コルベール(英語表記)Jean-Baptiste Colbert

精選版 日本国語大辞典 「コルベール」の意味・読み・例文・類語

コルベール

(Jean Baptiste Colbert ジャン=バチスト━) フランス政治家。国王ルイ一四世の財務総監となり、重商主義政策によって財政改革を断行。産業の奨励、東インド会社の設立、海軍力の強化を行ない、また学芸を保護奨励した。その政策はコルベルティスムと呼ばれ、絶対王制の確立に貢献。(一六一九‐八三

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デジタル大辞泉 「コルベール」の意味・読み・例文・類語

コルベール(Jean-Baptiste Colbert)

[1619~1683]フランスの政治家・財政家ルイ14世に仕え、財政改革を行い、国内商工業の育成、植民地獲得、海軍増強などの重商主義政策を推進。この政策によりフランスは、イギリスオランダと対抗しうる強国となった。

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改訂新版 世界大百科事典 「コルベール」の意味・わかりやすい解説

コルベール
Jean-Baptiste Colbert
生没年:1619-83

フランスの政治家。生家はランスの毛織物商であったが,後に財政事業にも関与し,政府要人に接触していった。初め陸軍局に入り,宰相マザランに認められ,彼を補佐して財務監督官の職をえた。財務長官フーケと対立し,その手続不備を公金横領と弾劾し,国王ルイ14世に報告して失脚させ(1661),国王の信をえてその後身たる財務総監contrôleur général des financesに任ぜられ,ル・テリエ,リオンヌHugues de Lionneとともに〈三頭支配〉をしく。後に海軍・宮内管掌の国務卿に任ぜられ,建築長官も兼任するなど,幅広い分野に絶大な権力を掌握し,事実上の宰相としてルイ14世の功業を支えた。明晰かつ合理的な頭脳の持主で,卓越した事務能力を信頼されたが,態度や物腰は冷淡でそっけなかったので,そのブルジョア出身の系譜と相まって,出自や社交を重んじる宮廷で嫌われた。一族の者にも専制的に接し,自分と同様の精勤を強いたが,同時に彼らの栄華栄達に腐心して閥族主義を展開した。行政面では,アンタンダン(地方監察官)を整備・常設化して官僚的中央集権を強化した。経済・財政面では,借入れに伴う徴税請負人の不正を処罰し,破産政策を強行して債務を削減し,借入れに依存しない財政の確立のため,租税増収に努めた。当時は“17世紀の全体的危機”といわれる経済不況のただ中にあり,“貨幣不足”が深刻化していた。彼は貨幣の量が国力を決定するとの基本的な観念からも,世界に流通する貴金属,貨幣の中でのフランスの取り分増加を最大の課題とし,貿易を通じてこれを果たすため保護関税を強化し,東インド会社,北方会社などの特権貿易会社を振興し,毛織物,ゴブラン織,ガラスなどの輸出向け産業で特権マニュファクチュールを設立・育成し,非ギルド的な手工業を宣誓ギルドjurandeに編成して統制強化を図った。彼の経済観念も諸施策も革新的なものではなく,すでにラフマ,リシュリューら先駆者をもつが,経済状況の悪化と財政上の要請から,彼の施策は対外的には“貨幣戦争”という著しく攻撃的な性格を帯び,国内でも強権的で煩瑣な国家統制・国家後見を伴い,コルベルティスムColbertismeと総称されて王室的重商主義の典型といわれる。コルベルティスムは間接税の増収など一時的な成果をあげたが,イギリス・オランダの商工業との格差を克服できず,特権事業は不振に陥り,総じて“危機への絶望的対応”にとどまり,高関税率はオランダ戦争を招いて財政を破綻させた。また,工業への食糧・原料の供給源としてのみ考慮された農業は低穀価政策の下で停滞的な状態におかれた。税制面でも,タイユ配賦の公正化など行政的手直しに努めたが,身分的・地方的特権に根ざした弊害を除去できず,関税統合などにわずかな成果をあげただけであった。文化面でも保護と統制の原則を適用し,ル・ブランの指導の下に君主の栄光をたたえる学芸を奨励し,アカデミー・フランセーズを振興したが,自由思想は厳重な検閲制度によって弾圧した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コルベール」の意味・わかりやすい解説

