グラフジャーナリズム

改訂新版 世界大百科事典 「グラフジャーナリズム」の意味・わかりやすい解説

グラフ・ジャーナリズム

写真や図像など図版を主体とした新聞,雑誌などの出版形態,またはその方法をさす日本での用語。写真が主体の場合はフォトジャーナリズムphoto journalismというが,両者の厳密な区別はされていない。また普通,英語国で《ライフ》や《ルック》などの類をさしていうことばはフォト・ジャーナリズムあるいはピクトリアル・ジャーナリズムpictorial journalismなどであり,グラフ・ジャーナリズムという語は用いられない。

 18世紀中ごろから新聞にスケッチなどが版画の方法で印刷されることがあった。写真が発明された後にイギリスで創刊(1842)された絵入り新聞《イラストレーテッド・ロンドン・ニューズThe Illustrated London News》の場合も,最初は画家の描いた事件情景を木版にして印刷していたし,写真の原画がある場合でも,製版技術がないので木版に彫り起こして印刷した。しかし紙面に写真を元にして描いたという注記をすることで,高い信憑性を打ち出し好評を得た。写真が直接印刷されるのは,網版による製版法が発明されてからで,実用化されたのは20世紀初頭であった。以来新聞や雑誌に写真が印刷されるのは普通のこととなった。その後の印刷技術の進歩は急速で,グラビア印刷やオフセット印刷,およびその製版技術の急成長はグラフ・ジャーナリズムの隆盛をもたらす要因となっている。一方,事件など,さまざまな条件下で行われるジャーナリスティックな写真撮影を支える写真技術の進歩も,印刷技術の急成長とともにグラフ・ジャーナリズムの隆盛をもたらす大きな要因となっている。おもに感光材料の問題から露光時間が長く,発明以来静的な写真しか撮れない状況が50年あまり続いたが,乾板やフィルム製造の産業化とその感光度上昇に伴い,撮影の機動性と速写性が向上し,いわゆるニュース写真ばかりでなく広義の意味での報道写真(ルポルタージュ写真等)や記録写真(ドキュメンタリー写真)などグラフ・ジャーナリズムの可能性を急速に広げた。またフラッシュバルブ(のちにストロボに代わる)や小型カメラの性能向上,とくにドイツのエルンスト・ライツ社のカメラ,ライカLeica出現(1925年,ただし当初はライカという呼び名ではない)の影響は大きく,現在もライカの思想にもとづいた35ミリ判カメラは,ジャーナリスティックな写真取材の主流機材となっている。

 新聞,雑誌に写真が自由に印刷される時代を迎えると,ニュース写真の新鮮さと新奇さの競争が,読者の要求により拍車をかけられて展開した。事件や戦争の写真はつねに読者を熱狂させる対象であったが,他方ルポルタージュ写真やいわゆるフォト・エッセーなど,グラフ・ジャーナリズム特有の表現手法が急速に開拓されていき,新聞社専属のニュース・カメラマンばかりでなく,フリーの報道カメラマンが活動する場もしだいに広がっていった。日本の場合,日露戦争のときはまだ写真印刷は揺籃期にあったが,それでも《東京日日新聞》《東京朝日新聞》は戦場写真をいち早く掲載している(1904)。関東大震災(1923)では新聞,雑誌ばかりでなく多くの画報が出版され,これを契機にグラフ・ジャーナリズムが台頭する。太平洋戦争初期までこの成長は続き質・量ともに隆盛をみるのだが,戦局が行き詰まるとしだいに国策宣伝のみに終始する事態となり,終戦を迎える。欧米の場合,とくに第1次大戦後の経済恐慌のおさまった後のドイツでは《ベルリーナー・イルストリールテ・ツァイトゥングBerliner Illustrierte Zeitung》という写真新聞が生まれ200万部の発行数を誇った。またそれに引き続いて1930年代の半ばごろまでにフランスの《ビュVu》(R.キャパの有名なスペイン内戦の写真などを掲載),イギリスの《ピクチャー・ポストPicture Post》,アメリカの《ライフ》《ルックLook》等が刊行され,グラフ・ジャーナリズムの黄金時代を迎える。なかでも《ライフ》は編集方針と取材領域,方法等に新境地をひらき,グラフ誌の主導的な地位を確立した。この時期ナチス・ドイツを逃れた有能なカメラマンや編集者が各国に散ったが,アメリカはマーケットが広いため,とくに多くの人材が集まった。E.スミスM.バーク・ホワイト,R.キャパなどがそのころの《ライフ》で活躍している。名取洋之助がドイツで修得した報道写真の方法論を日本に持ち帰り,活躍しはじめるのもこの時期であった。

