コール(読み)こーる(英語表記)George Douglas Howard Cole

日本大百科全書(ニッポニカ) 「コール」の意味・わかりやすい解説

コール(金融用語)
こーる
call

金融用語で、請求ありしだい決済される(呼べば戻る)資金取引の意。金融機関が支払準備の過不足を、相互に、ごく短期に調節する市場をコール市場call money marketといい、その市場において取引される資金をコール資金という。日本では普通、コール資金を貸し手(出し手)の側からはコールローンcall loanとよび、借り手(取り手)の側からはコールマネーcall moneyとよぶ。コール資金の取引金利がコールレートcall rateである。日本でのコール市場は1901年(明治34)の金融恐慌の経験に基づき、自然発生的に成立・発展したといわれ、もっとも古い歴史を有する短期金融市場である。

[井上 裕]

仕組み・機能

コール取引は短資業者を仲介として行われるのが主体であるが、1990年代終わりごろ以降、金融機関が直接に相対で行うDDコールDirect Deal callも増えている。この短資業者には東京短資株式会社(1909年4月設立)、セントラル短資株式会社(2001年4月、旧名古屋短資・日本短資・山根短資の3社合併)、上田八木短資株式会社(2001年7月、旧上田短資と八木短資の2社合併)がある。また、担保付きの取引(有担コール)と無担保の取引(無担コール)があり、担保としては国債・政府保証債・政府短期証券・地方債・金融債・一流社債などが用いられる。コール取引では、1927年(昭和2)の金融恐慌のおりの無担コール依存への反省から、有担保が原則となっていた。その後、金融自由化・国際化の進展などから、1985年(昭和60)7月には、在日外国銀行の強い要請等を背景に、無担コールが再発足した。コール市場は個別金融機関間の短期資金需給の調整の場であると同時に、日本銀行の金融市場調節の場でもある。すなわち、日本銀行は日々の金融調節を通じて金融機関の支払準備に働きかけ、望ましい市場金利水準に誘導するようにしている。

[井上 裕]

種類・構成

コール資金の種類は有担コールと無担コールに2大別される。また期間別には、翌日物(オーバーナイト物。O/N=over night)、期日物(2~6日物、1~4週物、1~4か月物、4か月以上)等がある。2008年(平成20)6月の末残高ベースでみると、担保別には有担41%、無担59%、期間別には翌日物38%、期日物62%(うち2~6日物2%、1~4週物20%、1~4か月物33%、4か月以上7%)である。なお、無担コール比重の推移を同じく末残高でみると、1990年51%、1995年76%、2000年77%と増えたが、バブル経済崩壊後の金融システム動揺等から2005年には36%と減少した。その後、金融情勢の安定化や量的緩和政策の解除等を受けて回復、2007年には64%となった。

[井上 裕]

市場参加者

市場の取引当事者は各金融機関と短資業者である。前記と同様に2008年6月の末残高で取引規模の参加者別構成をみると以下のようである。資金の取り手としては、有担コールで都市銀行等(新生銀行=現在のSBI新生銀行、あおぞら銀行を含む)56%、証券証金(第一種金融商品取引業者および証券金融会社)18%、外国銀行8%、無担コールで都市銀行等21%、証券証金19%、外国銀行44%などが主体。また、資金の出し手としては有担コールで信託銀行73%、地方銀行・第二地方銀行18%、無担コールで信託銀行21%、地方銀行・第二地方銀行15%、生命保険・損害保険会社11%、農林系統金融機関10%などが主体。

[井上 裕]

1970年代後半以降の動き

1970年代の終わりごろから1980年代にかけて、日本の金融自由化・国際化の大きな流れが進展したが、この一環として、短期金融市場でも規制緩和や自由化が進められた。コール市場関係のものをあげると、コールレートの建値弾力化(1978年6月)、コールレートの建値撤廃、全面自由化および2~6日物新設による期間多様化(1979年4月)、一部証券会社のコール取入れを容認(1980年11月)、都市銀行のコール放出を容認(1981年4月)、無担保コール市場創設(1985年7月)、オファー・ビッド方式の導入(1990年11月)などである。