コルベール
Colbert, Claudette

[生]1903.9.13. フランス,パリ
[没]1996.7.30. バルバドス,コブラーズコーブ
アメリカ合衆国の舞台・映画女優。本名 Lily Claudette Chauchoin。1910年頃,家族とともにニューヨークに移住。服飾デザインを学んでいた 1923年,端役でブロードウェーの舞台に立った。1927年の舞台 "The Barker"でカーニバルのヘビつかいを好演し,スター女優として台頭。このとき共演したノーマン・フォスターと 1928年に結婚したが,1934年に離婚。翌 1935年には医師と再婚したが,1968年に死別している。無声映画『力漕一挺身』For The Love of Mike(1927)で映画デビューを果たしたが,最大の魅力である声を聞かせられないことに落胆し,すぐに舞台に戻った。1929年,トーキーの『壁の穴』The Hole in the Wallで映画界に復帰。1934年にはセシル・B.デミル監督の大作『クレオパトラ』Cleopatra,およびロマンチック・コメディの傑作『或る夜の出来事』It Happened One Nightに相次いで主演し,女優として飛躍を遂げた。『或る夜の出来事』では駆け落ちする富豪令嬢役の名演が称賛を浴び,アカデミー賞主演女優賞に輝いた。プロ意識の強い女優としても知られ,写真は顔の左側からしか撮影させなかったという逸話は有名。1989年ジョン・F・ケネディ・センター名誉賞を受賞。

コルベール
Colbert, Jean-Baptiste

[生]1619.8.29. ランス
[没]1683.9.6. パリ
フランスの政治家,財政家。ルイ 14世親政下の財務総監として重商主義的政策 (→コルベールティスム ) を推進した政治家として知られる。ランスの毛織物商人の家に生れる。 J.マザランに仕え,その死後,政敵 N.フーケを失脚させ 1665年財務総監となる。経済先進国オランダに代る近代植民帝国を構想した。そのためリシュリュー以来の集権的官僚制を整備し国家権力の強化をはかった。この国家集権力をもとに,輸出増と輸入制限の保護関税,特権マニュファクチュール,国営工場の創設,農業の奨励 (農民の保護,品種の改良,作物栽培の促進) など国内産業育成政策,海外植民活動拡大政策 (カナダへの移民の奨励) をとった。また商工業の発展を基礎とする間接税重点政策によって国家財政安定に努力した。一方 68年には海軍卿となり,フランスの海上勢力の復興に努めた。また 69年より国務卿として国内の知的・芸術的活動に心を配り,文芸院,科学院,王立建築家協会などを設立した。しかし高関税に基づく極端な保護貿易政策はオランダ戦争勃発の一因となり,戦争の結果はコルベール構想を挫折させ,ルイ 14世にうとんじられ失意のうちに没した。

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百科事典マイペディア 「コルベール」の意味・わかりやすい解説

コルベール

フランスの政治家。商家の出身で初めマザランの家令。ルイ14世親政下に1665年以降財務総監その他の要職を兼ね,外交・軍事以外の全行政に関与した。その重商主義政策は〈コルベルティスム〉の名で知られ,徹底した保護貿易政策,東西両インド会社の設立,海運業の振興,国内基幹産業部門での特権マニュファクチュア設立,一般産業に対する統制強化を内容としている。また行政機構を整備し,大貴族や新興の法服貴族の勢力を抑えて絶対王権の確立に努めた。
→関連項目アカデミー・デ・シアンスカロンル・ブランルーボア

