クリュニー修道院(読み)クリュニーシュウドウイン

デジタル大辞泉 「クリュニー修道院」の意味・読み・例文・類語

クリュニー‐しゅうどういん〔‐シウダウヰン〕【クリュニー修道院】

Abbaye de Cluny》フランス中東部、ブルゴーニュ‐フランシュ‐コンテ地方、ソーヌ‐エ‐ロアール県の村クリュニーにあったベネディクト会修道院。10世紀初め、アキテーヌ公ギョーム1世が創設。11世紀に修道院の俗化に対抗する改革運動の中心地となったことで知られる。12世紀当時、キリスト教建築の最大の規模を誇り、ブルゴーニュロマネスク様式の傑作とされたが、フランス革命などで荒廃し、現在は遺構がわずかに残るだけとなっている。

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改訂新版 世界大百科事典 「クリュニー修道院」の意味・わかりやすい解説

クリュニー修道院 (クリュニーしゅうどういん)

909-910年に,アキテーヌ公ギヨーム1世によって彼の所領ブルゴーニュのクリュニー荘園内に建設された修道院で,初代修道院長ベルノー以下歴代優れた修道院長をえて修道院改革(クリュニー改革)に空前の成功を収めた。当初からの貧民救済と第2代院長オドーOdo(878ころ-942)から始まる典礼の重視は不安な時代に生きる人々の心を当院に向けさせ,農民のみならず上層階級の支持をも受けた。この修道院の制度的特色をなす分院体制に基づく中央集権的組織は特に11世紀初頭における幾つかの教皇特許状によって,司教権をも排除しうる教皇直属の修道会として強化された。12世紀中期に最盛期を迎え,東は聖地から西はスコットランドまでほとんど全ヨーロッパに約1500の分院を有したが,クリュニー修道会に属さないものでもその修道慣習を採用するものが多かったから,教会生活におけるその影響力は抜群であった。グレゴリウス改革に影響を与えたとされるが,その関係は最近再検討を要するとされている。
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927年献堂の最初のクリュニー修道院付属聖堂については不明。第4代院長マイヨルス(在任948-994)の下に建てられた,いわゆるクリュニー第2聖堂は,主祭室と両側の小祭室が段階的に並ぶいわゆるベネディクト式プランを特色とし,その形式は修道院改革運動の進展と軌を一にして各地に影響を与えた。1088年には第6代院長フーゴー(在任1049-1109)によりさらに大規模な,当時のヨーロッパ最大の,ほとんどゴシック大聖堂に匹敵する規模(長さ約182m)をもつ第3聖堂の建設が開始され,2代後のペトルス・ウェネラビリス(在任1122-56)によって1130年ごろ完成された。第3聖堂は放射状祭室付周廊と二重翼廊の小祭室合わせて15の礼拝堂をもち,おのおの直接採光されている二重側廊をもつ広大な身廊は,特徴的な尖頭円筒穹窿で覆われた。また,タンパンや柱頭は豊かに彫刻が施され,祭室は華麗な壁画で彩られた。〈崇高壮大な美は,神の栄光の地上的象徴であり,その感覚的歓びの享受を通して魂は神の栄光へと導かれる〉という,後にサン・ドニ修道院長シュジェール(スゲリウス)によって表明されることになる芸術理念が,ここに結晶化された。ロマネスク芸術の一方の範例たるクリュニー修道院の芸術は,清貧の美を求める他方のシトー会カルトゥジア会の禁欲的芸術理念と対立し,激しい批判を浴びた。中世のもっとも完ぺきな建築とされた第3聖堂は,フランス革命期に売却解体され(1798-1819),今日では大翼廊南袖廊と内陣柱頭彫刻などをわずかに残すのみで,その全貌は測りがたい。しかし,建築についてはパレ・ル・モニアルParay-le-Monial,彫刻についてはオータン,ベズレー,壁画についてはベルゼ・ラ・ビルBerzé-la-Villeの例などをもって類推されている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クリュニー修道院」の意味・わかりやすい解説