 また、前記の金融システムの長い不安定化から、無担コールなどの短期金融市場取引について、相手の信用力に応じて信用供与限度額(クレジットラインcredit line)を厳格に設定する傾向が生じた。さらに、金融政策運営との関連での1990年代終わりごろ以降の動きは以下のようである。日本銀行は、1998年の日本銀行法改正後からコールレートの誘導目標水準を公表したが、1998年9月~1999年2月には無担保コールレート(オーバーナイト物)の誘導水準を約0.25%に(「超低金利政策」)、1999年2月以降には「限りなくゼロに」(「ゼロ金利政策」)設定した。この後、2001年3月からは金融調節の操作目標を「潤沢な日銀当座預金残高」自体に移行(「量的緩和政策」)、そして2006年3月には操作目標を金利(無担保コールレート・オーバーナイト物)に復帰、2007年2月にはその目標水準を0.5%前後とした。しかし、2008年秋ごろからアメリカのサブプライムローン問題に端を発した金融危機が世界的規模に拡大したことから、日本銀行は政策金利の誘導目標を同年10月に0.3%、12月に0.1%まで引き下げた(計数出所は日本銀行『金融経済統計月報』および「コール市場残高」統計)。

[井上 裕]

 2013年(平成25)に「量的・質的金融緩和」が開始され、日本銀行は金融市場調節の主たる操作目標を無担保コールレートからマネタリーベースに変更した。

[編集部]

『日本銀行金融研究所編『わが国の金融制度』(1995・日本信用調査)』『日本銀行金融研究所編『新しい日本銀行――その機能と業務』増補版(2004・有斐閣)』『鹿野嘉昭著『日本の金融制度』(2001・東洋経済新報社)』『白川方明著『現代の金融政策――理論と実際』(2008・日本経済新聞出版社)』


コール(George Douglas Howard Cole)
こーる
George Douglas Howard Cole
(1889―1959)

イギリスの経済学者、社会主義理論家、労働運動研究家。オックスフォード大学在学中からW・モリスなどの影響を受けて労働運動や社会主義に関心をもち、1908年独立労働党フェビアン協会に参加し、1914年にはフェビアン調査局の書記となって労働運動の調査研究に従事した。しかし当時のフェビアン協会の保守的傾向に不満をもち、ギルド社会主義にひかれてその運動に身を投じ、1915年にはナショナル・ギルド連盟の結成に参加し、指導的な役割を果たした。しかし第一次世界大戦後、ギルド社会主義運動の分裂を機に身を引いて、1925年にオックスフォード大学の経済学講師となった。1931年にはウェッブ夫妻らとともに新フェビアン調査局を設立して社会問題の調査活動を行い、またフェビアン協会の再建にあたってその議長(1939~1946、1948~1950)や会長(1952)にも就任した。この間、1944年から1957年までオックスフォード大学で社会政治理論の教授を務め、また進歩的雑誌『ニュー・ステーツマン・アンド・ネーション』の編集に携わったこともある。

 彼の理論的立場は、当初からギルド社会主義や大陸のサンジカリズムに傾倒し、またマルクス主義を高く評価しながらも、それとは一線を画するものであった。彼の社会主義論は、労働者階級の階級的利益の立場にたちながらもヨーロッパの伝統的自由主義を堅持するものであって、労働運動における人民の自発的意志に基づく小自治組織を核とする社会改革を目ざすものであった。また、彼は第二次世界大戦後、朝鮮戦争に参加した国連軍やハンガリー事件におけるソ連の行動を批判し、半植民地・開発途上国の民衆の運動を支持するなど、自由な社会主義の立場を貫いた。著書は、イギリス労働運動の通史として著名な『イギリス労働運動小史』全3巻(1925~1927、改訂版1948)、フランス革命以降の社会主義の通史である『社会主義思想史』全5巻(1953~1960)などの歴史書のほか、『産業自治論』(1917)、『社会主義経済学』(1950)など多数に上り、また伝記や推理小説なども書いている。

[藤田勝次郎]


