コンゴ王国(読み)コンゴおうこく

改訂新版 世界大百科事典 「コンゴ王国」の意味・わかりやすい解説

コンゴ王国 (コンゴおうこく)

中部アフリカ,現在のコンゴザイール)川河口南岸,コンゴ民主共和国からアンゴラ北部にかけての地方を14世紀から19世紀まで支配していた古王国。起源的には,周辺の王国,例えばロアンゴ王国とも共通点があるとされる。民族は,バントゥー系の言語を話すコンゴ族(バコンゴ)で,王国の人口は200万~300万であった。これは現在のコンゴ族の人口250万とほぼ同じである。14世紀後半と推定される王国の創立は,神話的英雄であり,人間に文化をもたらした鍛冶師でもあるヌティヌ・ウェネに帰せられる。この始祖から母系の系譜によってたどられる王(マニ・コンゴと呼ばれる)は,鍛冶師として聖なる力をもつ〈神聖王〉とされ,服従を誓った土着グループの首長たちがこれを補佐した。王国は,1482年以来この地に到来したポルトガル人によって,アフリカの大国としてヨーロッパに紹介された。歴代の王,とりわけカトリック教徒となった16世紀前半のアフォンソは,西欧の技術および制度(なかでも,中央集権的な王宮制度)を導入することに熱心であった。しかしその財源確保のため奴隷輸出の比重が増し,ポルトガル政府すら統制し得ぬ奴隷船貿易商人(サン・トーメ島に根拠地をもっていた)の増長を招いた。次代のディオゴ1世は,人心安定をはかり,ポルトガルの介入を封じるため鎖国的政策を採ったが,国の解体の勢いを止めることはできなかった。代替りごとに行われた王位継承戦争も衰退の要因としてあげられる。やがて周辺王国との戦争,異族の侵入とポルトガル軍の介入,奴隷貿易の中心地がアンゴラへ移ったことなどによって王国は事実上解体し,19世紀末のベルギーおよびポルトガルによる植民地化によって名実ともに王国は消滅した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コンゴ王国」の意味・わかりやすい解説

コンゴ王国
コンゴおうこく
Kongo

中央アフリカ西部,コンゴ川南方に存在した王国。1390年頃にルケニ・ルア・ニミが樹立したとされる。首都はムバンザコンゴ。1483年にポルトガル人が到来。1491年,国王ンジンガ・ア・ンクワと王子ムベンバ・ア・ンジンガはカトリック改宗し,それぞれジョアン1世,アフォンソ1世の洗礼名を受けた。1509年頃に即位したアフォンソ1世は,奴隷貿易などの大西洋交易をめぐってポルトガル商人と対立した。1542年にアフォンソ1世が没したのち,激しい後継者争いが繰り広げられ,この混乱に乗じて 1568年に武装集団ジャガ族が東方から侵攻し王国を制圧した。アルバロ1世(ニミ・ア・ルケニ。在位 1568~87)は,ポルトガル軍の支援を得てようやく事態を収拾した。またガルシア2世(ンカンガ・ア・ルケニ。在位 1641~61)はオランダと手を組み,ポルトガルに対抗した。王国とポルトガルは統治権をめぐって対立し,小規模な衝突を繰り返したが,1665年10月29日にムブウィラの戦い(ウランガの戦い)に発展し,アントニオ1世(ンビタ・ア・ンカンガ)が殺害された。これ以降,王国は名目上は存続したが,統一国家としての機能は果たさず,17世紀末まで内戦が続いた。ポルトガルは後継者争いに介入し,ペドロ5世(アグア・ロサダ・レロ。在位 1859~91)を擁立。1913~14年,ポルトガル人の統治に対してアルバロ・ブタが反乱を起こした。反乱は鎮圧され,これを引き金に王国は崩壊,ポルトガル領アンゴラに併合された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「コンゴ王国」の意味・わかりやすい解説

