光男]
クラーク(Samuel Clarke)
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Samuel Clarke
(1675―1729)
イギリスの神学者、哲学者、イギリス国教会の司祭。ケンブリッジ大学卒業。独学でニュートン物理学を学び、その信奉者となった。宮廷付きの司祭を20年務め没す。ニュートン物理学の解釈をめぐるライプニッツとの往復書簡(1715~1716)は有名。唯物論や汎神(はんしん)論に対し、正統的キリスト教を擁護する『神の存在と属性』(1704)では、理性の強調と数学的方法による神の存在と属性の論証を試みた。また道徳の客観性を強調し、それを数学規則とアナロジカルな事物・行為そのものの普遍的「適合性」に求めた。ライプニッツとの論争では、ニュートンの絶対空間・時間を神の感覚器官とする説を擁護し、引力の概念をスコラ的にではなく、実証的に解釈すべきことを主張した。
[小池英光 2015年7月21日]
クラーク(ロシアの富裕な農民)
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кулак/Kulak ロシア語
ロシアの富裕な農民、農村ブルジョアジー。1861年の農奴解放後に成立し、20世紀初めには農家の5分の1を占めた。ロシア政府は、1905年革命後、ストルイピン改革によってクラークを育成強化し、農村における政権の支柱としようとした。17年の十月革命後、国内戦期には反革命の社会的基礎となったが、食糧徴発制によって打撃を受けた。21年以後のネップ(新経済政策)期において、土地国有という条件やソビエト政府の政策によってその力は制限されていたが、27年には農家の4~5%、すなわち100万戸以上になっていた。ジノビエフ、トロツキーらは、この力を過大に評価してネップの速やかな変更を求め、一国社会主義論争の論点の一つとした。スターリンは反対派を敗北させたのち、穀物危機に直面して政策を転換、29年末からクラークの激しい抵抗を排して農業経営の集団化を強行、クラークを階級として清算し、農業、家畜などの生産手段をコルホーズの財産とした。
[木村英亮]
クラーク(Sir Kenneth Mackenzie Clark)
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Sir Kenneth Mackenzie Clark
(1903―1983)
イギリスの美術史学者、美術評論家。オックスフォード大学に学び、のちフィレンツェに渡ってベレンソンに師事。イタリア・ルネサンス美術の専門家と認められるようになって、ロンドン・ナショナル・ギャラリー館長(1934~45)となる。さらにオックスフォード大学教授のほか、イギリス美術協会会長、大英博物館理事、独立テレビ放送協会会長などの要職を務め、広く評論や啓蒙(けいもう)活動も行い、1969年男爵に叙せられた。主著に『ゴシック・リバイバル』(1925)、『レオナルド・ダ・ビンチ』(1939)、『風景画論』(1949)、『ザ・ヌード』(1956)などがある。
[鹿島 享]
『高階秀爾訳『絵画の見方』(1977・白水社)』▽『丸山修吉・大河原賢治訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1981・法政大学出版局)』
クラーク(Jim H.Clark)
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Jim H.Clark
(1944― )
アメリカの実業家。ユタ大学博士課程を終了後、スタンフォード大学準教授を経て、1982年シリコングラフィックス社(SGI)を設立。映画『ジュラシック・パーク』のCGなどを手がけて成功を収め、年間収益22億ドルの企業に育て上げる。1994年同社を辞職し、23歳のマーク・アンドリーセンMarc Andreessen(1971― )を副社長に迎え新ソフト会社モザイク・コミュニケーションズを設立、会長兼最高経営責任者(CEO)。ホームページ用の閲覧ソフト「ネットスケープ・ナビゲーター」を開発。社名をネットスケープ・コミュニケーションズに改称。アメリカのベンチャー企業の旗手的存在である。
[編集部]
クラーク(Michel de Klerk)
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Michel de Klerk
(1884―1923)
オランダの建築家。14歳からE・カイペルスのもとで設計を修業し、1910年代に入って独立。ファン・D・メイ、L・クラメルと協同して、海運ビルをアムステルダムに完成(1916)させて以来、有機的で視覚的変化に富んだいわゆる「アムステルダム派」特有の建築を次々と発表して注目され、同派の中心的存在となった。なかでも彼の建築家としての真価は集合住宅の設計において発揮され、アイヘン・ハール集合住宅地や、デ・ダヘラート集合地に実現した建物などに、その天才的な構想力と情感あふれる意匠力が今日に至るまで伝えられている。
[長谷川堯]