コット(読み)こっと(英語表記)Jan Kott

日本大百科全書(ニッポニカ) 「コット」の意味・わかりやすい解説

コット
こっと
Jan Kott
(1914―2001)

ポーランド出身のアメリカの演劇学者。超現実主義やマルクス主義に接したのち、シェークスピア劇を実存主義的に解釈した『シェークスピア論集』(1961。のちに『シェークスピアはわれらの同時代人』と改題)によって世界的名声を得た。この本は旧来のロマンチックなシェークスピア上演に対する批判の理論的根拠となり、ピーター・ブルックなどの演出家に大きな影響を与えた。ほかの著作には、ギリシア悲劇をやはり現代的に解釈した『神々の肉の宴(うたげ)』(1973)、戦中から戦後にかけての波瀾(はらん)に富んだ人生の回想録『私の物語』(1990)などがある。

[喜志哲雄]

『蜂谷昭雄・喜志哲雄訳『シェイクスピアはわれらの同時代人』新装版(1992・白水社)』『関口時正訳『私の物語』(1994・みすず書房)』『坂倉千鶴訳『カディッシュ タデウシュ・カントルに捧ぐ』(2000・未知谷)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コット」の意味・わかりやすい解説

コット
Kott, Jan

[生]1914.10.27. ワルシャワ
[没]2001.12.22. サンタモニカ,カリフォルニア
ポーランドの演劇学者,文芸評論家。 1936年ワルシャワ大学卒業。第2次世界大戦中は地下活動に加わり,ナチスに抵抗。戦後はワルシャワ大学教授として教鞭をとるかたわら,サルトル,イヨネスコらの戯曲を翻訳。 1961年に『シェークスピア論集』 Szkice o Szekspirzeを出版。これが『シェークスピアはわれらの同時代人』という題でフランス語に翻訳され (1962) ,ヨーロッパに紹介されたため,大きな反響を呼んだ。シェークスピアの作品のなかにある不条理性を指摘したもので,ロイヤル・シェークスピア劇団が上演した P.ブルック演出の『リア王』 (1962) ,P.ホール演出の『バラ戦争』 (1963) をはじめ,1960年代中頃から全世界的な傾向となったシェークスピア劇の現代的解釈と演出は,コットの著書の影響によるところが多い。 1966年アメリカに渡り,エール,カリフォルニア,ニューヨークの各大学で教える。ほかに演劇評論集『演劇ノート』 Theatre Notebook 1947-1967 (1968) ,ギリシア劇を論じた『神々の肉の宴』 The Eating of the Gods (1973) がある。

コット
cotte

13~15世紀に西洋の男女が着用したチュニック風の長上衣やワンピース。それまでのゆったりした表着ブリオー bliautに代って登場し,上にシュールコット surcotを重ね着することも多かった。また,農婦などのはいた短いスカートをもいう。 (→サーコート )  

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改訂新版 世界大百科事典 「コット」の意味・わかりやすい解説

コット
Jan Kott
生没年:1914-2001 

アメリカの演劇学者。ポーランドのワルシャワに生まれ,パリに学んでシュルレアリスムの影響を受けた。第2次大戦前後はマルクス主義者として評論を発表。その後実存主義に近づき,シェークスピア劇を現代の政治や哲学を手がかりに理解した《シェークスピア論集》(1961。後に《シェークスピアはわれらの同時代人》と改題)によって,1960年代のシェークスピア上演や解釈に世界的影響を与えた。他の著作にはギリシア悲劇を構造主義や文化人類学によって理解した《神々の肉の宴》(1973)がある。66年,イェール大学に招かれて渡米,母国の政情の変化のためそのままとどまり,アメリカ市民権を取得した。
執筆者:

コット
cotte

13世紀以来ヨーロッパの男女が着用した,一般には袖つきの毛織物製チュニック。長袖の肌着(シュミーズ)の上に外衣(シュルコ)とアンサンブルで着る。袖なしスリット入りの働き着も,上質のウールや絹で仕立てた立襟広袖つきのおしゃれ着もあった。男性用の短い上衣(プールポアン)が流行するに伴い,16世紀以後すたれ,女性の下着用ローブ,次いでペティコートの類を指すようになった。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「コット」の意味・わかりやすい解説

コット

フランス,ロココ時代の建築家。フランス王室付建築家の家に生まれ,初めJ.H.マンサールの下で働いた。1689年王室付建築家,1708年首席建築家となり,ベルサイユ宮殿の礼拝堂の建築をはじめ,ノートル・ダム大聖堂の改修,マドリードの王宮のプラン作製などに携わった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「コット」の解説

コット
Pierre Cot

1895~1977

早くから空軍の重要性を強調したフランスの政治家。人民戦線政府の空相となり,敗戦後国外でド・ゴールに協力した。戦後は急進社会党を離れ,共産党に近い立場をとった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「コット」の解説

コット Cotte, Joseph

1875-1949 フランスの教育者。
1875年8月25日生まれ。小泉八雲の著作をよんで日本にあこがれ,明治41年(1908)来日。東京帝大でラテン語,古典文学などをおしえる。大正2年東京神田にアテネ-フランセを創立した。昭和24年5月23日東京で死去。73歳。リヨン大卒。

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世界大百科事典(旧版)内のコットの言及

【フランス】より

…1907年日仏協約が結ばれ,12年には日仏銀行,日仏協会が設立された。翌13年にはコットJoseph Cotte(1875‐1949)が東京にアテネ・フランセを開いて,フランス語,フランス文学,ギリシア・ラテン語の教授を始め,多くの日本人をフランス文化に開眼させた。旧制高校のドイツ語教育を軸とするドイツ文化の影響の前に,幕末以来のフランス嗜好が衰えるのを憂えたフランスは,第1次大戦後まずジョッフル元帥を訪日させ,続いて東洋学者クーランをはじめ多くの使節を送ってきた。…

【コート】より

…日本では外套ともいう。語源は,西ヨーロッパ中世に着用されたコットcotteに由来する。外側に着る同種のガウン,ローブ,マント,ジャケットなどとの区別は歴史的に明らかでないが,今日では丈の短い上衣のジャケットとは区別して使われる。…

【コート】より

…日本では外套ともいう。語源は,西ヨーロッパ中世に着用されたコットcotteに由来する。外側に着る同種のガウン,ローブ,マント,ジャケットなどとの区別は歴史的に明らかでないが,今日では丈の短い上衣のジャケットとは区別して使われる。…

※「コット」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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