コーシー(読み)こーしー(英語表記)Augustin-Louis Cauchy

デジタル大辞泉 「コーシー」の意味・読み・例文・類語

コーシー(Augustin Louis Cauchy)

[1789~1857]フランス数学者。多面体・弾性波応力の理論を確立し、特に微積分の基礎および微分方程式の分野で貢献。著「解析学講義」「微積分法」など。

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精選版 日本国語大辞典 「コーシー」の意味・読み・例文・類語

コーシー

(Augustin-Louis Cauchy オーギュスタン=ルイ━) フランスの数学者。微積分学を基礎づけ、複素関数論の主定理の証明実変数、複素変数の微分方程式の解の存在定理の証明など、解析学の分野に大きな業績をあげた。主著「解析学講義」。(一七八九‐一八五七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「コーシー」の意味・わかりやすい解説

コーシー
こーしー
Augustin-Louis Cauchy
(1789―1857)

フランスの数学者。大革命が勃発(ぼっぱつ)して間のない8月21日、政府の役人の子としてパリに生まれた。1804年にパリのリセ(中等教育機関)に入学し、同年のバカロレア(大学入学資格試験)に合格し、翌1805年16歳でエコール・ポリテクニク(理工科大学校)に入学した。1807年に土木工学校に入学し、1810年に卒業して土木技師となり、シェルブール要塞(ようさい)の構築に参加した。激しい労働のなかで余暇をみつけては数学を勉強し、正多面体は面数が4、6、8、12、20の5種類以外には存在しないことを完全に証明した論文と、凸多面体の面、稜(りょう)、頂点の数をそれぞれF、E、VとするときF+V-E=2が成り立つという「オイラーの定理」を拡張した論文をまとめ、この二つの論文を1811年にパリ科学アカデミーへ提出した。これを審査したルジャンドルに高く評価され、数学の道へ進むよう勧誘された。たまたま要塞構築の中止がうわさされたのを機に、パリへ帰ったコーシーは数学に専念し、次々と論文を発表、1816年にはエコール・ポリテクニクの教授に迎えられるとともに、わずか27歳でパリ科学アカデミー会員にも選ばれた。

 1830年の七月革命でシャルル10世が追放され、ルイ・フィリップが王位についたが、新政府への忠誠を誓うことを拒んだコーシーは、イタリアのトリノ大学に新設された「数理物理学」講座の教授に迎えられ、フランスを離れた。1833年から5年間、シャルル10世の王子の教育のためにプラハに滞在した。1838年パリに帰ったが、公職につくことを許されなかった。1852年ナポレオン3世が王位につくと、学問は政治とは関係がないという立場がとられ、コーシーも新政府への忠誠を誓うことなく、公職に復帰することを許されたが、すでに老境にあったコーシーは、学界に復帰してまもなく1857年5月25日にパリ郊外で永眠した。

 コーシーの業績の大部分は、解析学の領域に属し、解析学の基礎を強固にするものばかりであり、20世紀への大きな遺産となっているものも少なくない。その業績を大別すると、実変数の場合と複素変数の場合の二つである。しかし、いずれの場合にも不完全な点があり、後世の者がこの不備を修正するために、新しい概念を導入して、一段と飛躍した解析学を建設したのである。そのことを考慮に入れると、コーシーが自己の解析学を集録した『解析学講義』(1821)は、後世への遺産となるべきものを数多く伝えている。この名著には出ていないが、偏微分方程式の「初期値問題」の研究がある。コーシー自身が解決できなかったものを、フランスの数学者アダマールが類型的に整理して『コーシーの問題』という名で公刊し、この問題の解決に資している。

[小堀 憲]

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改訂新版 世界大百科事典 「コーシー」の意味・わかりやすい解説