 しかしグラフ誌は,1940-50年代をピークとしてしだいにメディア側の硬直化・マンネリ化が著しくなり,同時に一方ではテレビの普及が盛んになるにつれて,情報化社会の主流は電子メディア等の他の視覚メディアに移行していった。だがそのテレビの普及が飽和点に達し,人々のテレビの映像との接触がきわめて日常的なものになるにつれ,逆に視覚メディアのなかでの写真の特質が明確になって,見直され,ここに広範な映像体験にささえられた,新たな写真メディアの隆盛を促した。その結果としてのグラフ・ジャーナリズムの復興と活性化を,われわれは現在の視覚を主体とした出版の盛況に見ることができるのである。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のグラフジャーナリズムの言及

【組写真】より

…複数の写真を組み合わせて,事物や意見,感情などを伝える一群の写真,あるいはその方法。グラフ・ジャーナリズムの手法として,〈――の一日〉とか〈――のできるまで〉などという形で常用されている。もともと一枚で見る写真は,それだけで完結することを目標に撮影される。…

【ザロモン】より

…ベルリン生れの写真家。1920年代を通じて写真の大量印刷が世界的規模で一般化するが,とくにドイツでは《ベルリーナー・イラストリールテ・ツァイトゥング》をはじめ写真グラフ雑誌が隆盛で,フォトジャーナリズム(グラフ・ジャーナリズム)が社会的に重要な大衆メディアとして確立していた。ザロモンは,小型カメラを隠し持ち,当時,撮影が禁止されていた重要な国際会議場や法廷に現れ,数々の写真をものにしてジャーナリズムをにぎわした。…

【写真】より

…構成主義,シュルレアリスム,新即物主義などの芸術思潮がその作品とともに日本に紹介され,こうした契機から新進気鋭の写真家が単なる趣味を脱した写真表現者としての立場から,写真活動を行うようになった。またこの前後の時期にはグラフ・ジャーナリズムの隆盛から,営業写真家以外のジャーナリスティックな職業写真家が活動の場を得ることになるのだが,その土壌となったのもアマチュア写真家の広い層であった。
[肖像写真の系譜]
 写真の歴史において肖像写真はその初期の段階から特別な地位を占める。…

【スミス】より

…カンザス州のウィチタ生れ。18歳で《ニューズ・ウィーク》,19歳で《ライフ》のスタッフとなったスミスは,以後一貫してフォト・ジャーナリズム(グラフ・ジャーナリズム)の世界を歩んだ。彼の求道的・理想主義的なヒューマニズムはグラフ雑誌編集者との衝突も生んだが,数々の人間愛に満ちた傑作を生みだした。…

【ドキュメンタリー写真】より

…こうして写真がジャーナリズムに取り上げられるようになるのは当然のなりゆきで,19世紀の終りごろから20世紀にかけて急速にニュース写真やフォト・ルポルタージュの分野が専門化し,今日われわれが考えるようなドキュメンタリー写真の素地となった。ドキュメンタリーの概念を明確に意識して撮影がされはじめたのは,おそらく1930年前後のグラフ・ジャーナリズムの隆盛期といってよかろう。写真を主体とした新聞,雑誌が多数出版されるにしたがって,写真によるメッセージの特質が問われはじめた。…

※「グラフジャーナリズム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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