クラーク(Sonny Clark)(読み)くらーく(英語表記)Sonny Clark

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

クラーク(Sonny Clark)
くらーく
Sonny Clark
(1931―1963)

アメリカのジャズピアニストペンシルベニア州に生まれ、4歳でピアノを習い始める。ブギ・ウギ・ピアノのピート・ジョンソンPete Johnson(1904―1967)が好きで、6歳のときにラジオのアマチュア参加番組でブギ・ウギ・ピアノを演奏。14歳のころラジオで放送されるデューク・エリントン楽団、カウント・ベイシー楽団の演奏を聴いて本格的にジャズに興味をもち、ジャズ・ピアノの巨匠アート・テータムの演奏をレコードで聴く。高校時代はビブラホーン、ベースも演奏し、少年バンドに所属する。母子家庭に育ったため、1951年に母親が亡くなると、ピアニストの兄とともにロサンゼルス叔母のもとに身を寄せる。ちょうどこの時期、ジャズ・シーンの中心はイーストコーストから軍需産業、映画産業で好況を迎えた西海岸へと移りつつあり、ウェスト・コースト・ジャズが活況を呈し始めていた。ロサンゼルス滞在中、テナー・サックス奏者のワーデル・グレイWardell Gray(1921―1955)、ドラム奏者のシェリー・マンShelly Manne(1920―1984)、ギター奏者バーニー・ケッセルBarney Kessel(1923―2004)、アルト・サックス奏者アート・ペッパーといった一流ミュージシャンたちと共演する。

 1953年ベース奏者オスカー・ペティフォードOscar Pettiford(1922―1960)のトリオに加わり、バンドの移動に伴ってサンフランシスコに赴(おもむ)く。ここでクラリネット奏者のバディ・デフランコBuddy DeFranco(1923―2014)に出会い、彼のカルテットのメンバーとなりレコーディングに参加する。1954年にはジャズ評論家レナード・フェザーLeonard Feather (1914―1994)率いる「ジャズU. S. A.」の一員としてヨーロッパに公演旅行を行う。1956年ふたたびロサンゼルスに戻り、白人ベース奏者ハワード・ラムゼーHoward Rumsey(1917―2015)のバンド、ライトハウス・オールスターズのピアニストとなるが、これは典型的な白人ジャズマンによるウェスト・コースト・ジャズで、黒人クラークの感覚にはあわなかった。

 そこで1957年ニューヨークに移り、ベース奏者サム・ジョーンズSam Jones(1924―1981)、ドラム奏者アート・テーラーArt Taylor(1929―1995)とピアノ・トリオを組み、ジャズ・クラブ「バードランド」に出演。テナー・サックス奏者ソニー・ロリンズのアルバム『サウンド・オブ・ソニー』吹き込みに参加する。続いて彼にとって大きな意味をもつジャズ・レーベル、ブルーノートとの契約を果たす。ブルーノートでは彼の代表作である『ソニー・クラーク・トリオ』(1957)、『クール・ストラッティン』(1958)といったアルバムを出している。ほかにもいわゆるブルーノート・ハード・バップの名盤とよばれる多くの作品にサイドマンとして名を連ねており、彼の評価はこのレーベルの存在を抜きにしては考えられない。

 1962年、脚気(かっけ)と心臓病のため入院、1963年退院したものの、麻薬の過剰摂取のため心臓発作を起こし死去。ブルーノート以外の代表作に、タイム・レーベルの『ソニー・クラーク・トリオ』(1960)がある。彼のピアノ・スタイルはバド・パウエルの影響を強く受けたもので、比較的地味な印象を与えるためか、アメリカではさほど一般的人気はなかった。だが、ミュージシャンの間での評価は高く、彼の死後セロニアス・モンク、ホレス・シルバー、ケニー・ドーハムKenny Dorham(1924―1972、トランペット)らによってメモリアル・コンサートが催された。また、その哀調を帯びたタッチから、日本のジャズ・ファンの人気は非常に高い。

[後藤雅洋]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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