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「コルベール」の解説

コルベール
Jean Baptiste Colbert

1619~83

フランスの政治家。毛織物商の家に生まれ,マザランの推挙によりルイ14世に登用された。1661年財務総監に任じられたほか,多くの職を兼ね,外交・軍事を除く全行政に関与した。特にその重商主義的経済・財政政策はコルベールティスム(Colbertisme)の名で呼ばれ,保護貿易と東インド会社など特権商事会社の振興,王立特権マニュファクチュアの設立,手工業ギルドの統制,保護強化などを主な内容としている。

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旺文社世界史事典 三訂版 「コルベール」の解説

コルベール
Jean Baptiste Colbert

1619〜83
フランスの財政政治家
商人出身。ルイ14世に仕えて財務長官となり,財政および行政の改革,産業の保護・統制,輸出の増大(重商主義)政策をとり,植民地の開拓,海軍力の増強につとめ,絶対主義の経済的基礎の確立をはかった(コルベール主義)。また東インド会社の再建,特権マニュファクチュアの設立など,生産面を含む強力な経済政策を展開した。文化面では,フランス学士院・科学院・芸術院を援助し,古典主義文学を開花させた。

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デジタル大辞泉プラス 「コルベール」の解説

コルベール

《Colbert》フランス海軍の装甲艦。1875年9月竣工、1876年就役。木造の装甲艦で、排水量は約8,750トン。コルベール級の1番艦。同型艦に、トリダンがある。1910年退役。

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世界大百科事典(旧版)内のコルベールの言及

【アカデミー・デ・シアンス】より

…ルイ14世の宰相J.B.コルベールの肝いりで1666年に創設されたフランスの科学アカデミー。フランス革命に際して1793年いったん廃止されたが,95年,フランス学士院の一部として復活し,名称も当初のアカデミー・ロアイヤル・デ・シアンスAcadémie royale des Sciencesから現在の名に変わった。…

【ゴブラン織】より

…また,すぐれた織匠だけではなく,すぐれた下絵画家の必要も叫ばれ,ルイ13世(在位1610‐43)時代には当代一流の画家S.ブーエが王の下絵画家に任命された。 62年,ルイ14世時代に,宰相コルベールはゴブラン家の館を王の名で買い取り,67年ここに王立家具製作所Manufacture des meubles de la Couronneを設立し,画家C.ル・ブランを総監督に任命した(ここでは,タピスリーばかりでなく,家具,金銀・宝石細工など王家用の調度品すべてが生産されることになった)。パリの各地に散在していたタピスリー工房はすべてここに集められ,ル・ブランの厳格な監督のもとにおかれ,徒弟のための学校も設置された。…

【サロン】より

…この名は,展覧会がルーブル宮殿の〈サロン・カレsalon carré(四角の間)〉で開かれたことに由来する。最初のサロンは,J.B.コルベールの発案によって王立アカデミーの主催で1667年に開かれ,以来2年ごとに行われたが,やがて不規則になり,1737年より再び隔年ないしは毎年開かれるようになった。出品者は17~18世紀を通じてアカデミーの会員か準会員,あるいは美術学校の教官に限られ,その範囲では自由に出品できたが,1748年より出品作の検閲が始まり,おもに道徳面でのチェックを行った。…

【ニューフランス】より

…第2期には,フランス首相リシュリューによって組織されたニューフランス会社の指揮の下に植民地の発展が期待されたが,これも進歩をみなかった。そこで第3期には,フランス蔵相コルベールの指揮の下に植民地はフランス国王の直轄するところとなり,総督,地方長官,司教の形成する地方政府の樹立とフランス正規軍の派遣が行われた。この第3期では,フロンテナク総督(1672‐82,1689‐98),J.B.タロン地方長官(1665‐68,1669‐72),F.ラバル司教(1659‐1688)らが実権を握った17世紀後半が最盛期とされる。…

【ローマ賞】より

…コルベールが創設したフランスの若い芸術家に与えられる賞で,ローマのフランス・アカデミー(1803年よりビラ・メディチ)への約3年間の留学を伴うもの。1663年以来,形を変えつつ今日まで続いている。…

※「コルベール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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