クリュニー修道院
クリュニーしゅうどういん
L'Abbaye de Cluny

フランスのクリュニーを根拠としたベネディクト会修道院。創立は 910年。最初の修道院長はベルノー (在職 906~927) で,彼の指導下に聖堂 (第1期) そのほかの建物が建立された。その後継者たちの時代に,その精神活動は高まり,各地のベネディクト会修道院群の改新を遂行し,11世紀後半のフーゴー院長の時代にはその頂点に達した。第2期クリュニー修道院の建設は,981年頃。三廊十字形のバシリカ式聖堂で,3つの東アプスをもち,筒形ボールトのアトリウムナルテックス,トンネル形ボールトの身廊部から成る。このタイプの聖堂は,ブルゴーニュからノルマンディー,さらにドイツヒルザウの聖堂にまで影響を及ぼした。スペインのサン・ファン・デ・ラ・ペーニャもこの様式。第3期クリュニー修道院は,フーゴー院長時代の 1088~1130年頃に着工され,40年ないし 45年を費やして完成。東西約 184m,身廊部の高さ約 29m。2つの東袖廊 (トランセプト) ,4つのアイル,半円形のアンビュラトリー,5つの放射状に配置された礼拝堂をもち,筒形ボールトの身廊部が交差ボールトの天井をもつ側廊に支えられている。この建築は,当時最大の規模,最新の技術で,またその柱頭彫刻そのほかの彫刻絵画もロマネスク美術の代表的な傑作で,その影響は,ドイツ,スペイン,イタリア,スイスにまで及んでいる。フランス革命によって修道院は廃され,建物の大半は破壊されて,現存しているのは第3期の一部のみである。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「クリュニー修道院」の意味・わかりやすい解説

クリュニー修道院
くりゅにーしゅうどういん
L'Abbaye de Cluny

フランスの中東部、ソーヌ・エ・ロアール県の小村クリュニーにあるベネディクト会修道院。910年アキテーヌ公ギョーム1世が創設に力を貸したこの修道院は司教および封建諸侯から独立してローマ教皇庁と直結し、11世紀に「クリュニーの改革」とよばれた修道院改革の中心となった。2代目修道院長オドーののち、オディロー(在位994~1049)、ユーグ(在位1049~1109)の二大院長時代にはクリュニーだけで400人以上の修道僧が住み、12世紀初頭には約1500の同派修道院がヨーロッパ各地に生まれて一大勢力を誇った。聖ペテロとパウロに捧(ささ)げられた付属教会は1095年に献堂式が行われたが、当時のキリスト教建築中最大の規模をもち、ブルゴーニュ派ロマネスク建築の出発点となった。しかし14世紀にはすでにその勢力は衰え、16世紀の宗教戦争中は荒廃にさらされた。さらにフランス革命ののち1823年には、かつての大修道院のおもかげは失われ、今日みるようなわずかの遺構を残すのみとなった。

[名取四郎]


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百科事典マイペディア 「クリュニー修道院」の意味・わかりやすい解説

クリュニー修道院【クリュニーしゅうどういん】

フランス中東部,ブルゴーニュ地方の古い町クリュニーClunyにあるベネディクト派の修道院。909年―910年アキテーヌ公ギヨーム1世が創設,修道院改革運動(クリュニー改革)の中枢として,最盛期の12世紀中葉には全欧での分院数1500を数え,絶大な影響力を誇った。第6代院長フーゴーの造営になる第3聖堂はロマネスク建築の最高傑作。
→関連項目帝国教会政策ベネディクト会

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旺文社世界史事典 三訂版 「クリュニー修道院」の解説

クリュニー修道院
クリュニーしゅうどういん
Cluny

南フランスのクリュニーにあるベネディクト修道会修道院
アキテーヌ公ギョーム1世によって910年に建設され,11〜12世紀には当時の世俗化した修道院の改革運動の中心となった。戒律の厳格化,肉体労働による修養の重視,世俗権力からの独立を目標とした。西ヨーロッパ全体に強い影響をおよぼし,教皇権強化の支柱となった。教皇グレゴリウス7世やウルバヌス2世はこの派の出身。

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世界大百科事典(旧版)内のクリュニー修道院の言及

【ドイツ】より

…それが叙任権闘争である。その端緒となったのは10世紀に南フランスのクリュニー修道院で起こった教会改革運動であった。聖職売買の批判からはじまったこの運動はやがて私有教会制の否定にまですすみ,世俗君主が聖職者を任免してきたゲルマン諸国の慣習と全面的に対立することになった。…

※「クリュニー修道院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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