コーシー
Augustin-Louis Cauchy
生没年:1789-1857

フランスの数学者。パリに生まれ,1805年にエコール・ポリテクニクに入学,07年にエコール・ポン・ゼ・ショセ(土木工学校)に入学,10年卒業して土木技師となる。シェルブール要塞の構築に参加したが,まもなくこの職場を捨ててパリへ帰り,エコール・ポリテクニク,パリ大学,コレージュ・ド・フランスの教授を順次歴任した。30年7月の革命で王位についたルイ・フィリップへの忠誠を拒み,イタリアのトリノへ亡命した。その後,前国王シャルル10世の王子の教育係としてプラハへ移る。38年にパリへ帰るが公職に就くことは許されなかった。ナポレオン3世は即位すると,宣誓ぬきでパリ大学へ復帰することを許し,57年5月23日にパリの南郊外のソーで他界するまで,この地位に就いていた。

 700編を超す論文を残しているが,大部分は解析学に属するものである。関数の定義,連続性,定積分,級数の和,収束,収束円など,コーシー以前にはなかった概念を導入している。また,微分方程式の解の単独性といった問題を提起している。ことにコーシーの名を数学史上不朽のものにしたのは,複素数を変数とする関数の線積分に関するもので,1814年から50年にかけてはぐくまれたものである。後世,関数論と名付けるものを基礎づけたもので,このときに樹立されたものを関数論における基本定理と名付けている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コーシー」の意味・わかりやすい解説

コーシー
Cauchy, Augustin Louis, Baron

[生]1789.8.21. パリ
[没]1857.5.23. セーヌ,ソー
フランスの数学者。エコール・ポリテクニク (1805~07) ,土木学校 (07~10) に学んだのち,数年間技師として働く。 1813年病気にかかったとき,父の友人 J.ラグランジュ,P.ラプラスのすすめで数学者になる決心をする。 16年よりエコール・ポリテクニクやコレージュ・ド・フランスなどで教えていたが,30年の七月革命のとき,新しい国王ルイ・フィリップに忠誠を誓うのを嫌ってイタリアに亡命。トリノ大学で数理物理学を教える。 38年フランスに戻り,52年ナポレオン3世が即位すると再びエコール・ポリテクニク教授となる。主著『解析学教程』 (21) では極限と連続性の明確な概念に基づいて,論理的に厳密な方法で微積分を展開。 19世紀から 20世紀へと続く厳密な数学は,その起りの多くをコーシーに負っている。級数論,複素関数論,整数論,微分方程式論,群論などを研究しただけでなく,天文学,力学,光学などにも業績を残している。テーラーの定理を最初に厳密に証明したのは彼である。

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百科事典マイペディア 「コーシー」の意味・わかりやすい解説

コーシー

フランスの数学者。エコール・ポリテクニクを出て技術将校となったが,数学にもどり1815年エコール・ポリテクニク教授。王党を支持し1830年の七月革命で亡命,1838年帰国,1848年パリ大学教授。関数の連続性,極限,級数の収束等の概念を明確にし近代解析学を基礎づけ,複素数関数論を創始,微分方程式の解の存在定理を証明した。また弾性流体,光学等も研究。
→関連項目関数論

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世界大百科事典(旧版)内のコーシーの言及

【関数論】より

…L.オイラーは公式eiθ=cosθ+isinθを導いたり,複素数の対数についてその多価性を発見したりしている。また,オイラーやA.C.クレーローは,流体力学を論ずるのに複素線積分を用いて,今日,コーシー=リーマン方程式と呼ばれる関係式を導いている。けれども,このころは,実関数に関する二つの式を複素関数を用いて一つの式で表すといった便宜的なものにすぎなかった。…

【実関数論】より

…微積分学およびそこから発展して実変数の関数について論ずる解析学の主要な分野の一つである。17世紀後半にI.ニュートン,G.W.F.ライプニッツによって発見された微分積分法は,19世紀前半に至ってA.L.コーシーによって一応の体系が整えられた。すなわち,彼は極限の概念を定式化することにより解析学の基礎を築いた。…

※「コーシー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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