コール(Helmut Kohl)
こーる
Helmut Kohl
(1930―2017)

ドイツ連邦共和国の第6代首相。ライン川沿いのルートウィヒスハーフェン生まれ。第二次世界大戦後、17歳でキリスト教民主同盟(CDU)に入党。フランクフルト、ハイデルベルク両大学で法律を学んだのち、党活動に専念。市会議員、州議会議員を経て、39歳でラインラント・プファルツ州首相。1973年CDU党首に選出され、1976年から連邦議会議員となる。1982年社会民主党(SPD)のシュミット政権崩壊後、自由民主党(FDP)と連立の連邦首相に就任、翌1983年の総選挙で保守中道政治を掲げて圧勝、政権の座を固めた。1989年秋、東欧諸国の共産政権の崩壊、続くベルリンの壁崩壊と東ドイツでの統一支持勢力の台頭をみてコール首相は慎重派を押しのけ、1990年10月国民悲願のドイツ統一を実現させた。統一直後の総選挙でも第一党の地位(議席数319)を確保、第二党のSPD(同239)に圧勝、引き続き政権を担当し、1992年のEU(ヨーロッパ連合)条約の成立とそれに基づくEU共通通貨(ユーロ)の誕生にリーダーシップを発揮した。その後、1998年9月の任期満了に伴う総選挙で、保守与党連合のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)は、政権復帰をねらう最大野党の社会民主党に大敗した。同年10月コール首相は退陣し、シュレーダーの率いる社会民主党(SPD)と緑の党の連立政府に交代、16年間にわたるコール政権は幕を閉じた。

[藤村瞬一]


コール(Thomas Cole)
こーる
Thomas Cole
(1801―1848)

アメリカの画家。アメリカ最初の画派ハドソン・リバー派の創始者で風景画家。イギリスのランカシャーに生まれる。17歳のときオハイオ州に移住。フィラデルフィアのペンシルベニア美術学校で学ぶ。1825年ニューヨークで発表した風景作品が注目され、彼とデュランドを中心とするハドソン・リバー派が形成された。おもにハドソン川の流域の景観を描いたため、その名がある。彼は大自然を聖書と見立てて忠実に描写することに努めたが、ほかに寓意(ぐうい)的な作品も描いており、『人生航路』『帝国の道程』などが有名。19世紀の思想家エマソンの超越主義に対応する画家として評価されている。

[桑原住雄]

『大河内昭爾訳『五輪書』(教育社現代訳新書)』



コール(Nat “King” Cole)
こーる
Nat “King” Cole
(1917―1965)

アメリカのジャズ・ピアノ奏者、歌手。アラバマ州生まれ。少年時代にプロ入りし、1939年にギターとベースを加えたトリオを結成、スマートな演奏で好評を博した。48年にレコード『ネイチャー・ボーイ』がヒットして彼の歌唱の人気が高まり、51年トリオを解散、歌手活動に専念。『モナ・リザ』ほかの大ヒットでポピュラーなスターになり、映画にも出演した。温かい人間味と洗練されたセンス、黒人らしい哀愁感が魅力。長女ナタリー・コールも歌手として知られる。

[青木 啓]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コール」の意味・わかりやすい解説

コール
Kohl, Helmut

[生]1930.4.3. ルートウィヒスハーフェン
[没]2017.6.16. ルートウィヒスハーフェン
ドイツの政治家。ドイツ連邦共和国(西ドイツ)首相(在任 1982~90),ドイツ首相(在任 1990~98)。17歳でキリスト教民主同盟 CDUに入党。1958年にハイデルベルク大学で政治科学の博士号を取得する。1959年ラインラントファルツ州議会議員に選出され,1969年に同州首相に就任するとともに CDU副党首の座についた。1973年6月ライナー・バルツェル党首の後任に選ばれた。当初ラインラントファルツという小さな州で活躍していたため,内外にあまり存在を知られていなかったが,党首就任後は中道路線を表明,しだいに人気を集めた。1982年,ドイツ社会民主党 SPDと連立政権を組んでいた自由民主党 FDPとの連立工作に成功すると,建設的不信任案でシュミット政権を退陣に追い込み,首相に就任した。翌 1983年の総選挙で連立政権を勝利に導き,中道路線を推し進めた。1989年11月の「ベルリンの壁」崩壊後の東西ドイツ統一にイニシアチブを発揮し,1990年10月3日にはドイツ統一の偉業を達成した(→ドイツ統一問題)。ヨーロッパ統合の旗手としても活躍した。16年の長きにわたって長期政権を保ったが,1998年の総選挙でゲアハルト・シュレーダー率いる SPDに敗れ退陣。同 1998年12月ヨーロッパ連合 EUの会議でヨーロッパ統合の功績をたたえ「ヨーロッパ名誉市民」の称号を贈られた。1999年にスキャンダルが発覚し,2000年に CDU名誉党首を辞任した。