コンゴ王国
こんごおうこく

14世紀ごろから17世紀にかけて、今日のコンゴ民主共和国(旧ザイール)のコンゴ(ザイール)川河口一帯を版図として繁栄したバントゥー系の王国。伝承によれば、14世紀ごろ東方からこの地に流入してきたニミ・ア・ルケニを首長とするバントゥー系の一族が先住民を征服して建国した。15世紀末、ポルトガル人が渡来する直前のこの国の最盛期には、マニコンゴとよばれる王が、50万平方キロメートルの版図に住む400万~500万人の住民を統治していたといわれる。コンゴ王国は、1482年この地に到来したポルトガルの遠征隊を通じて、ポルトガルと外交関係を結び、交易を行うとともに留学生を派遣した。しかし、奴隷貿易時代に入ると内乱が相次ぎ、18世紀初めまでには完全に滅亡した。

[原口武彦]

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百科事典マイペディア 「コンゴ王国」の意味・わかりやすい解説

コンゴ王国【コンゴおうこく】

現在のコンゴ民主共和国からアンゴラ北部にかけての地に栄えたバントゥー系のコンゴ族の王国。14世紀成立。強固な国家組織を有した大国で,15世紀に渡来したポルトガル人との間にも交易やキリスト教の受容など対等の交流が見られた。しかし16世紀以降のポルトガル人による大西洋奴隷貿易の拡大で,両者の関係は悪化。周辺の勢力との戦乱も重なり王国は著しく衰退,特に19世紀末の完全消滅までの最後の100年ほどは名目的に存続したにすぎなかった。
→関連項目カサイ[川]コンゴ民主共和国

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旺文社世界史事典 三訂版 「コンゴ王国」の解説

コンゴ王国
コンゴおうこく
Congo

14〜19世紀まで現在のコンゴ(前ザイール)からアンゴラ北部にかけての地方を支配していた王国
バントゥー系の言語を話すコンゴ族が建国。王国の創立は14世紀後半と推定される。王国は1482年以来この地に到来したポルトガル人によって,アフリカの大国と紹介された。歴代の王はポルトガルに友好的で,16世紀前半の王がカトリックに改宗,西欧の技術や制度を熱心に導入。しかしその財源確保のため奴隷輸出が増大した。その後,王位継承戦争,周辺王国との戦争,ポルトガル軍の介入,奴隷貿易中心地のアンゴラへの移行などで王国は事実上解体し,19世紀末,ベルギー(コンゴ地区)およびポルトガル(アンゴラ地区)による植民地化によって名実ともに王国は消滅。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「コンゴ王国」の解説

コンゴ王国(コンゴおうこく)
Congo

14~19世紀に中部アフリカのコンゴ川の南から現在のコンゴ民主共和国アンゴラ北部に至る地域を,マニ・コンゴと呼ばれる神聖王がコンゴ・ムバンザを中心に支配した王国。15世紀末のポルトガル人到来後,王は対等かつ友好的関係を築き,カトリックに改宗,西欧技術移入に努めた。16世紀末以降の奴隷貿易活発化による国内の混乱,18世紀以降の王位継承戦争,ポルトガルの介入,隣接諸王国との抗争などで衰退し,19世紀末ベルギーとポルトガルによって植民地化。

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世界大百科事典(旧版)内のコンゴ王国の言及

【アフリカ】より

… ポルトガル人に一時支配された東アフリカの海岸も,ポルトガルの後退後インド洋に進出したヨーロッパ勢力の関心がインドや東南アジアに向けられたため,17~18世紀には,オマーンのアラブ商人が再び活発に東アフリカに渡来するようになった。 ポルトガルの航海者は15世紀にヨーロッパ人としてはじめて先に述べたベニン王国や中部アフリカのコンゴ王国(現,コンゴ民主共和国海岸部)を訪れ,洗練された文化に驚嘆し,これらの国としばらくのあいだ交渉をもった。ポルトガルとの接触を通じてベニンには鉄砲,大量の銅製品が入り,後者は,それ以前から作られていた青銅,シンチュウの工芸品の製作をさらに発展させた。…

【コンゴ民主共和国】より

…現在,ピグミーは北東部のイトゥリの森林のほか,各地に分散して居住している。その後バントゥー族が侵入し,1482年にポルトガルの航海者がコンゴ河口に到着したとき,大西洋沿岸には数々の諸王国が存在していたが,なかでもコンゴ王国は最盛期を迎えていた。当時のコンゴ王国は大西洋岸からクワンゴ川まで,今日のアンゴラ北部,ザイール西部,コンゴ人民共和国南部にかけて,広い領域を支配した。…

※「コンゴ王国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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