コール
Cole, Thomas

[生]1801.2.1. ランカシャー,ボールトンルムール
[没]1848.2.11. キャッツキル
アメリカの風景画家。ハドソン川派の創設者。イギリスに生れたが 1819年家族とともにアメリカのフィラデルフィアに移住。 23~25年ペンシルバニア美術学校に学ぶ。 29年から3年間ヨーロッパ,おもにイタリアに滞在,C.ロランや J.ターナーの歴史的風景画,ローマの古代遺跡などから刺激を受けた。帰国後はニューヨーク州のキャッツキルに定住し,ロマンチックな主題を組入れた風景画を描く。『エデンの園からの追放』 (1828,ボストン美術館) ,『キャッツキルにて』 (37,メトロポリタン美術館) ,『人生の旅』 (41) などはアメリカの美術史における記念碑的作品。

コール
Cole, Fay-Cooper (Redfield)

[生]1881.8.8. ミシガン,プレーンウェル
[没]1961.9.3. カリフォルニア,サンタバーバラ
アメリカの人類学者,民族学者。ベルリン大学,コロンビア大学で人類学を学び,1906年よりフィールド博物学博物館の民族調査官,12~23年同マレー民族・形質人類学副部長,24~48年シカゴ大学教授を歴任。この間アメリカ中西部 (1899~1904) ,フィリピン (06~12) ,スマトラ,ジャワ,ボルネオ (22~23) と多くの野外調査を行なった。主著"Wild Tribes of Davao District" (1913) ,"Tradition of Tinguian" (22) ,"The Story of Man" (37) ,"Peoples of Malaysia" (45) など。

コール
Cole, George Douglas Howard

[生]1889.9.25. イーリング
[没]1959.1.14. ロンドン郊外
ギルド社会主義理論を主唱したイギリスの政治,社会学者。少年期から社会主義に興味をもち,1908年に独立労働党とフェビアン協会に加入。オックスフォード大学在学中は同大学社会主義連盟議長をつとめた。 15年以後ギルド社会主義の理論家として活躍。スペイン内乱では人民戦線政府を支持し,イギリスの人民戦線結成を主張して労働党を除名された。第2次世界大戦後,オックスフォード大学社会・政治理論教授となる。主著『産業自治論』 (1917) ,『イギリス労働運動史』 (25~27) 。

コール
Cole, Sir Henry

[生]1808.7.15. バス
[没]1882.4.18. ロンドン
イギリスの官吏,産業美術運動の推進者。ロンドンの公記録保存所に勤務しながら絵を学び,1841年からフェリックス・サマリーの名で公共記念物案内書や幼児本に挿絵を描いて出版。その後,美術協会理事となって美術と商工業の一体化を提唱し,工業デザイン運動の先覚者として活動。 51年のロンドン万国博覧会開催を提唱し,その実現の推進力となる。その後サウスケンジントン美術館 (現ロンドン,ビクトリア・アンド・アルバート美術館) や王立アルバート・ホール,王立音楽学校などの創立に尽力した。

コール
Cole, William

[生]1714
[没]1782
イギリスの古物収集家。ケンブリッジ大学を卒業。国教会牧師をつとめるかたわら,ケンブリッジおよび周辺諸州ならびにケンブリッジ大学に関する写本を収集し,大英博物館に遺贈した。

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